深度05 : centripetal force

 コップになみなみと注がれた水を飲み干した。は、今度は自分で立ち上がろうとする。もう一杯水が欲しいのか。しかし立ち上がった彼は、一歩も歩かないうちに足をもつれさせた。頭からベッドに倒れこむ。その拍子にまた雑誌が落ちた。手放したコップは、幸いにも床に衝突することなく、枕代わりのクッションが受けとめた。底に残っていた滴が零れて、涙の痕のような染みを作っている。元親は見ていられなくなってコップを拾い上げた。もう一度台所に向かう背後でが起き上がる。酔いが回っているのだろう。随分緩慢な動きだった。水を入れた元親が戻ると、はぼんやりした視線を窓の外に向けている。また、彼が桟を乗り越えたがっているように思えて、元親は「おい」と声をかけた。は髪の毛一筋動かさない。三度目の呼びかけでようやく、彼は元親に気付いたようだった。じ、と赤ん坊が覗きこんでくる大人を見るように凝視して、元親がいたたまれなくなる寸前で視線をずらす。コップを見つけたは、「あ」と言って手を突き出した。水をねだっている。「りがとう」遅れて付け加えられた感謝は、なんとも間抜けな感じがした。
 妙なテンポで生きている奴だ、と思いながら、意地悪をする理由もなかったので彼にコップを渡す。今度は、は一息に飲むことはなかった。ちびり、ちびり、半分くらいまで舐める。そして彼は、急にコップを目の前まで持ち上げると、気泡の浮いた底を見つめて動かなくなった。
 「……何だ? 何かあるのか?」
 「火星の氷の痕が発見されたのはいつだったかと思って」
 確か、この辺にあったはず。そう言っては、コップを物で埋まったサイドテーブルにおざなりに置くと、ベッドからべちゃりと落ちるようにして床に散らばった雑誌を漁った。元親は部屋が散らかっていった過程を理解した。雑誌や本の山を崩し、新たな山を築きあげたは、「これだ」と一冊の雑誌を摘まみ上げた。「2004年12月号の『サイエンス』」元親には何がそんなに喜ばしいのか理解できない。確かに、疑問が氷解するのは、嬉しいことなのだろうけれど。
 そのまま論文を読みかけたは、再び「あ」と呟くと元親を見上げた。耳から顎にかけての輪郭。細い首。突き出した喉仏。ようやく正面から見た顔貌よりも、そんなものが目を引いた。
 「―――おれ、
 「、長曾我部元親だ」
 「そうか。初めまして、長曾我部。助けてくれてありがとう」
 はそれだけ言うと、義務を終えたかのように雑誌に没頭してしまった。傍若無人。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。こいつ、元就の同類だ。何度目かの確信を新たにする。もっともは、元就と違いあからさまに人を邪険にしているわけではない。元就なら元親に礼など言わない。そして元親はそれに慣れ切り、結果元就の女王ぶりは磨きがかかる。の場合、女王ではなく、もっと子供に近いようだった。興味のあることだけに没入する。グラフ化したらきっと集中力が飛びぬけている。対人能力とか生活能力は別の意味で鋭い傾斜を作っていることは間違いない。
 「なあ、あんた」
 「………」
 「おい」
 「………」
 「おい、!」
 「………ん?」
 五秒かかった。呼び掛け始めてからではない。固有名詞を呼んでから五秒だ。元親ははぁぁ、と息を吐いてしゃがみこんだ。ヤンキー座り。大柄な彼にはその姿勢が良く似合い、かつ威圧感がある。しかし対人能力の著しく不足したには、大した迫力もなかったようだった。
 「あんた、疲れるって言われねぇか」
 「……? 言われたことないなあ」
 「あんた友達少ねぇだろ」
 「友達くらいいるよ。大学とバイトには行ってるから」
 頻繁に視線を雑誌に落としながら、はどこか噛み合わない返事を返す。こいつの言う友達は知りあいレベルに違いない。元親は失礼な決めつけ方をした。大した人物評もしない付き合いであるに違いない。このテンポに違和感なく付き合っていける人間がそうごろごろいてたまるか。元親は深くなりつつあった眉間を軽く揉み、努めてきつい口調にならないように言った。
 「お前、自分が屋根から落ちかけてた自覚あるか?」
 「うん。おれ、外で飲んでたはずだし」
 「なんであんなことしたんだよ。下手な所打ったら危なかったぜ」
 「だって、今日、流星群だったんだ」
 やはりというか天文系の返事。は何かのスイッチが入ったようにべらべらと十五分近くその日の流星群について解説し続けた。
 「でも、余韻に浸って酒を持ちだしたのはだめだったな。おれ酒弱いんだった」
 望遠鏡を室内に戻しておいて良かった。安全管理に関する反省が小指の甘皮ほどしかないコメントに、石化していた元親は石らしく固めた拳骨を見舞ってやった。が頭を抱える。
 「いたい」
 「おう、痛い程度で済んで良かったな」
 は恨めしげに元親を睨んだ。年不相応の、しかし人間らしい表情。「ったく、」元親は、どうしようもない舎弟を構うような心地になっていた。ほぼ初対面の相手に。
 「、お前が本当に星が好きなのは分かった」
 「うん。おれ大好きだよ」
 「けどよ」
 また語りだしそうな気配を察して、言葉を矢継ぎ早につぐことでそれを封じる。
 「限度ってものがあるだろう。少なくとも、自分の身の回りのためには少し残しておけ」
 随分とおせっかいな忠告だ。しかしそれをする側も、される側も、そんなことは欠片も思わなかった。元親からすれば、この人が住むとも思えない環境で人間的な生活を送っているかも怪しい相手だ。この惨状の前にはおせっかいという言葉より心配の方が掻き起こされる。そしてといえば、ゆっくり部屋を見回して、「ああ」と短く発声した。
 「朝飯、まだだった」
 使いっぱなしのタオルに半分隠れた目覚まし時計は、午前三時を指している。


 向心力、求心力:衛星・惑星間の重力作用により物体の軌道を円形にする。物体の速度に対して垂直。



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