深度12 : comet Halley

 エントリーの締め切りまで、残り五分。元親は安堵のため息を吐いた。危なかった。動かなくなった大きな背に、後輩たちの飲みこむ唾の音が積み重なる。
 「あ、あの、アニキ…うまくいきました?」
 恐る恐る尋ねた後輩に、元親は達成感で震える親指を突き出した。わあ、と部室の雰囲気が和やかになる。念のため新しく開けたウインドウでメールサーバーを呼び出し、受付の返送メールが来ていることを確認した。危なかった。
 「助かったぜ。おかげで希望が繋がった」
 元親は、よりにもよって第一志望のエントリーを忘れていた。晴れ晴れとした笑顔で、ノートパソコンを貸してくれた後輩に返却する。登録したIDもパスワードも忘れていた元親は、メールボックスの探索も含め一時間以上パソコンを占領していた。
 「いえ、アニキのお役に立てて嬉しいっす!」
 「最近アニキに全然会えませんでしたし!」
 後輩たちは元気がいい。元親は、一時幽霊メンバー化寸前までサークルに来なかった。少し気まずい思いをしながらドアを開けた瞬間の、後輩たちの間抜け面。驚き。そして歓迎。申し訳なかったと心から思う。けれど同時に、の背中を思い出した。ずっと窓の外ばかり見ていた恋人。彼に作ってやった飯やら、一緒に読んだ本やらを不要な時間だったと思うことはできなかった。
 (そういや、オレのパソコン、の部屋に置きっぱなしだったな)
 取りに行かなければならない。多忙を極める就活時期。そして卒論。パソコンがなければ何もできない。いや、取りに行かなくても。今日、の部屋に行って、いつもみたいにの部屋で使えばいい。と一緒に明日を迎えれば。けれど、その思い付きを、元親の脊髄が拒否した。フラッシュバックする。スーツを着た。エントリーをする。元親の何かが、そのを厭った。何故。抱きしめた熱を覚えている。青く染まった記憶は甘いまま。それでも、のネームプレートの前を通り過ぎることを考えるのは、億劫だった。元親。が呼ぶ。喉仏が動く。顔は見えない。
 「アニキ…?」
 黙り込んだ元親を後輩たちが心配する。我に返った元親は、「悪ぃ、元就に用があったんだった」と誤魔化して、サークル棟を出た。

