松寿丸様の一日は念仏で始まる。 それはつまり、わっちの一日の幕開けも念仏ということだ。 信じがたいことに、杉の大方様は本気でわっちを毛利の若様の小姓に取りたてられ、しかも松寿丸様もそれを受け入れた。 乞喰から解死人、そこから武家となんとも目まぐるしい天国から地獄。これが一日の間に起こったのだからわっちの天運は中々山あり谷ありだ。そして多分両方斜面は断崖絶壁だ。恐ろしや恐ろしや。 生まれたばかりの朝日に顔面をじりじり焼かれながら、杉の大方様、松寿丸様、そして恐れながらわっちと縁側に並んでなむなむ手を合わせる。 杉の大方様はそらで念仏し、杉の大方様から貰ったお経を早々覚えた松寿丸様もそらでなむなむ念仏し、字の読めないわっちは貰ったお経もまだまだ解読途中なので適当に隣二人にあわせてにゃむにゃむ念仏する。 ううむ、それにしても瞼が重い。これから日一日と朝が早くなっていくなど考えたくもない。 布団がわっちを呼んでいるのだ。あの魔力は計り知れない。 ここでの生活は、死別したとはいえ殿様の奥方だった杉の大方様と殿様の若様な松寿丸様、要するにわっちから見たら雲の上の人の調度としては質素なものだが、ムシロもなく地面にじかに寝ていたわっちからすれば極楽だ。ちゃんと温かい飯を頂けた時には驚きのあまり声が出なかった。あれは実にうまかった。一汁一菜それがどうした、あの一口のために生きてて良かったとわっちは早々思い直した。 ちらり、と杉の大方様と松寿丸様を窺う。似てはいないが、双方やっぱり美しい。 同い年であるのに、松寿丸様の方がわっちより幾分背が高い。多分食べているものの差が出たのだろう。それにしては松寿丸様はほっそいが。わっちに言えたことではないか。 (お家の再興を祈願しとるのかなあ) 杉の大方様はそうだろう。松寿丸様もそうかな。まだ小さいのに、殿様の子息は大変だ。親戚がいると余計にそうだ。 まあ、親戚がいても頼れない場合も多々あろうが。 むしろ親戚に身の代を食い潰されることもあるしなあと考えていると、いつの間にやら隣の読経が終息に向かっていた。 わっちも調子よく声を落とし、最後になーむぅと適当な調子をつけて念仏を終える。松寿丸様の乳母が朝飯を作ってくれているので、このあとわっちの主二人は狭い座敷で、わっちは土間で朝飯だ。ちなみに貧乏なので侍女や下男はいない。薪割りとか力仕事は、昼間に侍がやってくれる。長じたら間違いなくわっちの仕事だ。 立ち上がろうとしたわっちは、足に力が入らず転倒した。 う、うおお、ああ足が痺れ…っ! 「、何をしている」 「わっちに構わず先に行ってくだされ松寿丸様…!」 今まで正座など縁のない生活だったから、血行が妨げられて足がえらいことになっている。念仏が長すぎるからだ。おのれ念仏。ありがたいんじゃなかったのか念仏。おのれのおかげでわっちはこの上なく苦しんどるわ! 松寿丸様は、干からびたカエルのようにのびているわっちにそれ以上何を言うでもなく、さっさと背を向けて朝飯に行ってしまった。 わっちは早く痺れを治そうと、悪鬼退散鬼は外福は内と唸っていたが、かたかたと細かな音が耳に触れて顔をあげた。あれ、松寿丸様。お早いお戻りで、つーか座敷はこっちじゃありませんが。迷いましたか。 膳を抱えた松寿丸様は、猛獣の餌付けのようにわっちの目の前に膳を置くと、何を言うでもなく無表情に踵を返した。 え、何これ。 (わっちの朝飯?) 持ってきてくれた? まさかなあ、だってわっちは小姓とはいえ後ろ盾もなーんにもないにわかだから、気を使う理由なんてあるはずもなし。 わっちは自分の思い上がりを諌めながら、ようやく落ちついてきた足をそろそろ床に下ろして起き上がった。そして見る膳。紛れもなく朝飯。粟飯、菜っ葉の味噌汁、申し訳程度の漬物とメザシが三尾。 (メザシ?) 小さな尾をつまんで匂いを嗅いでみた。良い匂いだ。食欲がそそられて腹がぐるると鳴る。まるで猛獣だ。 いやしかしメザシ。 冷めかけているが、わっちは唾を飲みこんで膳を手に取り、土間へと走った。 障子の向こうから、杉の大方様の声が聞こえる。 庭に向かって襖を開けているのだろう、室内は明るくて障子の白が目に目映い。 