外野が盛り上がっているのに対し、夏目はむしろ憂鬱な気分だった。塔子に帰宅の挨拶をして、部屋につくなり鞄を手放す。太陽の残り火が部屋を赤と黒に切り取って、その強すぎる色の対比に目を眇めた。ずるずると座り込んだ夏目は、そのままぱたりと横に倒れる。ニャンコ先生は飲みに行っているのか愉快な声が割り込んでくることもなく、夕飯の支度を始めた塔子の物音を感じながら、夏目の思考は溺れていった。

 『ねえ夏目、チョコ好き?』

 は、我ながら自覚している警戒心を軽々乗り越えて、いつの間にやら夏目が構えていた遠慮を取り払ってしまっていた。彼女について一々考えることもなかったので、思い返して今更気付く。
 夏目は持って生まれた力のせいで、相手でもヒヤリとすることは何度もあった。居心地の悪い思いをしたことも、彼女を羨んだこともある。けれども、例えば藤原夫妻や西村、北本相手のように、困りきったことが無い。決定的と思われる状況ですら、さらりと流されていた。
 妖なんて頭から信じていないのか。事実は全く見えない。一家の考え方や挙動は、時折、本当は見えるんじゃないかと思うようなものなのに。この間の水仙の一件は本当に驚いた。

 (は、おれが気持ち悪くないんだろうか)

 思い出せば思い出すほどぼろぼろ出てくる瞬間たちを、は何度も目撃しているはずなのに、彼女は何も変わらない。
 いやむしろ、夏目が言葉に窮するたびに、は助け舟を出してなかったか。
 そこで起こった不思議を隠蔽し、隠しきれない夏目の嘘を隠すために。

 「考えすぎ……だよな」

 は見えない。それを夏目は良く知っている。はいつだって、足元にいるニャンコ先生に会わせてくれとせがむのだ。はにやにやと笑う。してやったりと笑う。夏目より少し低い位置で花咲く笑顔は、可愛いとか綺麗というより爽やかだ。さっぱりとしたその笑顔が夏目は意外と好きだった。夏目が変なことをやらかしてしまっても、はなんら気にしない。なあ、、お前やっぱり見えてるんじゃないのか。

 『さんを、そういう風に見るのが嫌なのか?』

 西村の言ったことは多分間違っていない。との友人関係は、ひどく居心地が良かった。は何も訊かない、怪しまない、追求しない。だから夏目もあれこれ気を揉むことはなかった。だからといるのは居心地がいいのだろう。
 こうして並べると、夏目は我ながら彼女を好きになってもおかしくなさそうだと思う。しかし実際、夏目はを恋愛対象として見たことがない。いや、これはに限るまい。夏目は誰かを恋うるというのがよくわからなかった。
 夏目は妖たちと交流するうち、彼らの何人かの心を覗いてしまって、中には恋と呼べる気持ちを追体験したことがある。けれども、あの胸の踊るような、切ないような、体を巡っていく花信風を自分のものとして感じたことはない。第一妖絡みの厄介事に巻きこまれてばかりの自分が、仮に誰かを好きになったり、誰かに好いてもらった時、自分にできることは心配をかけることだけだろうと夏目は思う。夏目はまだ恋というのものに実感も興味も薄かった。チョコを贈ると言ってくれたに、もしそんな気持ちがあるならば、それがの気持ちでも自分の気持ちでも申し訳ないことだと思う。
 との距離は、友人が一番丁度いい。幸い向こうも友人として夏目を遇してくれている。まるで西村や北本のように。―――と、ここまで考えて、夏目はふとした違和を感じた。
 は友人だ、間違いなく。けれど西村や北本と同じではない、何かが違う。
 そりゃあ(忘れがちだが)異性だし、同性の西村たちとは同じというわけではないだろうが、と西村たち、何が違う。彼らは共に優しくて、笑ってくれて、居心地が良くて、心配してくれ、て……夏目は閃く。の煙に巻くような笑い方。

 「おれは……の真剣な顔、見たことがないんだ」

 いつだっては笑ってばかりだ。西村や北本のように、あるいは田沼や多軌のように、抱え込みがちな夏目を怒ったことも不審がったこともない。悲しんだことなどもっての外だ。何しろ彼女は、妖に関する夏目を何も知らない。仮に気付いていたなら、気付いていないふりをしている。
 は決して、夏目の中に踏み込まない。



 夕飯の支度が整ったと、夏目を呼びに来たニャンコ先生は、襖をあけた部屋の暗さに驚いた。
 夏目はとうに帰宅しているはずだが、一体どういうわけで部屋が暗い。台所に夏目はいなかったはずだが。
 部屋を見回したニャンコ先生は、隅で膝を抱えた夏目を見つけて再び驚く。どうした夏目、と近寄ったニャンコ先生は、消え入りそうな少年の声を聞いた。

 「ニャンコ先生、どうしよう」
 「なんだ、何が起こった?」

 また厄介な妖でも寄せたか、と尋ねる用心棒に、夏目は頭を振って、頼りなく顔を歪めた。

 「今、不安でたまらない」





 





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 110207 J