「殿。其方は生きねばなりません」
 「生きて貴き血を守り、そして御家の再興を―――」


 遠く燃え盛る炎の影が、赤黒い闇を焦がしている。
 炎の先端というものは美しいのだなと、頭の端が考えた。あれの根元で崩れ落ちる城を臨んでいたけれど、見ようとはしていなかったのだろう。木々の狭間、火の胎に浮かぶ城の影は炭のようだ。
 と、どおんと雷鳴のような音と共に光が弾けて、城の屋根が吹っ飛んだ。おかげで炎も一段低くなる。燃料がどこぞに飛ばされたのだ、おかげで天守の焼け落ちる様を見ずに済んだと喜ぶべきか。
 引き攣るような泣き声が幾重にも木霊している。ああ、ああ、ああ。あまりにも悲痛なものだから振り返ると、そこは夜とも思えぬほどに白かった。そうか、もう昼か。腐った木と生い茂るシダを踏んで歩く。修験者か、そうでなければ落ち武者が好んで歩くような山道に分け入り、絹の衣を脱ぎ捨てて盗んだ襤褸を身に纏う。切り傷擦り傷を数多とこしらえた腕は泥と垢で酷い有様だ。だが、己の手を引く細い手が、同じように汚れてしまっていることが何より悲しかった。
 灌木を抜けると、薄汚れた衣やら、麻で織った簡素な衣。男たちの手には鋤、鍬、鎌、刀。付き従っていた武者の肉に刃物が刺さる音を聞きながら逃げて、裸の足が爪を失くして血を吹いた。それで足を止めれば爪どころか命がない。駆け抜けて、駆け抜けて、でも男たちはいつまでだって追ってきた。落ち武者狩りの農民、町衆、侍、農民、町衆、侍、農民…
 キャー! 高い声が響いて振り向けば、母に抱かれていた弟が。弟が、
 自分を捕えた者たちの異様な興奮状態を敏感に察知して、泣きじゃくる幼い弟。伸ばした手は刑場の柵に阻まれる。振り返った幼い顔と、これは上級武士の子だと歓声をあげる顔が重なる。目の前に柵はない。最初からなかった。でも、助けになんて行かなかった。行ったら自分が死んでいた。
 だみ声と泣き声が遠く潮のように去り、ようやく助けに行かなくちゃと思い当たる。眼前に泣きじゃくる弟。まだ短い手を伸ばし、垢にまみれた腕に捉えられている。けれども自分の体にも、細い手が巻きついていた。行っては駄目。其方まで殺されてしまう。

 「殿。其方は、其方だけは生きねばなりません」
 「生きて貴き血を守り、そして御家の再興を―――」

 細い手が体をまさぐり始め、己はそれを別のところから見ている。いつの間にか手が巻きついているのは見知らぬ男の体で、まぐわう一組の傍らで己はごみを漁ることに集中していた。隣り合う二つの生。痩せさばらえた手が小銭を渡し微笑んだ。これで夕餉を食べてきなさい。わたくしはいらないから。小銭を握り締め、尻を差し出し、小銭を貰う。小銭を渡すと、荒れた唇が慟哭を発した。其方がすることではない。尊いと教えられた孝心が母を悲嘆に暮れさせる。

 「殿。其方は生きねばなりません」
 「生きて貴き血を守り、そして御家の再興を―――」





 どはーっ! とわっちは跳び起きた。腿にびしゃりと冷たいものが落っこちる。なんぞ、と摘まみあげたら雑巾だった。濡れ雑巾。さあ考えよう、息苦しくて乱打を繰り返す心臓と濡れた顔面、濡れた雑巾。

 「……お手打ちなら刀ですっぱりお願いします……」

 濡れ雑巾で鼻と口を塞ぐとは、なんて陰湿な殺意だ。助かっても二重の意味で泣きたくなる。
 殺人未遂犯は素知らぬ顔でわっちの葛藤を受け流し、眉一つ動かさぬ厚顔で「目が覚めたか」と一言言った。ああ覚めましたとも、目覚めが一瞬遅けりゃ永遠に眠っとりましたがな!

