西のお山にカラスがカアカア帰っていく。カラスが鳴くから帰りましょ、帰る場所は歩いて三歩、しかして歩く気力もありゃあせん。 気分は完全にぼろきれだ。今なら侍女に捨てられた雑巾とお友達になれる。 松寿丸様に続き福原様にさんざしごかれたわっちは土埃まみれで地面に転がり、立ち上がる力すら湧いてこない。もうここで寝る、熟睡できる。 無様に転がるわっちの右斜め上、低木の根元には松寿丸様が手足を放り出して座り込んでいる。容赦なく稽古されたため、左頬が少し腫れていた。目に沁みるような西日に照らされて、乱れたお髪が頬に濃い影を落としている。 「松寿丸様ぁ…立てますか〜…?」 「……やかましい」 「ちぃとは加減してくださいよぅ。立てなくなるまで向かっていくなんて、付き合わされるわっちの身にもなってくだされ」 「文句をたれるでないわ。お前は我の小姓だろう、主人にしたがうのが小姓の役目ぞ」 「生き地獄に付き合うくらいなら地獄に落ちまする」 「軟弱者め。乞喰らしく生き意地のきたなさを見せてみよ」 「お忘れですかえ、わっちは乞喰でも解死人ですぞ」 生き意地なんぞ犬に食わせました。わっちがここに生きているのは、杉の大方様に買われたからにすぎない。厭になったらいつでも、どんな末路を辿ろうと構いやしないのだ。それこそお手打ちでも恨みはせん。義理以外に生きる理由も思いつかんしのう。 けらけらと笑うわっちに松寿丸様は鋭い舌打ちをし、貴様のような男を小姓にするとはな、と悪態を吐いた。 「松寿丸様こそどもならんではないですか。骨も伸びきらぬうちに無理な修行を重ねては、成長に障りがあるとどこぞで聞きましたぞ」 「貴様、それは我に対する異見か?」 「危なっかしい主に忠告ですわえ」 「いつからそんなにえらくなった」 「親切は素直に受け取りなされ」 「………」 信用できるものか、と松寿丸様の目が語る。むう、そんな気がしてはいたが、わっちの主は人間不信の気があるな。 わっちは溜息をひとつ吐き出した。いちち、切れた唇の端が痛む。 「立て、。そろそろ夕餉ぞ。食わぬならさっさと床で寝ろ。あしたまでに回復せねばゆるさぬ。あしたも稽古をするからな」 「は、……明日? 無理、無理です。明日は筋肉痛です、太鼓判押しますえ」 「回復しろと言ったぞ。あしたは広俊は来ぬ。一日貴様に相手をさせる」 雨よ降れ! 明日の稽古なんぞ洗い流してしまえ! 狭い館では木刀を振り回すことができない。雨ならばやっとうの稽古なんぞせんでいい。 強情な松寿丸様は木刀を杖にして立ち上がろうとしている。わっちは眩暈を覚えながら、「学問はいかがなさるのです」と問うた。せめて半日は休みたい。松寿丸様は今日一文字も文字を追っていないから、学問を盾にすれば短縮されるかも。 しかし松寿丸様は「学問など、」と鼻であしらった。 「古臭い理屈をならべたところで何も変わらぬ。我が欲するのはこれのみよ」 松寿丸様は己の木刀をぐっと握った。何やら、思いつめた顔をしてらっしゃる。まるで親の仇でも見るようだ。おお怖。 しかしそれにしても。やっとうにばかり打ち込む松寿丸様の横顔は、生き急いでいるような印象を免れん。なんというか、駆り立てられるとか追い立てられるという言葉がよく似合う。 「母者が言ってた言葉ですがの。急がば回れ、というのは中々に真理だそうですよ」 何故に、松寿丸様は、そんなに生き急がれます。 お家は兄君が継ぎ、不遇とはいえ支えてくれる家臣も居、将来は分家筋としてまあまあ楽な立場になるであろうに、松寿丸様はまるで孤独のうちに生きているような顔をする。眉間の皺がほぐれないのがその証拠ですえ。 「………つよくならねばならぬのだ」 松寿丸様はぽつりと言った。 西日を背負って、顔は影に沈んでいる。表情を窺うことはできない。薄汚れた着物が覆う幼い肩の線を西日が後光のように輝かせ、その落差がいっそ哀れを誘う。 「我はばさらものになりたい」 「婆沙羅者?」 それはあれですか、たった一人で一軍を滅ぼし、この世の摂理を無視した奇怪を巻き起こすあの化け物じみた連中ですか。 思わず尋ねれば、松寿丸様が疲労を感じさせぬ勢いでわっちに飛びついてきた。 「貴様っ! ばさらものを知っているのか!」 「ぐえ、ぇ、え、はいまあ」 「どこで見た! いや、どうやったらなれる!」 ちょ、待って待って! 絞まってる、首絞まってる! 見事な絞め技をかましながら、鬼気迫る勢いの松寿丸様の目はキラキラしていた。若干怖い。 わっちは松寿丸様の魔手を逃れ、肥前にて一度、と答えた。あれは恐ろしい光景だった。思い返しても身が震える。あんな化け物がおったらそら城も落ちるというもんだ。 婆沙羅者はしばらくわっちの夢さえ悩ませた。そのうち額に角が生えて巨大化して火を噴いた。恐るべき火の七日間を夢見て飛び起きた頃には、婆沙羅者はすっかり巨神兵と化していた。恐怖だ。 