「立て。寝こけていいと言った覚えは無いぞ」 声変わり前の高い声が、高慢かつ無慈悲にわっちの頬をひっ叩く。正しくは木刀の先がわっちの頬をひっ叩く。ひどい。呻くわっちの唇は切れて血が滲み、何か言う気力もない。 もう、勘弁して下され。やっとうのやの字も知らぬわっちを相手にしたところで、得るものなどは何もあるまい。せいぜい的になるくらいか。そんなら木でも打ちつけておればよいものを。 松寿丸様は不満そうに眉を寄せ、解放してくれる気配はない。そんな駄々をこねても無駄無駄、何しろわっちは立ち上がることもできぬのだ。武家の子供と乞喰の子供、体力も違えば刀の扱い方も違う。共通するものといえば感情くらいか。いくら御主君とはいえ、ここまでこてんぱんにやられて怨まぬことがあろうかや。 この坊ちゃんは限度をわかっているのだろうかと思いながら振り仰ぐ。松寿丸様はじっとわっちを見下ろして、再起を待っているようだ。無茶言うな。 意地でも動かん、つーか動けんと指先一本動かそうとはしないわっちに、段々と松寿丸様の眉間のしわが深くなる。 そろそろやばいかの。そう悟って、松寿丸様の右手がぴくりと動いたその瞬間(わっちは次に来る痛みに耐える覚悟をした)、 「止め、止めい!」 破れ鐘のような怒号がわっちら双方の呼吸を奪った。お、お、おっかねぇ! ものすごい迫力だ。心ノ臓まで一瞬止まった。 首を巡らすと、平服でありながらまるで合戦の最中から抜け出してきたような迫力の塊が、のっしのっしと歩いてくるのが見える。深い皺の刻まれた巌顔。戦場焼けして真っ黒で、爛々と輝くぎょろ目がやたらと目立つ。顔だけ見ると五十路も還暦も過ぎたえらい爺様だが、盛りあがった肩といい生気に溢れた歩き方といいあれはどう見ても爺ではない。一体いくつだ。戦で血を浴びて若返りでもしているのか。 一人戦争男が松寿丸様の前に立つ。ずぬぅん、と、つくづく太鼓の音でも似合いそうな偉丈夫だ。振り仰ぐ松寿丸様のいたいけさが水際立つ。中身がいたいけなんてもんじゃないことはこの身で知ったが。 「松寿丸様。ご健勝のようで」 「参ったか、広俊」 「ははあっ! ―――しかし、何をしておいでですかな」 眼光鋭く戦争男が問いかける。広俊…成程、福原広俊か。不遇の松寿丸様の後見人。昼には来ると聞いていたが……欲を言えば、もう少し早う来てほしかったなあ。 問い詰められた松寿丸様は拗ねたように、 「やっとうよ」 その表情! 反省も後悔もしとらんな! ここで断言しておこう、あれはやっとうの稽古などでは断じてない。そも、わっちは刀の持ち方さえ知らぬ。かかってこい、遠慮などしたら許さぬと言われたとて『かかり』ようがないわ。 言葉にするまでもなく、あれよあれよという間にわっちの木刀は弾き飛ばされ、あとは逃げるわっちと追う松寿丸様。いじめっ子に追いかけまわされるいじめられっ子を想像してくれたら、それで間違いはない。 福原様と松寿丸様は、名目的には主従でも実質的には保護者と被保護者だから、わっちは福原様言ってやってくだされと心中おおいに応援した。ざまみろ。 「そのような干し蛙では稽古になどなりますまい」 「少し前までは立っていた」 「倒れたならば最早無用」 「……違う、広俊が来たから無用だ」 『これ』は、福原が来るまでの腕ならしよ。松寿丸様はそう仰る。ああそうでしょうとも、主菜はあくまで福原様。わっちじゃ漬物程度にもならんかね。まあその通りだろうけどもっ! 福原様は悪びれぬ松寿丸様をじっと見ていたが、やがて静かにこう言った。 「……侍は、ただ刀を持つ者ではありませんぞ。刀を振り回し、勇者・弱者の別なく向かってゆくのはただの乱暴者でござる。失礼ながら、松寿丸様には、もっと分別を身につけられよ。このままでは獣と変わりもうさぬ」 おお、おお、おお! 老練の武者の、武骨かつありがたい説教を食らって、松寿丸様の白い頬がかぁっと紅潮していく。子供ながら、表情は見事なほどに押さえつけて変化せぬが(まあ、もともと凶眼だというのもある)、肌の赤味は誤魔化せぬぞえ。 わっちが内心ふひひと満足している目前で、福原様はしゃがみ込み松寿丸様と目線を合わせた。 およ、これ以上は追い打ちじゃございませんかえ。案じる中、福原様はわっちを一瞥すると、何やら低い声で松寿丸様に囁いた。破れ鐘に相応しからぬ小声なので、わっちにはその内容はわからない。 松寿丸様の表情を見る限り、変化はないから猥褻隠語の類ではなさそうな―――あれ、なんか目元が固くなってやしませんかい。ただでさえ目つきが悪いのに、これはもういっそ凶刃だ。福原様よ、何故気づかん。美しさに惑わされたかそうなのか。色の白さは七難隠す。果たして松寿丸様の難点が七つで収まるかは大いに疑問だ。 福原様に空々しい能面顔で頷いた松寿丸様は、気を取り直したように木刀を握りこむ。福原様もそれ以上は何も言う気はないようで、弾き飛ばされたわっちの木刀を拾って松寿丸様に向き合った。どれ、わっちは木陰に避難でもしておくか。ずりずり体を引っ張っていったわっちに福原様の喝が届く。 「そこな小僧、逃げるでないぞ。次は貴様を揉んでくれる」 ま、まだ続くんか! わっちは木陰を諦めるとその場にへたり込み、犬の仔のように福原様に食ってかかっていく松寿丸様を目に収めながら、体力の回復に専念することにした。 くそう、涙がちょちょぎれそうだ。 いたいけな木刀 |
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