 「うなされておったぞ」
 「はあ、それで起こして下さったので」
 できればもう少し穏便に起こして欲しかったものだが。
 どうも、あの悪夢は途中から、この凶悪極まりない主の試みが引き起こしたものではないかと思わずにはいられない。
 「やかましかったわ。あと一言でも漏らしたら、腹を殴ろうかと思った」
 起きて良かった! 窒息寸前に感謝!

 目が闇に慣れてきて、松寿丸様の寝巻がぼんやり見えてくる。相変わらず眉をしかめたお顔も。

 「誰ぞの幼名を連呼しておった」
 「………はあ、そうですか……申し訳ございませんが、わっち、どんな夢を見ていたか忘れて…」
 「うそだな」

 断言した松寿丸様は、わっちの胸倉を掴み上げた。暗闇の中、至近距離で向き合うことになる。これって絵面的に中々あやしーような。
 ふざけようとするわっちに対し、松寿丸様はこれ以上の苦虫顔ができるのかというほど顔を歪めた。ぐ、と手に力が入り、立ちあがった松寿丸様に釣られて引き上げられる。
 松寿丸様は無言で障子を開け、月光に青く染められた庭へわっちを放りだした。咄嗟に受け身をとって転がったわっちに、いつの間に井戸辺に立ったのか松寿丸様は汲み置いた水(多分雑巾を濡らしたやつだ)をぶっかける。ようやく立ちあがろうとしたわっちに水は直撃し、派手な音共に寝巻はべったりと濡れてしまった。さ、寒い。
 思わず縮こまったわっちに今度は木の棒が投げつけられる。さすがにはたき落としたが、カランカランと音を立てて転がった棒はそこらの棒でも薪でもなくて木刀だった。何故。見れば松寿丸様も同じものを構えている。ちょ、あんた木刀なんてどこから出した。寝巻の袷が四次元にでも繋がっているのか。

 「これは一体、何の真似でしょう」
 「かかってこい」
 「いやいや、稽古は昼日中に嫌と言うほど」
 「稽古ではないわ」

 松寿丸様はそう言うと、一息に距離を詰めた。上段に振りかぶった剣先を必死で避ける。

 「逃げるな!」
 「逃げいでか!」

 泥が跳ね、寝巻に土が擦りつけられる。ただでさえわっちは濡れているのだ。突然始まった理不尽な状況に戸惑いながら、わっちは松寿丸様から逃げ回った。もうこの人嫌だ。

 「いい加減にしてくださいよう、杉の大方様が起きちまう」
 「起きても手出しはしてこんわ。あのお方の頭の巡りを甘く見るな」

 どういうことだろうと隙を見せたのがまずかった。松寿丸様がわっちの襟首を捕え、二人して勢いよく地面に転がる。猫の喧嘩のように馬乗りになった松寿丸様の目は鋭く、だというのに己の優勢にも何も感じていないかのような冷静さがあった。普通、興奮して嗜虐的な色だとか、優越感だとかがあるはずなのに。松寿丸様は機嫌が悪そうに眉をしかめる。

 「貴様、なぜ我を殴らぬ」
 「そういう趣味をお持ちとは」
 「まぜっかえすな。貴様、ここまでされておいて、怒りをおぼえんのか」

 何を言っているのか分からない。
 なんだこの人、本当にそういう趣味でもあんのか。
 松寿丸様はぎゅっと目を眇めた。

 「貴様は阿呆だ。うっぷんを晴らす方法を知らんと見える」
 「………わっちがわからんのは松寿丸様の思考回路だと思いますが……」
 「阿呆め。メザシごときにふるった長広舌はどうした。貴様の舌はやはりつかいものにならぬ」

 だから木刀を渡してやったのに、と松寿丸様は続けた。
 えーとつまり、可能な限り好意的に解釈するならば、

 @ 松寿丸様はうなされていたわっちを心配してくれて、
 A どうにかして愚痴を聞いてあげようと
 B でもわっちがしゃべろうとしないから
 C 水をぶっかけたり木刀で襲いかかったり挑発して
 D せめて体を動かすことで気を晴らさせよう

 ということか。いやまさかなあ。そんなはず………まじで?
 目は口ほどに物を言う、どうやら理解したらしいと判断したのか、松寿丸様はふんっと鼻を鳴らしてこうのたまった。

 「男なら拳で語れ」

 阿呆か。





 デスペラード!


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