深度10 : lantern fish 夕方の、赤銅色した光を浴びる。元親は、窮屈なスーツの足を動かして階段を上った。スーツと靴下の間に忍びこんだ空気が疲れた筋肉を掠める。元親は迷いなくの部屋の前に立った。最近では夜もここに帰っている。パソコンも、着替えもの部屋に持ち込んだ。鍵を出す。回す。この時間ならはまだバイトか大学だ。つまり部屋は薄暗い。は日中カーテンを閉めるから。そう思っていた元親は、企業のパンフレットが詰まった紙袋を置いた手が朱色だったので驚いた。カーテンが開いている。 「誰だ、てめぇ!」 六畳間に続く引き戸を開ける。ばん、と大きな音がする。南向きの窓から斜めに差し込んだ西日が、壁のポスターを染めていた。アンドロメダ星雲、とが嬉しそうに言っていたそれ。 強すぎる太陽光は、部屋を朱と黒にわける。部屋の真ん中に黒い人影。横顔を象るのは、いつもの青色ではない。。元親は風船がしぼむように勢いを失くした。 「なんでェ、か。お前、この時間バイトじゃなかったのか」 「…………今日は大学の日。サボった」 は少しのタイムラグをおいて答えた。振り返りもしない。元親は気が抜けたとかなんとかいってスーツを脱ぎ始めた。その辺に転がっていた部屋着を手に取る。衣擦れとベルトの金属音。 「たく、就活イベントってのは、窮屈でいけねぇ」 今日自分が訪れたイベントや、企業ブース、蟻の群れのような学生たちについて好き勝手な評論を述べ散らす。そんな元親に、はろくな相槌も返さない。何かに集中しているらしい。着替えを終えた元親は、ローテーブルの上に広げられたものを覗きこんだ。が全集中力を注いでいるもの。恐らく、彼にカーテンを開かせる理由。 「プラネタリウム」 陶酔した口調では言う。達成感。彼の手元には、細かいプラスチックの切れ端や、何かの工具が広げられている。どこかで買った、家庭用プラネタリウムキットだろうか。部品も、見た目も、やたらチープだ。 最後のパーツをつけ終わったらしいは、滲むように笑いながら、いそいそと遮光カーテンを閉めた。ふ、と視界が暗くなる。真黒に塗られたおんぼろのサッカーボールのようなそれを、元親は興味深く見ている。が近寄ってきて、小ぶりな地球儀大のプラネタリウムのスイッチを入れた。 「へえ、大したもんじゃねぇか」 プラネタリウムは、手作りとは思えないほど、見事な出来栄えだと思われた。球形に組み立てられたプラスチックの板。そこに開けられた穴から、中心に仕込まれている電球の光が漏れ、部屋全体に星空を映し出している。まるで六畳間が宇宙になったように。宇宙の中にいるように。元親は手を伸ばしてみた。ごつごつとした大きな掌に、小さな白点が映り込む。星を捕らえている。 外の、本物の恒星の光が力を失くしていく。段々と宇宙に近づいていく部屋の中で、しばらく元親は遊んでいた。作者を振り返る。プラネタリウムの横で、は体育座りをしてぼうっとしていた。その細い体を抱え込む。 「おい、。オレたち宇宙にいるんだぜ。二人でM78星雲とか、行ってみねぇか」 遥か遠く、遠く、太陽系を掻き泳ぎ、外縁天体の密集するエッジワース・カイパーベルトを突っ切って。と二人、一緒なら、どこまででもいける。きっといける。星が生まれる前の分子雲のひとかけみたいに混ざって。伸縮。膨張。溶け合う。元親もも生命体だ。酸素のない、凍えるような宇宙に放りだされたら死んでしまうけれど、彼らが立っているこの六畳間もまた宇宙に浮かぶ惑星だった。彼らは既に宇宙にいる。星空の底にいる。元親の手がうごめき、の肌を探る。掌の皮膚が脇腹の皮膚に触れる。石灰質の歯が項の皮膚に触れる。彼らの生命はまだ二つだ。太陽風の吹き荒ぶ空間で、分かたれていることは凍てつくように寒い。一つの生命になろうと思った。星の間を泳いでいく術を知るなら、きっと元親を連れて行ってくれる。彼の目が見る、銀河の水底まで。 しかしは、元親に応えることはなかった。 彼は乱暴に元親の腕を解くと、荒々しくカーテンを開いた。鋭い音と共に現れる本物の夜空。プラネタリウムの映した星より、そこに浮かぶ恒星の瞬きの弱さ。何万光年向こうの光。は呟いた。 「M78星雲なんて、おれ知らない」 その声は泣きそうに歪んでいる。はそのまま動かなくなった。いつも、観測には必ず使う望遠鏡すら手にとらない。元親は彼の悲しみを察したが、それがなんであるかは分からなかった。ベッドに乗りあげる。スプリングが鳴く。再び己の腕を掴んだ男の手を、は拒まなかった。 「……、…、……」 愛撫され、貫かれたは、途切れがちな吐息を吐いている。それが言葉のように感じて、元親は耳を澄まそうとした。けれども、目の前にある生き物の熱に意識が乱される。投げ出されたの手は、まるで救いを求めているように見えたので手をつなぐ。は、握り返さなかった。 ハダカイワシ:深海魚。食物連鎖の中間位。日中は深海に棲み、夜間は浅海に浮上する。捕食のため生体発光。 |
深度09 深度11 |