もう丑の刻も過ぎているだろう。下弦を通り越し、朔に近くなった月は未だ中天手前をうろつくばかりだ。
 そろそろ日輪が起き出す準備を始めているだろうに、弦月はもたもたと夜空をのたうったまま、晩春にさしかかった庭を照らしている。
 さぞかし不思議な光景だろう。一人の子供がもう一人の腹に馬乗りになって、さあお前の力を見せてみろとばかりに拳を構えている。
 引き倒された方は、つまりわっちは、細い月の光に浮かんだ松寿丸様の顔を見上げられずにいた。髪が乱れていたのは幸いだ。松寿丸様の目から、わっちの目を守っていられる。

 「おい、まだか」

 さすがにじれてきたのか、不満を載せた声がかけられる。そんな勝手な。
 わっちは顔をあげて、困り果てた表情を晒した。

 「申し訳ございません。拳でも口でも、語るようなことは持ち合わせておらんのです」

 そう、本当に語ることなど何もない。あるのは語らずとも良いことばかり。
 まあ泥水をすすりながらもここまで生きてきたのだ、それなりに宝のような思い出たちも持ってはいるが、わざわざ松寿丸様に聞かせるような話でもない。思い出というのは南蛮菓子と同じだ。席を共にした者とは一時のうまみを共有し、その希少性ゆえ一期一会のようなものだから、日が過ぎて後はそのうまみを思い返して堪能する。食べたことのない相手にうまみを語れど意味は無く、必定記憶をなぞるという一人遊びのような、密やかに楽しむものとなるのだ。
 しかし松寿丸様は、それでは納得しなかったらしい。

 「ならば、我が暴いてやる」
 「はい?」
 「貴様、滅びた武家の子だろう」

 へらへらと開いていた口を閉じた。

 「それもただの武家ではない。上層武家だ」
 「―――それがどうしたというのです。落魄れりゃ、武家も乞喰になりましょう。珍しくもない」
 「古い血を継ぐ―――あるいは、毛利などよりずっと格式のある武家だ。先程は、落城の夢でも見ていたか」

 肥前でばさらものを見たと言っていたな。貴様、肥前の大名の子か。

 空気が張り詰めている。
 まるで月を弓に仕立てて、弓弦を張ったように、ぴんと。松寿丸様がわっちに向けて構える弓は、父上の持っておられた長弓ではない。昔一度だけ目にした絵巻にあった、蒙古の小弓でもない。弓弦を引く力の無い幼児に与えられる雀小弓だ。雀程度しか落とせぬ弓のくせに、空気ばかりは一人前の強弓だ。

 「九州には、鎌倉以来の古武士の名家が多い。毛利は平安よりの大江の血をほこりながら、鎌倉の御代には相模から越後へ、そして安芸へとおちぶれて、昨今では領土の保全もままならぬ。島津や大内、大友、伊東などの名だたる名族・守護とは比べものにならぬ」
 「小領主の毛利と、天下人大内殿を比べるなど、そりゃ不遜というものでしょう」
 「規模の話ではない。血の話をしている」

 松寿丸様は、公家のように綺麗な顔をしておられる。
 しかしそれよりも、と、松寿丸様はわっちの頬を引っ張った。

 「ひ、ひひゃいれす」
 「我の生母は福原の女よ。ここらの武家の血はとうのむかしに泥臭い。最早貴種さえ貴種とは呼べぬ」

 しかして九州の名族は、地下人との混血を嫌い上層のみでの縁組を行うという。
 鎌倉か、あるいは平安か、古に興った武家は近親婚や同階級との縁組によって、今もなおその特徴を留めているらしい。

 「貴様は地下人ではない。貴様の血に一滴の農民でも混じっておれば、この骨格はありえない。貴様、水鏡に己を映したことはあるか。杉の大方様のお顔立ちと比べたことがあるか。貴様が気付いているかは知らぬが、貴様の顔立ちこそが素性を語っている。垢にまみれようと、骨と振る舞いは誤魔化せぬ。地下人にしては、貴様のかけらは品が良すぎる」

 それでは、落ち武者狩りから逃げられようはずもない。空気自体が違うのだ。
 しかも、文字も読めない無学者だというのに、貴様の考え方は武門のそれだ。産湯から武家の桶に浸かっておらねば染みつかぬ。
 松寿丸様は、言ってやったという顔をした。

