深度08 : 「地球は青かった」 ああ、欲しい。 が観測をしている。彼の、藍色に浮かび上がる輪郭。微動だにしない背中。きっと時間も気温も忘れたように、瞬きすら彼は惜しんで目の中に星を収めている。部屋の気温は酷く寒い。缶コーヒーの僅かな温みを握り締めて、元親は彫像のようなを観察する。夜は浅い。買ってきた食材はまだ袋に入ったままだ。室温が外気と同じだから、豆腐の容器が水滴を吹くことはない。元親は料理を始めようとして、ふとを見た。いつも通り観測をしていた。多分オリオン座だ。大星雲Mなんとかが見れるようになってきたと言っていた。はいつも通りだった。元親がいようがいまいが関係はない。そんな薄い膜のようなものを纏って、は遥か宇宙に沈み込んでいる。窓枠で切り取られた宇宙。そこにゆこうとする。それは、随分と完結した絵のようで、元親はつい手を止めた。まな板を出したまま、台所の灯を消す。は反応しない。引き戸を背もたれにして座り込み、元親はを見始めた。音楽が無い。車の音もしない。ボイジャー二号の信号音が聞こえそうな静寂。 「」 低く呼んでみる。は無視した。恐らく聞こえていない。手を伸ばしてみる。日常から遠い背中まで、たった数メートル。けれど、はそこにはいない。届かない。まるで光が屈折した水底の魚のように。そういえば最近ヨットサークルに顔を出していない。今はオフシーズンだが。海に行っていない。毎日、夜の空ばかり見ている。星の海に泳いでいくを見ながら。 缶コーヒーを置いて、元親は泳ぐようにベッドに近寄った。月がない。月齢二十六の今日は、深夜にならなければ月は昇らない。は天体を愛しているが、月に関しては愛憎半ばする。光に霞んで星が見えないから。それでも彼は、地球から僅か三十八万キロの星を嫌いにはなりきれなかったと言った。対して元親は月が嫌いではない。月は夜釣りの良い友だ。月面に海の名前を冠しているのも気に入っている。は薄く笑いながら、晴れの海が好きだと言った。なんとなく、言葉の印象で、元親もそれを気に入った。下半分にある目立つ光条を放つやつがそれかと聞いたら、あれはティコと言うクレーターだと教えられた。元親からまで三十八センチ。 「元親」 指が触れる寸前で名を呼ばれた。まさか。が気付くわけがないと思っていた。は今宇宙にいるのだから。木星の輪や、もしかしたら海王星のあたりに。腕を伸ばす。綿入れごと、細い体の重みを感じる。中身のない体。地球を飛び出していった。寒気にさらされた髪に初冬の匂いが染みついている。が腕を動かす気配がした。ことり。小さな音がして、望遠鏡が置かれる。白い筐体が夜色に染まって青い。 は顔を空に向けたまま言った。 「おれ、元親はわかる。太陽みたいにあたたかいから」 元親はあたたかいなあ。だからおれ、きっと、寂しくないんだ。が振り向いた。上ばかり見ていた瞳が、元親を見ている。涙の膜が僅かな光を反射して、白目に光の欠片があるようだ。吐息が混ざる。あたたかい。 「アンタも、あったけぇよ」 薄く笑った口を塞ぐ。がさがさの唇。舌を滑り込ませた口内は、三十六度よりあたたかな熱を持っている。柔らかい肉。歯列をなぞるとが震えた。息が苦しいらしく、角度を変えるたびに声が漏れ聞こえてくる。の口の端から飲みこみきれない唾液が滴った。肩越しのキス。唇を離すと、は酸素不足の虚ろな顔で俯いた。何万光年を越えた、海の中のような、青い光が二人の間に入り込む。元親は、ゆっくりとを押し倒した。が影に沈む。藍色に染まっているとき、彼は相対性理論の中にいる。それなら、藍色から遠ざければ。口付ける。が無抵抗なのをいいことに足を割り、性急な手を服の中に侵入させた。あたたかい肌を辿る。他人の肌との摩擦で、が鳥肌を立てた。小さく喘ぐ。外気と同じ温度の室内で、少しずつ熱を上げていく。ここにはもう、同じ時間が流れている。青の中、隠れるように抱き合った。 ユーリィ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン:ソ連の空軍パイロット。人類初の宇宙飛行を達成。 |
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