深度02 : Antares 窓が開いていた。 夏の宵である。元親は気にしなかった。寝静まった街を憚って、早々にエンジンを切ったバイクを牽き牽き駐車場に入れる。毎度ながらおかしな立地だと思う。アパートに併設すればいいものを、元親の住む大学生用アパートと、彼の愛車が停まる駐車場との間には別のオンボロアパートと小さな畑がある。畑には、胡瓜や茄子といった夏野菜が熟している。畑が誰のものであるかは知らない。けれど、金欠と相場の決まっている周囲の大学生たちが狼藉を働くことはなかった。噂では、昔から近所に住むヤのつく職業人が趣味で世話しているのだという。わざわざトラブルに首を突っ込むほどの向こうみずは、近頃の学生にはない。 キーを弄びながら駐車場を出た。街燈が少ない。中途半端な街は、それだけに天の川が良く見えた。 「よう彦星、織姫を寝床に誘えたかい」 七夕はとっくに過ぎていたが、確か旧暦なら8月が七夕だと女子が言っていた気がする。もっとも元親には、どれが件の恋人星やら区別がつかない。明るい星がそうだろうと適当に辺りをつけ、一際目立つ赤い星を男女のどちらかだと決めつけた。にやにやと下世話な微笑を浮かべながら首を傾ける。凝っていた筋肉が小気味の良い音を立てた。 「あ〜、凝ってんなぁ」 汗を吸って湿気ったシャツの上から首筋を揉んでいると、空から下がった視線が開け放たれたオンボロアパートの窓を捉えた。申し訳程度の桟に人の気配。部屋に灯はない。真黒な塊と化した住人は、何か細長いものをいじっているようだった。ああ、またやってやがる。元親は眉を顰めた。あの部屋に住んでいる男は覗き魔だ。一度、車のライトが望遠鏡を覗く男を浮かび上がらせたことがある。この周辺にはぽつ、ぽつと建物がある。大方そのどれかに住む女を覗いているのだろう。元親とて男だ。男の気持ちはわかる。だが共感はできない。しかも、毎日だ。男は、元親の知る限り、毎夜窓を開け放っては望遠鏡を覗きこんでいる。軽蔑以外の何を抱けようか。胸糞悪い気分で呼びかけた。 「よう、あんた! こんな夜遅くまで、お盛んじゃねぇか!」 皮肉たっぷりの大声は、些か他の住人の迷惑だったかもしれない。しかし肝心の男は身じろぎすらしなかった。元親は「けっ」と吐き捨てると自身のアパートに向かい、安い誘蛾灯の下をくぐった。筋肉には、一日の疲れが柔らかな泥のように降り積もっている。さっさと洗い流してしまいたかった。部屋の灯をつける。白熱灯が照らし出す、適度に荒れた部屋。ベランダから干しっぱなしの洗濯物を取り込むと、タオルと下着を一枚ずつ手に取った。畑の匂いが薄く鼻先をかすめる。路上ではあれほどはっきりと見えた天の川が、随分とちゃちなものになっていることにふと気付いた。分かりやすすぎるほどに目立っていた赤い星が見えない。元親は一瞬そう思って、すぐにその疑問を放棄した。星が見えようと見えなかろうと、元親の生活にはなんの変化もない。要は晴れていればいい。晴れてさえいれば、バイクを転がす楽しみもあるし洗濯物もよく乾く。乾燥機だなどとお高いものは貧乏学生には夢のまた夢だ。 元親の部屋の浴槽は狭苦しい。ユニットバスだから仕方ない。それに加え、彼自身が巨漢であるものだから、オフホワイトの浴室にまますます圧迫感を感じずにはいられなかった。どうにか入浴を楽しむために、浴室の壁には特別にラミネートされた海の写真が貼ってある。以前、ヨットサークルに遊びに来た友人の慶次が撮った写真だ。長方形の中に息づく海の気配は、狭苦しさを忘れるためになくてはならないものだった。次の休みには、風呂掃除でもするか。写真をタイルに貼りつけた吸盤に水垢が付着しているのを見つけて、元親はそう思った。夏場の浴室は頻繁に掃除する必要がある。面倒だな、と思いながら、写真に跳んだシャンプーを拭った。何枚か貼られた写真の中で、それだけが夕景だった。黒と朱色で描きだされた波。紫色に染まりつつある空。そこに伸びた帆影。そして、白く映り込んだ一番星。なんの足場もなく、ぽつんと空に浮かぶ星は、不思議と誇らしげであるような、途方に暮れているような、そんな相反した印象を与えた。星だから、空にあるのは当たり前だというのに。遠いなあ、と、そのように感じた。遥か、遥か遠いところからつり下がったシャンデリアの、スワロフスキィ・クリスタルの輝きのように。 アンタレス:さそり座のα星。赤色の恒星。さそりの心臓。 |
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