 「……おみそれいたしました、と言えば満足ですかえ? わっちの出自など暴いてどうするのです」

 今更落ち武者狩りに突きだすつもりか。馬鹿らしい。わっちの首を欲しがった連中は海の向こうだ。そもそもそのつもりなら、わっちに何も教えず裏切るのが常套だろう。秘密を知ったなどと宣言しては、わっちに逃げてくれと言っているようなものだ。別に逃げんが。逃げたところで、極楽などどこにもないのだ。
 それに、わっちを売るなら一連の―――未だに信じられんが、わっちを心配しての行動(?)とも整合性がとれん。何がしたいのだ、この人は。
 ばれてしまったなら仕方がないと開き直り、けろっと認めたわっちに松寿丸様は思いっきり嫌そうな顔をした。

 「その顔をやめよ」
 「今松寿丸様がおっしゃいましたように、先祖代々受け継いだ顔ですえ」
 「違う。貴様の、何もかも飲みこんだような、ものわかりの良い顔が気に食わん」

 わっちの胸倉を掴み上げ、至近距離まで引き上げて、松寿丸様はいらいらと額をぶつけてきた。

 「なぜ、吐かぬ!」

 いつまで言葉を飲みこむつもりだ、と松寿丸様は癇癪を起した。これだけ挑発しているのに、といったところか。それとも、ここまで理解しているのだから、どんな泣き言を言っても受け入れてやるとでもいうのか。甘い。

 「言葉は腹にためておくと腐るのだ。腐って、腹が真黒にただれる。そこから芽を出す種がろくなものであるはずがない」
 「つまり松寿丸様は、わっちの鬱屈したあれこれを聞いてやって、わっちの糸がぶっちぎれて謀反でも起こす前にすっきりさせてやろうと、そういうわけですかな」

 「―――恐れながら、余計なお気遣いは御無用ですわい」

 多分、わっちは今、ものすごく怒っているのだろう。多分としか言えないのは、どうもわっちの怒りは外よりも内に篭る性質らしいからだ。それこそ松寿丸様の言うただれた腹だ。煮え滾る油が壺に注がれているようなものだ。いずれこれが噴出するなら、その現れ方はろくなものではあるまいて。まさに腹黒というものだろう。
 のう、松寿丸様よ。人が心に折り畳んだ物事を根掘り葉掘り、意地でも掘り返そうとするなどと、傲慢も良いところですぞ。
 例え発端となった感情がなんであっても、そんなやり方でわっちが嬉し涙流しながら吐くと思いますかえ。
 黒い感情が澱のように堆積していく。

 「松寿丸様に受けとめていただくようなことではござらんし、受けとめていただきたいとも思いませぬ」

 過去はわっちのもんです。わっちだけで抱えていけます。
 解決できるものも解決できんものもあろうが、それでも人に慰めて貰おうとも思わん。辛かったなどと泣き言を並べ、同情を買ってどうなるというのだ。
 しかし松寿丸様は一瞬呆気に取られたように目を瞬き、それから愉快に堪えぬとでも言いたげに高笑った。東端が白んできた空に高い声が吸い込まれる。
 一体何事かと毒気を抜かれたわっちを機嫌よく見下ろして、「お前も案外阿呆よな」と得意気な一言。

 「誰が受けとめてやるなどと言った? 甘えるな。よく覚えておけ、我らは孤児よ。利用しようとする者どもはあれど、無償で助けてくれる者などおらぬ」

 吐き捨てるでもなく、松寿丸様はただ事実としてそう語った。
 杉の大方様や福原様という立派な庇護者がありながら、この人は彼らの目に映る自分が決して情愛の対象になりきれないことを明確に断じている。その上で、そのような冷徹な思考をおくびにも出さぬのだ。「我が儘になりきれたほうの勝ちだ」。茜差す庭で語られた言葉には、ここまでの冷たい洞察が仕込んであったのか。自分の状況も、周囲の思惑も見抜いている。その観察眼は、松寿丸様に好意的な人物さえも逃すことはない。
 ざわり、と、体の中で何かが騒いだ。それはあるいは武家の血か。
 松寿丸様の唇が動く。全霊がその動きに注目していた。

 「なればこそ、我は貴様が欲しいのだ」

 東の端から夜明けが来る。
 日輪の最初の光を頬に受け、松寿丸様の目が猛禽の光を顕わにした。
 安芸の片田舎、草と肥に埋もれるような小さな屋敷で、わっちの体は柄にもなく震えていた。
 きっと、武者震いというやつだろう。
 滅びたはずの武家の子が、もう一度生まれた瞬間だった。





 夜明けの孤児


まじめな話はここまで

伊達家もそうなのですが、
古くからの上流階級の人は、
顔立ち結構違ったそうです
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