深度09 : albedo

 「アニキ、最近忙しそうだなあ」
 二年生のサークルメンバーが、サークル棟でもやい綱の練習をしながら、同級生と雑談している。スキューバダイビングの雑誌を見ていた相手は、「まあアニキも三年だし、就活とかいろいろあんだろ」と返してはいるが、口調はどことなく不満そうだった。それはそうだ。面倒見のいい元親は、毎日のように部室に顔を出していた。例え僅かな時間でも。だからこそ、彼は後輩たちからアニキと呼ばれて慕われている。
 しかしそれも過去形だ。最近、元親はぱったりと現れなくなった。学部が同じ者もいるので、元気であることは知られている。三年の後期ともなれば、一般教養などの履修をする必要がないことも。
 「そういや、アニキ最近彼女出来たみたいだぜ」
 「何、本当か!?」
 さすがアニキ。やったぜアニキ。後輩たちは一瞬盛り上がる。写真を見せて貰いに行こう。お祝いをしに行こう。そんな計画がたちあがる中、一人が呟いた。
 「でも、やっぱちょっと、寂しいよな…」

 後輩たちが雑談している頃、元親は水産実験室にいた。元親は海洋工学科だが、元々海それ自体が好きなこともあり、水産資源関係の資料を見聞することも好んでいる。もっとも、今彼がここにいるのは、知り合いに借りた本を返すためだ。元親の手にはディープアクアリウムに関する本がある。ディープアクアリウムとは、深海探査艇に搭載された深海魚捕獲設備だ。元親は、深海魚についてはあまり知識がない。回遊魚なら少し踏み込んだ知識もある。元親の専門は造船学だ。漁業に関する本を読んだことならある。今回元就から借りた本は、深海魚ではなく探査艇が目的だった。
 「おう、元就、いるか」
 大きな水槽の影、プールのようになっている設備が連なった場所に元就はいた。覗いてみると、ハゼに似た魚が蹲っている。元就が某かのデータを書き込んでいる数値表は、元親にはよくわからなかった。一度元就本人から彼の専門について聞いてみたことがある。「水産経済学だ。水産資源学のようなこともしている」という答えが返ってきた。要は、魚介類など水産資源の管理らしい。
 「本返しに来たぜ。テーマはちょっと違ったが、面白かった」
 「わざわざ実験室に来るとはな。研究室に置いておけばよかろう」
 「知り合いがいるってわかってんなら、挨拶はしてぇだろう」
 元就は、元親に一瞥をくれただけで魚の観察に戻った。その目は、恐ろしく真摯に水中に没している。元親への興味など一片もない。峻嶮な無視に対して、元親は腹を立てなかった。いつも通りの元就だ。元親はまじまじと彼の稜線を見る。
 「しっかし、似てんなぁ」
 人間味の薄い表情も。現実離れした雰囲気も。対象に注ぐストイックな眼差しも。
 (けど、の中には、星だけじゃなくて俺もいる)
 それを思い出すと頬が緩んだ。元就と同じ遠さを持ちながら、は元親にも目を注ぐ。元親を求める。貫かれて、快楽に翻弄されて、喘ぐの痴態を思い出す。元親の名を呼ぶ声。背中に縋る手。腕の中にあった体温。
 「……気色が悪い、帰れ」
 にやにやしていると、元就から辛辣な命令が下った。しまったと口許を覆う。元就は、元親の体を邪魔そうに退かすと、何かの計器を覗き見ている。
 「すまねぇな。お前と似てる奴を知ってるもんだから」
 「ふん」
 元就は興味なさそうに鼻を鳴らし、別のプールに移動した。自慢したくてしょうがない盛りの元親は、のこのこと元就のあとをついていく。ソコダラと書かれたネームプレートの前で立ち止まった元就を相手に、聞かれもしない惚気話を撒き散らす。
 「バイクにも女にも興味のない奴でよォ、毎晩星ばっかり見てんだ。けど、色々世話焼いてやったからなぁ、俺のことはわかるって」
 「やかましい。無駄話しか能が無いなら帰れ」
 「ちょちょ、いいだろ少しくれえ」
 「我は忙しい」
 わかっていたことだが素気無い。元就の態度に、元親は舌打ちをした。と同じで、生活能力皆無のくせに。もっとも元就の場合、片付けないのではなく家に埃をためるのだが。彼は風呂と睡眠以外のために帰らない。下手をすると睡眠も研究室でとる。
 悪態をついて出ていこうとする元親を元就は完璧に無視していたが、ふと、何かに気付いたように顔を上げた。
 「待て、長曾我部」
 「んだよ? 出てけって言ったのはてめえだぞ」
 「その知り合いとやら、という名ではないか?」
 意外な固有名詞を聞いて驚いた。地学部のと海洋学部の元就。個人の類似点は多いが共通項は無い。
 「何でお前がを知ってんだ?」
 「やはりか」
 元就は苦々しく眉を寄せると、一言「やめておけ」と言った。
 「あ? なんだよ、やめておけって」
 「言葉通りの意味だ。彼奴に深く関わるのはやめておけ。貴様には向かん」
 「……なんだって、てめえがそんなこと言えんだ」
 思わず声が低くなる。元親の発する怒気に気付かないはずがないだろうに、元就はそれを軽く頬で流した。
 「と貴様は相性が悪い。いずれ、お互いが相手を壊そう」
 「そんなこと、なんでわかるんだってんだ!」
 のことを少しも知らないくせに。と元就は類似点が多い。どこかで知り合って、共感するものがあるのかもしれない。彼らは似た者同士だ。あるいは、我がことのようにわかるのかもしれない。元就は頭が良いから、余計に。
 しかし、は元就ではない。は元親を受け入れた。元親を求めた。あの、滲むように笑うを。羞恥に頬染めたを。快楽に酔ったを。元親の体温に擦り寄って眠るを、元就は知らない。知らない元就に、わかるはずがない。
 「貴様らは上手くはやっていけぬ。生き方が違うくせに、似通っているからだ」
 潮の匂いをさせながら、元就は淡々と予言した。ポンプが水と酸素を送る低音が響いている。


 反射能。反射率。外部からの入射光に対する反射光の比。



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