深度06 : mesopelagic

 筑前煮のパックだけ買って帰ろうとして、冷蔵庫の中身を思い浮かべた。自宅のと、もう一つ。鶏肉はあった。大根も半分。卵はどうだったか覚えてない。外界から遮断されて、真白に降り注ぐ白熱灯の下商品がぎゅうぎゅう詰めにされたスーパーではわかりにくいが、暮れるのが大分早くなった外は先日木枯らし一号が通過している。忘れもしない。何しろまだ窓を閉めずに頑張っているの部屋が酷い有様になっていたから。そして元親はその片付けを手伝ったから。
 元親は筑前煮のパックを棚に戻すと、練り物とこんにゃくを探し始める。はきっと今日も窓を閉めない。一昨日、このレポートが終わったらくじら座の変光星ミラを観測すると言っていた。多分今日あたり終わるはずだ。それなら温かい鍋物の方がいい。ちなみに少しのぞき見たレポートは、興味のある部分と無い部分の比重がものすごいことになっていた。専門外から見てもひどいレポートだ。一部以外。
 (しかし、同じ大学だったとはなァ)
 衝撃的な初対面の数日後、後期授業が始まった。オリエンテーションの順番を食堂で待っていた元親は驚いた。窓際に、磯辺揚げ定食そっちのけで本を読みふけっているがいた。
 声をかけて数十秒、焦れた元親が名乗り直しかつ出会いを説明してようやくは思い出した。磯辺揚げ定食は手つかずの白米が水分を失っていた。時計を見たは相変わらず抜けた声で「あ」と言った。地学部のオリエンテーション終了まで残り十分だったらしい。呆れる元親に、あとでゼミ担当の教授の所に行くからいい、と潔く返答し、は磯辺揚げを一つ食べた。
 「冷たい」
 「、お前、何年その定食を放っておくつもりだったんだ」
 は大まじめに言った。
 「包んでもらって、うちでレンジにかけようかな」
 部屋に持ち帰ったら、黴が生えても放置されそうな予感がした。元親は半ば強引にその日彼の部屋を訪れた。相変わらずの惨状だった。元親は確信する。を放っておいたら、間違いなく大学生変死事件が起こる。
 以来、元親は三日に一度はの部屋を訪れることにしている。元親の世話好き精神がそうさせた。多分、危機感とか、義務感、そんなものも付随していた。の生活は元親によって間違いなく改善されている。彼の生活は酷いものだ。夕方からほとんど明け方まで観測。少し眠って、授業か博物館ガイドのアルバイト。授業は必要最低限かつほぼ寝ているため、成績は恐ろしいほど低空飛行。誰が見ても卒業できるぎりぎりの単位。博物館のバイトは楽しんでいるようだが、なんのことはない自分が好きなものだからだ。は半分死んだような館長が一人、学芸員が二人の滅多に人の来ない鉱石博物館で働いている。惑星や隕石に含まれる鉱石が見れるんだ。嬉しそうに言ったは、時給の安さなど問題にしてないようだった。そんな生活だから、はまともな食事も、掃除もしていない。押し入れには漫画のようなキノコが生えていた。
 元親による大掃除と差し入れが定期的に行われるようになって、も少し衛生を意識し始めたらしい。前回訪問したとき、雑誌が一カ所にまとめてあった。まとめてあるだけで、整理もされていなければ本棚にも入れてなかったが、とにかく一カ所と呼べる範囲に雑誌が集めてあった。それだけで劇的な進歩である。元親があんまり怒るから。毎度掃除をするから。理由はいくつも考えられたが、ベッドの上で相変わらず望遠鏡を覗くに感動しそうになった。、と呼びかけると二度目で返事をした。感動した。
 おでんの材料を揃えた元親は、忙しそうなレジを済ませて外に出た。暗い。西の空に僅かな太陽光の名残がある。駅前のネオンに掻き消されて分かりにくいが、いくつかの星が浮かんでいる。人工照明に負けないのは月か一等星くらいだ、とが言っていたのを思い出す。なら、あれらの星の名もわかるだろう。無心に空を見上げる、反ったうなじ。観測中のは、生活感溢れる部屋とは切り離されたような背中を持つ。
 そんなときのの頭の中には何があるのだろう。同じ星空が、広がっているのか。雑誌も、時間も、体さえ忘れて、は宇宙の中に沈み込んでいるのかもしれない。星々の中へ。底へ。元親が声をかけても反応しない時、彼はきっと、部屋も、国も、地球さえも抜け出している。
 バイクを止めてのアパートに着き、合い鍵を差す。鍵をかけるという習慣についても、元親がうるさく言った。未だ二回に一回の割合で守られていないが。しかしは、あの通りインターホンに気付くなどということはできそうにない。なので元親は家族でもないのに合い鍵を貰ってしまった。俺はの。そこから先は考えないようにしている。
 はやはり、窓際にいた。声をかけても生返事すら返ってこない。六畳の部屋と通路を仕切る引き戸を閉めると、元親は勝手知ってしまった台所でおでんの手筈を整える。火力を落として味をしみ込ませる。手持ち無沙汰。元親は、読みかけの漫画が室内にあることを思い出し、細く引き戸を開けて部屋に入った。室内は暗い。照明の光が観測を邪魔するからだ。が部屋の明かりをつけない理由を、もう元親は知っている。暗闇の中で、の背中が浮き上がっている。三日月。遠く街の灯。電柱燈。そして深く、黒よりも藍色の空と、幾万の星。夜は案外に明るい。藍色の明るさ。暗黒ではない。頼りない明るさはまるで深い海の中のよう。身じろぎもしないは、海底に潜む深海魚のようで。
 引き戸の隙間から、まるで掠れた太陽光のような細い光が差している。


 中深層。光の限界域。水深200-1000m



 深度05  深度07