深度03 : bioluminescence

 窓が閉まっていた。カーテンは開いていた。
 最初に注意を引かれたのは、微かに鼓膜を揺らした高音だった。それは澄んだ音ではなく、やけに生々しい。あるいは焼け爛れたような。気付いてしまえば絡みつくその音を辿ると、例の覗き魔の窓だった。相変わらず明かりもつけず暗い。真暗な四角形の中、一際黒い塊があった。人影。湿り気を帯びた動き。再び高音が谺した。媚。快楽。嬌声に潜んだものたち。
 正直に言えば驚いた。
 元親の中では、あの暗い部屋に住んでいる男は覗き魔で、覗きなんてやる奴は社会性が著しく欠如した奴だった。もちろんそうでない覗き魔もいるだろう。エリートサラリーマンが痴漢の常習だったというニュースを先日も見た。女教授が万引きであったり。心の闇は主の外面を選ばない。ならばあの覗き魔も。元親はあの覗き魔を影でしか知らない。一度彼の横顔を浮かび上がらせた車のライトも、その造作を知らせるには至らなかった。やせ気味の輪郭を縁取っていた、ぼさぼさの髪がそれを困難にした。
 (とても女にもてるようには思えねえが)
 なにせほぼ毎晩のように覗きをしている。夜が浅かろうが深かろうが。女っ気も友人の気配もない。だから当然のように引きこもりと断定していた。栄養不足気味な輪郭。無心な輪郭。引き摺られるように思い出した。覗きにしては、好色な雰囲気はなかったように思う。むしろ彼には、そういった生々しいものを拒否する潔癖さがあるはずだと思った。矛盾する思いこみだ。友人の元就に似ているからかもしれないと思う。元就は同じ海洋学科だが、工学寄りの元親とは違い海洋生物に非常な関心を抱いている。人間になど興味は無いとでも言いたげな彼が、標本を食い入るように見つめていた横顔に似ていたのだと思った。その男が。女の嬌声。抱いているのか。ふいに、窓の向こうに凝る暗闇が粘着性を帯びた。脳髄がそそけ立つ。何かを、土足で汚されたような不快感。何かを。牽いていたバイクのキーを捻る。閑静な、嬌声の零れる夜に爆音が生まれた。ハンドルを捻る。ライト。急激な光源に目が眩む。窓の方を見ないようにした。ヘルメットを深くかぶり直す。バイクにまたがる。エンジンの燃える音が余分な音を掻き消している。ライトの照らした光の道に従って、元親は地面を蹴った。駐車場が横に流れる。ミラーが小さく光った。どこかに、ライトが反射したらしい。それを目で追った元親は見た。あの男が、首に女の腕を巻き付けたあの男が。ミラーが一瞬映し出した、その肌色の塊を振り払うように国道に出た。車たちの光の川に入る。一滴の発光体になって。行き先など決めていない。部屋に帰るつもりでいたのだ。目についた最初の道路標識に従ってバイパスに乗る。オレンジ色に染まる視界。体を叩く、夏の夜風。ガソリン臭い。生温かい。突き上げてくる衝動。潔癖な輪郭に絡んだ腕。そこにあるべきでないものがある。そんな苛立ち。言うなればそれは失望。覗き魔に対して崇高な理想でも抱いていたのか。馬鹿馬鹿しい。
 風に潮の匂いが混じる。誘われるようにバイパスを下りた。オレンジ色の眩しさが遠ざかる。暗い。波の音はまだ聞こえない。剥き出しの腕に触れる風の感触が変わる。海の気配。道路燈が間延びし始め、夜闇がひたひたと近寄ってくる。窓の向こうはこれと同じ色をしていたはずだった。タイヤが柔らかい砂を噛む。バイクを止める。ヘルメットをおざなりに脱いだ。いやな汗が、髪の隙間を流れている。暗い。荒い息を吐いていた。呼吸音に覆いかぶさるような波音。空気の温度から近さを測る。暗すぎて波打ち際がわからない。月が出ていた。黒々とした沖合が気まぐれにその光を反射して銀色に瞬く。魚の鱗のように。薄墨で染めたような雲が浮かんでいる。それらと海の間に、あの赤い星。月に圧倒されながら、そこには、ぶちまけたような星があった。海からの風が、立ちすくんだ元親の体を冷やそうと肌を撫でさする。座り込んだ。湿り気を帯びた砂。すぐに元親の体温を吸い、生温かくなった。
 その場で自慰を始めてしまった己を記憶している。


 バイオルミネセンス:生物発光。誘引、撃退、通信、照明。冷たい発光。



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