深度01 : spectrum

 帰り道に、カーテンを閉めない部屋があった。
 例えば製図用具を忘れた大学帰り。例えば潮の匂いをさせたサークル帰り。例えばしこたま酒を浴びた飲み会帰り。例えば早めに終わったバイト帰り。元親が、田舎でも都会でもない街の大学生をしていた頃の話だ。夜道を辿るたびに見るその部屋は、窓の両側にカーテンの影こそあるものの、閉められているのを見たのは一度もなかった。晴れた夜も。曇った夜も。雨の夜も。雪の夜も。不用心だという元親の忠告に対し、家主は昼間は閉めているととんちんかんな答えを返した。だって昼間は眩しすぎるから。そう言い訳して分厚い遮光カーテンに閉ざされた室内は、隙間から差しこむ光が浮遊する埃を煌めかせて、マリンスノーの降るようだったことを覚えている。そう言ったら彼は、海洋学部の発想だと笑っていた。地学部で、天文学に傾倒していた彼の目に、あの微細な煌めきはどう映っていたのだろう。今でも、頼りなく零れる光条を見ると、元親は彼のことを思い出す。聞いておけばよかった。
 彼、と過ごした日々は、大学という許されたモラトーリァムの中で、忘れようにも忘れられない時間の流れ方をしていた。まるで印象派の絵画のようだったと思い返す。例えばあの夏は随分と光の色が濃く、秋の闇は黒髪のようになまめかしかった。樋から落ちた雨の音や、割れたガラスの切り口の輝きが、海馬の奥深くに刻まれている。
 記憶の中で、は腐海のような部屋で胡坐をかいている。彼の周囲には読み散らかした天文雑誌やセロテープまみれのプラネタリウムが転がっている。彼はそれらを愛しむような、諦めるような顔をしていた。彼はひどく曖昧に笑う人間だった。それは高村光太郎の詩集に出てくる女の最期を思わせた。元親はそれを忘れたくて仕方がない。けれど、の真影はその微笑であった。そのことは、当時彼の最も近くにいた元親が、一番に承知していることだ。白痴のような憧憬。焦点も合わぬ痴態。それこそ数限りない彼の表情のどんな記憶よりも、はカムパネルラのようなその微笑でもって元親の中に存在した。遥か、何万光年も向こうの男。。触れても、抱いても遠い彼は、分かち合った時間をこう呼んだ。おれたちは、きっと、星底のスペクトルで生きていた。


 スペクトル:電磁波。光の波長。光の成分。



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