「それで、ばさらものになる方法は。吐け」 「申し訳ございません。知りません」 むしろ、早々なれるもんでなければいい。あんな連中が修行でごろごろ量産されるようになってみろ、辻説法の坊さんがくっちゃべるこの世の終わりが訪れる。天然か天災か何かの間違いであるのが一番いい。 しかし松寿丸様にとってはそうではなかったようで、あからさまに肩を落として落ち込んだ。ずずんと青黒い影まで見える。正直誰だという感想を抱かずにはいられない。能面凶眼強情者、そんな形容の似合うわっちの主はどこへ行った。 「……松寿丸様は、本当に婆沙羅者になりたいので?」 「ああ……」 「なんでまたあんな化け物に……」 松寿丸様がきっと目を尖らせる。だからこそよ。 「我は、力がほしい」 「それはそうでしょうが」 時は群雄割拠の乱世だ。強いに越したことはない。 しかし松寿丸様のお立場なら、前線で血刀片手に特攻をかけるより一軍の差配を振るう方に回ると思うのだがなあ。 「……父上や兄上のことは聞いているか」 「まあ、あらましは」 なんでも松寿丸様の父君、先代毛利家当主弘元様は、細川と大内と足利将軍によるごたごた劇に巻き込まれ、心労と酒毒のため過労死なさったとか。兄君の興元様は家督相続と祝言を終えるや否や、大内殿に連れられて京都までお供。領国にもなかなか帰れず、これまた心労を募らせておられるらしい。小領主の悲しさだ。労災が降りないのもまたきつい。 「我は、父上や兄上のようになりたくない…!」 そう言った松寿丸様は、あの追いつめられた表情をしておられた。 ああ、なるほど。 そういうことだったのか。 「………兄君には、たしかお子がございましたな」 「まだ娘しかおらぬ」 「ああ……それでは……」 (さぞ、周りがうるさかろう) 領国に帰れぬ兄君、のさばる譜代家臣、独立性の強い家臣団ときては、先代の血を引く松寿丸様の周囲に雑音が絶えることはあるまい。 毛利は、大内氏の影響下にある小領主。その下につく家臣たちとの力の差はさほどない。第一、ここらの大名小名なぞ有力な国人どもの寄合みたいなものだ。その中でたった一掻き進んだ者を主としているのだから、こんな議長みたいな存在、一度嵐に吹かれればたちまち後塵へと没してしまう。 しかし大内氏という大大名との関係もあることだから、領主と同程度、いやそれ以上の力を持った家臣どもの考えることはただ一つ。 (傀儡と、乗っ取り―――…) わっちは新参者だから、福原様やら杉の大方様やらの思惑を読み解くことはできないが、松寿丸様を神輿に乗せて担ごうとしている魂胆はわかる。 ことに松寿丸様は今不遇だ。家臣団の中でも、軽重の偏りがあるのは間違いあるまい。そしてそこに嫉妬怨念侠気その他が絡むのも。 自らが擁立した主が主家を継げば、影響力は計り知れない。主家の子供だから倫理的な筋目からいっても謀反して独立するより批難されることは少ないし、大内氏からの圧迫は主家が受けるから間接的なもので済む。まさに一石二鳥というわけだ。 どこのお家でも派閥は形成されるものだ。しかし、望んでもいないのに神輿にされる方はたまったものではない。 松寿丸様の叫びは、そんな弱体な毛利家への反発であり、のさばる家臣への反抗だろう。 「……杉の大方様の言った通りだ。貴様、頭のめぐりはわるくないらしい。くわえてひどく淡白だ」 わっちの目を覗き込んで、松寿丸様は苦く笑った。子供の笑い方ではないのう。 「これでわかったろう、我はばさらものになる。ならねばならぬ」 我が我として生きるために。 そう宣言した松寿丸様は凛と強く見えたけども、残念ながらそれは短絡的だとわっちは思う。 「婆沙羅者になったからとて、周りがそうそう変わるとは思いませんぞ。むしろうるさくなりましょう」 「ならば毛利家などしらぬ」 「……今、なんと?」 「ばさらものならば、どこぞで一旗あげることもたやすかろう」 あっさりお家を切り捨てると吐いた松寿丸様は、唖然とするわっちに小馬鹿にしたような視線を送った。 今気づいた、松寿丸様は優位に立った物言いが厭によく似合う。陰で乞食領主とまで言われている人なのに。 「我が毛利を見限って、何がわるい」 「いや、悪いというか…信じられないというか…」 だってそうだろう、乱世だからこそ裏切り見限り出奔その他は日常茶飯事、それゆえ身内の絆はやたら強いものなのだ。 身内を見限るのはよほどのことがないとありえないし、大人でも苦悩するものなのに、十やそこらの子供があっさり実家を見限った。 「大内、井上一党、福原……大名も家臣も、ひとしく理不尽よ。おぼえておけ、」 松寿丸様は唇を皮肉な形に歪ませた。綺麗な顔だ。綺麗な顔だけに凄味がある。 赤銅色に染まった口元がこう動く。 「我が儘になりきれたほうの勝ちだ」 |
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