「松寿、其方のメザシは如何したのです」 「申し訳ございませぬ。不作法ながら、我は既に」 「その嘘はおやめ下さい松寿丸様ー」 失礼ながら、わっちは主君の会話に割り込みながら障子を開けた。そろそろ不作法が板につきつつある。まあ構うまい、どうせわっちは育ちが悪い。手打ちになるならそれまでだ。わっちの今生は購入者の主二人に依っている。 各々の膳を前に、杉の大方様は驚いた視線を、松寿丸様は険悪な視線を遣ってくる。さしでがましいといったところか。 邪魔だと追い払われないよう、わっちは早々と件のメザシを給仕した。おお、怖い視線。 「松寿丸様のメザシはこちらにございます」 「それはお前のだろう」 あらら、あくまでしらを切る気か。動揺もせずしれっと言い切る舌の根は中々だが、その理屈は減点一だ。 わっちはお家再興のためと杉の大方様に買われた者だ。ならば、遠慮もぐうたらもしてやらん。金額分の働きをしろと言ったのは松寿丸様本人だ。 「わっちごときに松寿丸様の御膳を与えるなど、気でも触れられましたか」 「……意味がわからぬな。しかし、主君を気狂い呼ばわりとは無礼にもほどがある」 「ええ、無礼結構。松寿丸様と違って育ちが悪いのでわっちは無礼の塊ですとも。しかしわっちは無礼ですが松寿丸様は阿呆です。このメザシはわっちに与えていいものではありません」 「待ちなさい、待ちなさい。、わたくしにわかるように説明しなさい。一体どういうことなのです」 メザシを挟んで睨みあう松寿丸様とわっちの間に、杉の大方様が待ったをかけた。 松寿丸様はわっちにメザシを与えたことを認めようとしないので、わっちが簡潔に説明する。その間松寿丸様は素知らぬ顔で粟飯を食っていた。厚顔、意地っ張り! 「松寿丸様がわっちにメザシをお与えくださったのです」 「それのどこが悪い。其方の膳にメザシはあるまい。松寿丸が家臣を思いやった、美談であろう」 「とんでもございません、杉の大方様。わっちは取りたてたばかりの、素性の知れない、刀も握れぬガキですよ」 そんな輩にメザシを与えて良いものか。嬉しいけど。ものすごくおいしそうだけど。 だが、ここで若様は優しいなあとそんな結論に落ちついては駄目なのだ。だからわっちは鬼になる。銭湯通いの赤い手拭はふんどしにでもしてしまえ。 「主君が家臣を褒めるには、それなりの理由と、それに相応な物事を充てるべきです。主君が身を削ってまで新参者に過分な下賜をする、これで果たしてしっかりとした家臣団ができますか?」 「……!」 たかがメザシされどメザシ。 武家社会は論功行賞。その中で、家臣団の軋轢が生じないはずがない。 更に、安芸を含む中国は家臣団、つまり国人たちの独立性が高い。あの天下人大内義興とて、国人たちの絶対的君主ではない。勢力圏は絶大だけど、いわば国人連合の盟主のような存在だ。 そんな不安定な地域で上層武家たらんやと望むなら、てんでに利害関係を主張する国人たちを纏め上げねばならない。そのためには、たかがメザシといえど優しいのねーで終わらせてはいけないのだ。今のうちにそのことをよっく覚えておきなされ。三つ子の魂百まで。鉄は熱いうちに打て。 「主君に公正さが欠ければ離反が起きます。容易い主君と侮られれば佞臣がわきます。更に、近臣すらものを与えることでしか統率できないなら、絶えず領地を求めて争わねばならず、一敗が毛利家の没落に繋がります」 というわけでわっちにメザシは不要です。松寿丸様が食べなさい。 わっちはうりうりと松寿丸様にメザシを突きだしたが、松寿丸様は目を寄こそうともしない。コンニャロ、まだ意地を張るか。乳母が心を込めて焼いてくれたメザシが冷めていくぞ! 「驚いた…」 箸を取るのも忘れ、杉の大方様が呟いた。開いた口に茹で卵が入りそうだ。そういえばここは鶏を飼ってないのだろうか。あとで提案してみよう。そうしたら卵が食べられるかもしれん。 鶏に意識を取られたわっちは、ついに業を煮やして松寿丸様の膳にメザシの皿を無理矢理置いた。しかし、引こうとする手を松寿丸様の手が目にもとまらぬ速さで掴み、驚いたわっちの口にメザシが矢のように突き立てられた。正直痛い。 