深度13 : transparent specimen

 メールの着信を知らせるランプが光っている。携帯のキーを操作して受信箱を開く。未読が一件。差出人は
 『こんにちは。今週末、近くの水族館で友達が関わってるイベントがあるんだ。前、元親が読んでた本の探査艇も展示される。暇だったら行こう』
 本人に、海洋生物に対する興味など一片もない。あの相手を窺うような拒絶の後、気まずくなっていた関係の修復を試みているのか。は、元就が共通の友人であることに気付いていない。元親が元就と何を話したのかも。今となっては話す機会がない。元親はあれからに一度も会っていなかった。プラネタリウムを壊した日さえ。外出中に半同居人だった元親の荷物が消え、がらんとした部屋で、は何を思っただろう。壊れたプラネタリウムは捨てただろうか。捨てていてほしいのか、ほしくないのか、元親には分からない。星空以外に興味のないのままでいてほしい。けれど、こうしてメールを送ってくるように、プラネタリウムを壊した元親を些細な棘として喉に刺していればいいのにとも思う。
 結局、元親は半日悩んで返信ボタンを押した。行く。それだけのことを決めかねた。心が浮き立たない自分を、自覚してしまっている。
 「『追いつけないものを追い求める』」
 呟いてみる。己を嘲る。オレはに追いついたのか。違う。は離れていく。まるで楕円の軌道を描く彗星のように。浅海と深海を行き来するランタンフィッシュのように。けれど元親は、離れていくを追うことに飽きていた。最接近したときのに幻滅していたから。それがどれだけ身勝手なことか知りながら。
 約束の日になった。元親は財布だけ尻ポケットに突っ込み部屋を出る。畑を横目に見ながら歩いていると、が部屋を出たのが見えた。向こうもすぐに気付く。
 「おはよう。久しぶり」
 「ああ、はよーさん。流石に今日は、明け方まで観測しちゃあいねえだろな?」
 「四時で切りあげた。太陽が巡ってきたから」
 そうか、と相槌を打つ。鼻白むのを誤魔化すように。明け方まで観測を続けて、寝過ごした方がらしい。初めて会った時の。自身さえも追い詰めるような、渇望じみた星への欲求。
 元親とは、水族館まで途切れがちな会話を積み重ねた。就活の話。天体観測所の話。単位の話。見学会で見た船のエンジンの話。卒論の話。ぽつ。ぽつ。と、相手を窺うような会話に、以前のような遠慮のなさは見出せなくなっている。
 水族館の入場券を買う。ゲートをくぐると、非常燈が点るだけの暗い廊下。やがて水槽が見えてくる。青色に照らされた入場者たちの顔。大水槽を横切るエイ。元親は、ダイナミックなその光景よりも、その青さの方を印象として受けとめた。の部屋を満たしていた青に似ている。宇宙の底と、海の底は繋がっているのかもしれない。
 黙々と経路を進んだ。カップルが多い。幻想的に浮遊するクラゲ。鮮やかな色彩の熱帯魚。水槽を悠然と泳ぐジンベエザメ。やがて元親は、趣の違うコーナーに辿り着いた。明らかに一般受けはしない。飾り気のない水槽がいくつも置かれ、グロテスクな魚たちが底の方にじっとへばりついている。深海魚だ。
 「お、元就」
 関係者のネームタグを首から下げた姿を見つけた。スーツ姿。それがリクルート用ではないことを元親は知っている。水族館の職員と話していた元就は、名を呼ばれて振り返った。
 「なんだ貴様、来たのか」
 「おうよ。へえ、結構すげえじゃねえか」
 元親には何に使うかわからないが、本格的な計測器がうじゃうじゃと水槽に突っ込まれている。意外そうな顔をする元就の背後に武骨な深海探査艇。興味を惹かれ、元親はそちらに歩み寄る。へええ。腰を曲げ、顔を近づける。説明を一字一字拾っていく。使われている技術にひとしきり感心し、振り返る。元就とが話をしていた。時折、元就が方角を指し示す仕草をする。何かの案内でもしているのか。は元就の実験自体に興味を持っていない。元親ならば、実験に付随する探査艇に興味があるかもしれないと餌に使った。それだけだ。元来星にしか興味のないだ。水底に彼を呼ぶものはない。そして元就も、同類として友人の無関心を許容していた。
 変な友人関係だと思って見ていると、が元就と別れ、元親のもとへやってくる。おずおずと切り出した。
 「もう一つ企画展やってるらしいんだ。おれ、そっち見に行っていい?」
 よほど退屈していたらしい。水族館にいる限り、己の興味を惹くものは無いとわかっているはずなのに。
 「おう、……いや、オレも行く」
 正直まだ探査艇に未練はあった。しかし、関係の修復するための機会を作ってくれたを無碍にするのは申し訳ない気がした。修復どころか、もう戻れないだろうことをひしひしと感じてしまっていても。は少し驚いた顔をした。二人は元就に軽く挨拶し、実験ブースを出る。案の定元就に位置を聞いていたらしいに先導され、もう一つの企画ブースに辿り着く。標本展示会。やはり、の興味を惹くテーマではない。
 剥製や、骨格標本を見るともなく眺める。変わった標本があった。透明骨格標本。赤紫と青で可視化された、楽器の弦のような骨格。生命の形。が珍しく足を止めた。釣られて立ち止まる。「元親、」が気泡のように小さく呟いた。
 「ごめん。おれ、お前を傷つけた。おれは結局、お前を選ばなかった」
 宇宙に落ちていく己を、地上に引き戻してくれたのに。はついに元親を選びきれず、星を選んでしまった。与えてくれた優しさに返せるものはなかった。抱かれていても、宇宙に落下してしまった。の悪癖だ。一時温もりを求めても、やがて宇宙の吸引力に従ってそれを捨ててしまう。
 元親の手が僅かに震えた。の手を握れるかもしれないと思った。選ばれなくてもいい。彼が、あの生気のない、潔癖な横顔を取り戻すなら。けれども、見下ろしたの顔は、そんな寂々としたものではなかった。そこにはもう、表情がある。後悔。悲しみ。地上で、人間臭さに染まってしまった、人間の顔。元親は知っていた。それをに与えたのが己であること。それを受け止めてしまったに、最早何の興味もないこと。は元就の同類だった。そしてもう、同類とは言い難い。は二度と、恒星のスペクトルのような、無機的なにおいを持つことはないだろう。は命になった。脈動し、二酸化炭素を吐き、体温を持つ。星と星の間を周遊するだけの存在ではなくて。元親は、の手を取ろうとした試みをやめた。
 「アンタが謝ることじゃねえよ。オレも、大概身勝手だ。アンタがオレを求めたことも、オレを捨てたことも、同じくらい嬉しくて、同じくらいどうでもよくなっちまった」
 が笑った。透明標本を浮き上がらせる光が、滲むようなその微笑を淡く照らす。寂しいのか。諦めたのか。元親には判断がつかなかった。けれどその曖昧な微笑は、元親の網膜に焼きつけられた。何万光年も向こうの微笑。透明で、少しだけ生命の気配を隠した微笑。
 「オレ、アンタのその笑い方、好きだったぜ」
 「おれは、お前の笑い方を好きになったよ」
 そして元親は、それっきり、人間になった男と別れた。


 透明骨格標本:薬品でたんぱく質を透明化し、硬骨、軟骨を染色する。



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