深度11 : marine snow がスーツを着ている。不器用に結ばれたネクタイは、死刑囚の縄が逆になったようだ。パンフレットで重くなった鞄を放る。ベッドの上で一度跳ねて中身を少し出した。は嫌そうに、ジャケットのボタンをはずして、おざなりにハンガーにかけた。ジャケットがばさりと落ちる。苦笑いした元親が、自分の分を脱ぎがてらのジャケットを拾ってやる。はネクタイを外すと、せいせいしたとでも言いたげにベッドにダイブした。パンフレット入りの鞄が床に落ちる。 まだ宵の明星も出ていなかったが、そのまま観測を始めるかと思いきや、はもぞもぞと動いてノートパソコンを引き寄せた。起動ボタンを押す。 「珍しいこともあるもんだな。オレは、いつも星に負けちまうってのによ」 「すぐ、空に戻るよ」 ろくに中身がないせいで早々に立ちあがったパソコンを操作して、はインターネットのブラウザを開いた。たどたどしいタイピングで検索を重ね、いくつかの就活サイトを見て回る。元親は、彼の志望業界は何だろうと思い、ふとその思考が気に障った。タイプとクリックを繰り返しているの後頭部に、知らず眉が寄っていく。ぞわ。ぞわ。微かに覚えのある不快感が、脳幹の裏を這った。衝動のまま、の背後に忍び寄る。手を伸ばす。画面には何かのメーカーが表示されていた。聞いたことのない名だ。画面が暗転する。呆然としたの顔が映る。輪郭。初めて会った頃より、生気が息づいていたことに気付いた。ぞわ。何かを、土足で汚されたような不快感。何かを。 「元親、何を…」 が振り向いた瞬間、躊躇いなく起動スイッチを押していた右手が、その体を引き倒した。驚きに見開いた目と目を合わせるように深く口付ける。反射で抵抗しようとした手がノートパソコンに当たったらしく、硬い音がした。音源を頼りに人工的な感触の塊をベッドから遠ざける。唇を離すと、散々に口内を蹂躙されたは、眉を寄せて荒い息を吐いた。唇が唾液で艶々と光る。 逃げようとするを捕まえる。速さ、腕力ともに元親が有利だ。抵抗虚しく腕の中に囲われたは、もう一度吐息を奪うようなキスを受ける羽目になった。のしかかられる。の細い体など、元親が力を込めて囲ってしまえばろくに動きも取れない。元親は、獣が餌を食うように、の口内を犯した。唾液を吸う。そのまま、唇を下へ落としていく。諦めたのか、は大人しい。気分よくベルトに手をかけた。ふとを見上げる。 「……、」 息を殺したは窓を見上げている。遮光カーテンで閉ざされた窓。まだ、朱色の光が零れている。それでもその向こうにある星が見えるのだと言わんばかりに、は一途に窓を見上げている。表情はない。元親の動きが止まった。激しい後悔。元親は、数分前に戻る術を探して辺りを見回す。 「、すまねぇ」 「………」 「……」 は表情を変えない。視線も動かさない。元親は途方に暮れた。不意に、目の端を光が掠める。 振り返ったそこには何もない。ローテーブル、何冊かの雑誌、パンフレットを零した鞄、ノートパソコン。また光った。元親は目を凝らす。光。埃だ。遮光カーテンから漏れる強烈な太陽光が、暗い部屋に舞った微細な埃を輝かせている。そんな場合ではないのに、元親の脳裏に浮かびあがった単語があった。 「マリンスノーみてぇだ」 元就から借りた本。ディープアクアリウムを搭載した探査艇について読んでいる途中、記録カメラが撮ったマリンスノーの写真があった。何かの拍子に繋がったシナプスが、海馬に蓄えてあった美しい単語を引っ張り出した。 呟いてしまってから、そんな場合ではなかったと気付いた元親だったが、くっく、と鼓膜を引っ掻いた音に気付いて音源を探す。が首を室内に向けていた。 「海洋学部の発想だ」 何が彼を呼び戻したのかわからない元親は、の負担にならないようにとりあえず体をずらす。左手の甲で目を覆っていたは、解放されるとゆっくり起き上がった。俯いたの表情を確かめることはできない。沈黙が満ちる。元親は言葉を探しあぐねた。ようやく端緒を掴みかけたとき、がカーテンを開けた。もう、空の半分が暗い。 「……」 は望遠鏡を手に取った。かけられた声に、指が少し震えたが、それだけだった。 「………悪かった」 「………ん」 それっきり、は、壁を作るように黙り込んでしまった。元親はベッドを下りる。自分の鞄を拾い、ジャケットとネクタイをハンガーからはずす。暗い部屋には圧迫感があった。そして元親には逃げ場があった。徒歩一分の。引き戸を閉める前に、元親は一度振り返る。は星を観測している。けれど、その背中に、あの無心さはなかった。あの鬼気迫る一途さも。ぞわ。虚穴のような何かが脳に開く。そこから、酷く冷たい風が吹き込んでくる。元親は踵を返した。玄関を閉める前に、「今日は帰る」と言ったのは、まだ未練があったからか。は動かなかった。元親が振り向いた気配にも。玄関が閉まる気配にも。階段を下りていく気配にも。 「………っふ、」 喉から絞り出したような声。望遠鏡を下げて、は正座した膝に頭をつけた。あたたかい滴が頬を伝う。指を。膝を。シーツを。 「ごめん、元親」 月齢十二の藍色の中で、は胎児のように丸くなって、泣いた。 マリンスノー:海に降る雪。プランクトンの排出物、死骸、それらが分解された微細な有機物粒子。 |
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