「……メザシを与える理由が無いというが、其方には我に仕える義務がある」 地を這う声が松寿丸様の幼い喉から響いてくる。声変わり前の子供でも、こんなおどろおどろしい声が出るのか。声変わり後が末恐ろしい。殺気に低音が加われば、声だけで失神する輩も出るかもしれない。 わっちが反論しようとするのを、松寿丸様の鋭い舌鋒が阻んだ。正しくはねじ込まれたメザシが舌を刺した。 「其方の言う通り、我らが暮らしは逼迫している。そのような状況でも君臣の別を分けるのは必要だろうが、このような食事では健全とは思えぬ其方の体が改善されるとも思えぬ」 「汚れてようが腐ってようが、わっちの胃袋は健康ですが」 「阿呆め、筋骨のことを言うておるわ。其方は今は小姓であっても、将来は我の武将になろう。なってもらわねば困る。虚弱な武将など役には立たぬ。そのためには、其方はまずその餓鬼のような体をなんとかせよ」 ははあ、投資論で来たか。それにしても気の長い話だ。遠い将来まで見越せるのはいい。が。毛利はそんなに人がおらんのか。わっちみたいながきんちょを一廉の武将に育て上げようとするなどとは。 ―――実は、照れ隠しかな、とも思ったのだが、そんな思い上がりは鼻かんで捨てるに限る。 再びわっちと松寿丸様は睨みあったが、線香花火の様相を呈するわっちらの間に、杉の大方様の吹き出す声が割り込んだ。杉の大方様は笑いながらぱん、ぱんと手を叩いている。 「成程、双方の言い分は相わかりました。では、僭越ながらわたくしが裁可をいたします」 よろしいですね、と杉の大方様は確認を求める。 わっちからすれば杉の大方様は買い主であるし、松寿丸様も義母の言葉に従うのは不満ではないらしい。松寿丸様のご気性は随分激しそうだが、杉の大方様には世話になっておるものなあ。筋目は通す人のようだから、杉の大方様のことを親のように尊敬しているのかもしれない。 「松寿にもにも理があります。しかし、其方らは自分たちが子供であることを忘れています。子供はよく食べ、よく動き、よく学ぶのがよろしい。まして其方らは、これから毛利を支えていく男子たちゆえ、体も健やかで頑健に育ってもらわねばなりません。よって、松寿はメザシを二尾、はその口に入れたメザシと、わたくしの皿からもう一尾を食べなさい」 「杉の大方様、それは…!」 「これが裁定です、松寿。わたくしは女で、あとは老いるだけです。育ち盛りの其方らほど食べずともよい」 杉の大方様の断固とした態度に、松寿丸様は眉を寄せてはいたがそれ以上反論することはなかった。苦虫をかみつぶしたような表情を一礼後にはさっぱりと消し去り、黙々と膳を平らげにかかる。真っ先に箸をつけたのはメザシだった。 わっちも松寿丸様と同じような顔をするにはしたが、杉の大方様が早く皿を取ってこいと言うのでメザシの尻尾を口から出したまま座敷を出た。このまま行かんかったらどうか。杉の大方様は諦めてメザシを食べるか。……いや、きっと食うまいな。それどころかあの場から動きもすまい。あの方は意外と頑固者だ。買われるに至る経緯が何よりの証拠だ。 (しかもきっと松寿丸様からの制裁もあろう…) わっちはぶるっと震えて、大人しく皿を持って出頭することにした。いいもんが食べれるから嬉しいのは本当だが、この釈然としない感じは一体何だ。 鳥肌の立った腕をさすりながらわっちが皿を探している間、座敷ではこんな会話が行われていたらしい。 「杉の大方様。本日、福原広俊は参りますか」 「昼過ぎに参るそうです」 「ならば、昼からは広俊に稽古をつけてもらうことにいたします」 ここでわっちが障子を開けた。松寿丸様は鋭い眼差しをわっちに放り、何事かと身構えたわっちに向かってその言葉を投げた。何やら隠しきれぬ怒りが見える。八つ当たり反対! いじめ、かっこわるい! 「杉の大方様の言う通り、当世では武芸の腕も不可欠であろう。広俊が来るまで相手をせよ」 「……かしこまりまいた……」 わっち、生きて朝日を拝めるかな。 メザシで学ぶ帝王学 |
十歳の思考じゃないことには目を瞑ってくださいpart 2 091213 J |
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