 後輩たちに宣言した以上、元親は律義に元就の研究室を訪ねた。本で埋め尽くされている。アポイントメントも用事もなく訪れた元親に、元就は嫌そうな顔をした。静かにすると誓い、宥めすかして、毛布とクッションが持ち込まれたソファに陣取る。目の前のローテーブルには何かの資料。冷えた緑茶。カップラーメン。
 「お前なあ。せめて、栄養のあるものを食えよ」
 「やかましい。文句があるなら帰れ」
 元就は神速のブラインドタッチでメールを打っている。送信ボタンを押した彼は、また別のメールを開けた。時々資料を読んではぶつぶつ言っている。専門用語から察するに研究関連だ。元親はぼんやりと問いかける。静寂の誓いなどどこ吹く風だ。
 「元就、お前、就活どうすんの」
 「やかましい。就職はせぬ。院に進む」
 苦情をつけながらも律義に返事をする。元親はふぅん、と友人の神経質な背を見た。安い事務椅子の向こう、パソコンの白い光。手の届く範囲に以前借りた本が置いてある。ディープアクアリウム。
 「お前らしいな」
 言いながら、安堵している己に気付いた。元就がリクルートスーツを着るなど、想像できない。元就は諦めたのか、それとも随分弱った声音になけなしの友情を披露する気になったのか、「貴様は」と短く問う。視線はディスプレイから動かない。手も止まらない。
 「オレは就職。今日、第一志望の造船会社の締め切りだった。焦ったぜ」
 「ふん、享楽的に日々を過ごしておるからだ」
 「キョーラクってなんだよ」
 「頭が軽い」
 「んだとテメェ」
 一瞬会話が途切れた。元親は手すさびに毛布をいじる。下から半纏が出てきた。これを着て寝ているのか。だが流石にもう寒いだろう。暖房を点けっぱなしで寝ているのだろうか。どちらにしろ風邪を引く。
 「なあ、お前今、何してんだ。院の勉強?」
 「企画展だ。来週、産学協同で公開実験をする」
 元就は左手でメモの切れ端に埋まったコルクボードを指す。その間もタイプ音は止まらない。元親はのそのそと歩き、A4のチラシを覗きこんだ。近くの水族館だ。二種類の企画が印刷されている。
 「どっちだ」
 「内容紹介を読め」
 確かに、そこには大学名と小難しい海洋経済学のテーマが印刷されていた。例のディープアクアリウムと、その探査艇も扱うらしい。もう一つの方は標本展示会。どちらが元就関連かなど自明だ。元親は感心して友人の横顔を見た。眉間に皺。説明会にも、エントリーシートにも興味のない眼差し。
 「が」
 脈絡もなくその名が出た。無意識に。彼は今、スーツを着ているだろうかと思った。その想像が無性に悲しい。
 「は、就職するってよ」
 「そうか」
 元就はすげない。元親はその先を続けられなかった。何を言いたくてを俎上に載せたのか。本人にもわからない。喉仏の辺りで言葉をこねまわす元親に、元就は一瞬切れ長の視線を遣った。
 「奴とて三年だろう」
 「………」
 反射的に反駁しようとして、言葉が出ない。は三年だ。年度が明ければ四年になる。元親も、元就も。就職か、院か、その選択が目の前にある。
 元就が何かのファイルを添付している。元親はその指先を見た。ペンだこがある。ささくれがある。塩水に触れすぎて、元就の指は酷く荒れている。その他のことなど目もくれない指。望遠鏡を持っていた指は、今パンフレットをめくっているのだろうか。
 「アンタとは、似ていると思ったことがあんだ」
 対象に注ぐ一途な眼差し。他の事象をかなぐり捨てた探究心。生活さえ一顧だにしない気質。潔癖で遠い背中。まるで失望するような声を出した元親に、元就はしばらく無言を通していた。カタカタ、キーを叩く音。たん、と軽い音をさせてそれを終えると、元就は事務椅子から立ち上がった。己より大分高い位置にある友人を睨み上げる。美しい顔に浮かぶのは軽蔑のような色。
 「勝手なことをほざくな」
 迫力に気圧された。
 「我は忠告したはずだ。貴様らは合わぬと」
 「……ああ、アンタ、オレたちが似てるってわけわかんねえこと言ったな」
 「ああ。貴様ら二人とも、手に入らないものを追っているゆえな」
 意味がわからず沈黙した元親に、元就はいらいらと逞しい胸を指した。心臓を。
 「は既に、宇宙に魅せられている。あれの目は、もうそれ以外を見ない。よしんば見ても、どこにあっても、結局は空に回帰する。そういうものだ、『我ら』は」
 元就はふっと自嘲するように口角を上げた。元就との共通点。元就は海に、は空に、魂ごと囚われている。選び、選ばれた対象への興味が全てに優先する。それが彼らに独特の潔癖さを齎した。他の、例えば社会性を捨てることと引き換えに。彼らは自ら望んで牢に入った。最深部の。時折外部と触れあっても、やがて彼らは己の牢に戻っていく。離れていく。楕円形の軌道を辿って。
 「貴様は勝手だ、長曾我部。貴様はに追いつけぬ。は貴様の隣を歩まぬ。やがて戻っていく。そして貴様は、追いつくことを夢見ながら、追いつこうとしないのだ。貴様はいつもそうだ。追いつけぬものを追い求める」
 貴様は、がお前と同じことをして、勝手に失望したのだろう。元就は抉った。が就活を始めた。スーツの集団と同じことを始めた。自分と同じことを。何万光年も向こうにあった星が、ただの岩塊だらけの表面を晒して、眼前に現れたような失望。憧れの失墜。就活サイトを開いたの、世俗的なにおいに、元親は耐えられなくなったのだ。が就活などしなければ良かった。ネクタイなど燃やしてしまえ。例えば元就と同じように、院へ行けば良かったのに。
 そうすれば元親は、安心して遠いを追えたのに。
 「貴様の憧れを押しつけられるは堪ったものではない。そしてな、長曾我部」
 とん。細い指が心臓を押す。元就は憐れむように言った。
 「貴様の懐は、貴様が思うほど広くはない。をそこにいれようとすれば、貴様は多くのものを取り落とそう」
 瞬間思い当たった。ヨットサークルの後輩たち。エントリーを忘れていた第一志望。そういえば授業のレポートも、いくつか出し忘れている。
 「……アンタには、思いやりってもんがないのか。嫌なことばっか言う」
 「下らん。どうあがこうと、己からは逃げられぬ」
 「ちげぇねえ。自己分析で、参考にさせて貰うぜ」
 元親は力なく笑った。の背中。それはとても遠かった。それがとても近かった。再びその背が遠くへゆくのなら、また己はそれを追えるだろうかと思う。無理だ、と頭のどこかが囁いた。最後に見たの背中。プラネタリウムとマリンスノーに傷ついた。海洋学部の発想だと、少し羨ましそうに言った。にはどう見えていたのだろう。生気を纏い始めながら、生命の無い静寂へ回帰せざるをえなかった。彼はあの時、きっと己の性質を思い知っていたのだ。生命の座に馴染めない彼ら。
 家路に就いた元親は、の部屋のカーテンが閉められているのを確認して、古びた階段を登った。部屋にはいない。スーツをかけていたハンガーが床に落ちている。持参した袋に己のものを詰め込んだ。雑誌に埋もれた棚にプラネタリウムが飾ってある。元親は気付かないふりをしてそれを落とした。ぱりん。宇宙の破片が足元に散った。


 ハレー彗星:ほうき星。最初の周期彗星。公転周期75.3年。



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