深度04 : tubular eyes 今日も窓が開いている。 男は相変わらず覗きを続けているようだった。ただし、最近は恋人でもできたのか、行為に耽っている夜も不定期にあった。妙なことは、時折その嬌声の元が明らかに違うことか。女の喉ではないかもしれない、と思ったことが何度かあった。その度、その想像が向かう先に思い至って、元親は酷く胸糞の悪い気分になった。女でなければ、それは。男がいわゆるタチかネコかなど知ったことではない。それを想像してしまった己を酷く自己嫌悪して、誰彼構わず殴りつけてしまいたいような暴力衝動を持てあました。己の野次馬根性が厭わしい。自分の中にこんな卑俗な好奇心があったとは。元親は、元就のような学究タイプでもなければ聖人でもない。けれど、ワイドショーを好むような人間ではないと自負していた。それなのに。元親は自嘲した。最近元親は自嘲を覚えた。太陽と海風の似合うこの男に、その笑顔は酷く似合わない。それを元親が手に入れてしまったのは、あの、海辺で自慰をした翌朝だった。 精液が乾いた掌に、己への酷い失望感を覚えた。「おかず」など無かった。けれどきっかけは、あの男の性行為を覗き見た、その興奮だったのか。元親はそれを思い出さないようにしている。快楽とは程遠い不快感と、わけのわからない失望が渦巻いているからだ。元就のような、生気の乏しい輪郭。それが生々しい営みの中にあったことを認められない。そんな、性欲とは言い難い衝動で始めた自慰。欲望の対象を思い浮かべることもできず、ただ八つ当たりのような暗い快楽を得てしまったことが、元親には酷くあさましく思えた。それも彼の大好きな海で。純粋な憧れを穢してしまったような罪悪感。 飲み会からの帰り、元親は例の窓を見ないように歩いた。部屋が近づくにつれ、手に持った缶ビールのプルタブだけを見ている。酒が齎す解放感よりも、あの窓の向こうが持つ奇妙な重力の方が強かった。 バイクで帰る場合、まず自分のアパートを、ついで畑、そして覗き魔のアパートを素通りした先に駐車場がある。しかし駅からの徒歩の場合、その順番は逆転した。駐車場を横目に見る時点で、元親の四肢に無意味な緊張が走る。自然、息が細くなった。元親らしくない神経質さ。それが作用したのか、鼻の粘膜が微かなアルコール臭を捉えた。自分のものか。一瞬の納得はすぐに覆された。カン、と澄んだ、軽い音が響いて、空き缶が地面に転がる音が谺した。思わずそちらを向いてしまって「しまった」と思う。そこは、あの覗き魔のアパートだ。覗き魔の部屋は角部屋なので、アパートを見れば自然に視界に入ってしまう。窓は今日も開いていた。珍しく、人影は窓の外にあった。ベランダを乗り越えて、傾斜の緩い瓦の上。灯をつけないので、毛布の塊が転がっているように見える。 あ、と思った時には体が動いていた。 屋根の上の塊が、ずるり、と、重たげに滑ったのだ。そのままなすすべもなくずり落ちていく塊に、元親はおかしいほど必死で手を伸ばした。缶の後を追って落ちた男が、缶と同じように地面との接触音を立てなかったことに元親は安堵した。酔った体に降り落ちてきた体重の衝撃は、彼に肉と肉の衝突による一瞬の痛みを与えていた。痺れたように散った衝撃をやり過ごしながら、元親は、この男にも体重があるのだな、と妙なところで発見をしていた。それほど、彼には現実感が無かった。 七分のシャツを着た覗き魔は、酔っているのか甘ったるい酒精の匂いを漂わせて、喉仏の突き出た喉をそらしていた。動かない。 「おい、あんた。大丈夫か」 「………」 ぐったりとした男は、何事かをモゴモゴと呟いた。泥酔している。これは駄目だと判断して、元親は彼を抱え直した。幸い部屋は知っている。元親は、足先を男のアパートに向けた。昭和から置き去りにされたような安普請のアパートの階段は、のぼるたびに高い音を響かせた。二階道路側の端。表札には、マジックで書いた苗字があった。。決して上手くはない。右上がりの字。とめはねはしっかりとしていた。ノブを回してから、鍵がかかっている可能性に気付いた。しかしそれは全くの杞憂で、ドアはやすやすと開いた。男の一人住まいとはいえ、鍵も窓も閉めないの防犯意識が心配になる。 「邪魔するぜ」 一言断って、元親は靴を脱いだ。カップラーメンの容器と箸が突っ込まれたシンクから、饐えた臭いがしている。電灯のスイッチを探し出して明かりをつけると、更に酷い惨状が晒された。ラーメンの食べ残し。煙草が詰め込まれたウーロン茶の缶。チューハイ。飲みかけのペットボトル。そして何よりも、部屋中に散らかった雑誌の山。この男、よくこんな腐森で生きていられるな、と元親は思った。比喩ではなく、足の踏み場がない。見た目に似合わず人並み以上の几帳面さを持つ元親は、雑誌を足で寄せて道を作りながら、部屋の中を進んだ。皺のよったシャツと、やはり雑誌に埋もれたベッドにを投げ出すと、彼はごにょごにょ言いながらブランケットを掴んだ。その拍子に雑誌が落ちる。溜息をつきながらそれを拾い上げてやると、元親にはよくわからない図の載ったページに折れ目が出来ていた。 「連続…スペクトル、吸収線スペクトル? なんだこりゃ」 ぱらぱらとページをめくってみる。岩石が大写しにされた写真や、球体を入れ子構造のように図説しているページがあった。ところどころに謎の数式。表札と同じくせ字で書き込まれているものもあった。物理学系の雑誌かと思ったが、どうやら天文学のもののようだ。星、とか、宇宙、といった単語が散見される。女子の興じる星占いどころの内容でないことはすぐにわかった。随分と専門的な雑誌らしい。見渡せば、そこら中に散らばっている雑誌のほとんどが、それに類するもののようだった。英文の雑誌まで混ざっている。壁には、わかりやすく星空の写真。工学の好きな元親にもさっぱりわからない周期表。そして窓際には、細身の望遠鏡があった。恐らく、以前元親が見て、を覗き魔と勘違いした原因だ。 「う、ん……」 元親が、自身の誤解と、鬼気迫る真実に唖然としていると、が小さく呻いて薄く目を開けた。 「お、目が覚めたか。今、水持ってきてやるからな」 にそう声をかけて、雑誌を適当に置いた。元親は僅かな足場を跳ねるようにして台所に向かう。寝転がったは、億劫そうに首を動かした。カーテンを閉めない窓から星空が見える。見知らぬ男が室内にいるというのに、全くの無頓着ぶりだった。 「アンタレス…」 窓枠ぎりぎりに赤星が見えた。は満足そうにそれを見上げる。見つめる。コップを探していた元親が、水を流し始めた。 管状眼:管状に変化した眼。深海魚に多い。海面方向(真上)からの光に対応。 |
深度03 深度05 |