俺は、しあわせな人生を歩んできた。









 1 / 2 のクラウン! Nove : 赤い手、二本 U









 暑い日だった。
 強烈な太陽に照らされた空は白くさえ見えた。
 夏らしくなく、雲ひとつない日本晴れは水彩絵の具で塗り潰された画用紙のようだ。
 満天にあまねく行き渡る日光は木々にも容赦なく降り注ぎ、深緑はこころなしか葉裏を見せて萎れているように見える。
 こんな日はシエスタ(昼寝)以外にするもんじゃない。
 はそう思いつつ、いつものように城下町で曲芸を披露していた。
 とはいえ客足は鈍い。さすがにこの暑さがこたえるのだろう、炎天下で鑑賞なんぞできない。
 笑顔で演じるも、暑さがこたえないわけではなかった。
 池に落ちたように汗はぐっしょりかいているし、笑顔も芸もいつものキレがない。
 
 (頭から水を浴びたい)

 悲しいかなには水にまつわる悪夢があるので、それは叶えられない願望だが、そう願わずにはおれなかった。
 もう店じまいするかなと考え、ではではこれが最後の芸ですと言い放つ。
 その汗が伝った笑顔の先で、人影がひとつ、倒れた。

 「ぇ」

 日射病?
 そう思った瞬間、風を切る音が聞こえては素早く右に跳んだ。
 勢いのまま転がり物陰に隠れる。借り物の白い着物が汚れたがそんなのは知ったことじゃない。
 片目で今まで自分がいた場所をうかがうと、あろうことか見物人が数人倒れ、その背に、

 (矢?!)

 サーカスで見慣れたものではなく、上田城の守備兵が持っているような、殺傷力に優れた矢が何本も突き立っている。
 倒れた見物人たちは悲鳴をあげたり痙攣したりしているが、それも弱々しくなっていく。
 死の顎が彼らを飲み込もうとしているのが感じられた。

 (う、そ)

 の手が小さく震えた。目は限界まで見開かれている。

 (いや、いや、いや)

 意識が千々に乱れる。拡散を繰り返した意識はやがて一つの強固な本能に統一されていく。
 喉が渇いていた。からからの喉が浅く素早く酸素を取り入れている。酸素は微かに鉄錆臭い。それはやがてますます強くなって喉に絡みつく。
 悲鳴が聞こえた。喚声が聞こえた。聴覚が鋭く研ぎ澄まされていく。

 ここが現代日本でないことを知っていた。
 幸村たちを見ていたから、殺し合いが厳然としてあることを感じていた。
 は、それを、知って、いた。


 縮こまっていた体が動き出す。
 猫のようにしなやかな筋肉が躍動し、幸村が韋駄天と評した脚が灼けた地面を踏みしめた。


 (しにたくない)


 逃げる民衆の目指す方向へ、―――上田城へ、は全速で走った。
 笑顔の抜け落ちた体を、ただ生存本能に委ねながら。










 喚声が潮騒のように途切れない。
 悲鳴が絶え間ない。
 啜り泣きが終わらない。
 子を呼ぶ母の声が消えない。

 上田城に逃げ込んだ人間は多い、けれど城下の全てではない。
 必死で走るその手から力の無い手が脱落したのだ。
 はぐれた手は置きざりにされ、刀の餌食になるか、原始的な欲求以外の全てを振り捨てて逃げる脚に踏み潰された。
 民衆は、敵兵が殺到する前に閉じられる城門をくぐらなければならなかった。
 そうでなければ自分が死ぬのだ。
 優しさは余裕があるから振舞われるのであって、自分の命の余裕さえない時に存在するものではない。
 
 修羅の庭と化した上田城には悲嘆の声が満ちていた。
 何が起こったのかを把握している者などいない。招かれざる客の襲来は唐突だった。

 追われ、傷ついた人の群を抜け、は割り当てられた部屋にいた。
 ジャグナイフや保存食の入った鞄を抱き締めている。見開かれた目も、浅く早い呼吸も改善されてはいない。

 「いきてる」

 幽鬼のような顔色で、彼は言い聞かせるように囁いた。

 「いきてる。いきてる。いきてる。いきてる」

 目の奥に死体が焼きついている。
 魂の抜けた体。投げ出された手足。呆けた顔。―――冷たくなっていく、

 「いきてる」

 彼は鞄ごと自分を抱き締めた。
 逃げる人々の獣のような表情、追う白刃の輝き。
 ざわざわと体の裡が逆立つ。
 一瞬触れた死神の手が忘れられない。
 その手は冷たく残酷で、理不尽なほど甘美な、

 鋭敏になった聴覚がいくつもの足音を捕らえた。

 「様!」
 「っ!」

 思わずジャグナイフを取り出したはそれを投げる寸前で動きを止めた。
 見開いた瞳孔に必死の形相を浮かべた民衆が映る。
 誰も彼もが汚れ、傷ついて、追い詰められていた。

 (ユキムラがいないんだ)

 彼は佐助以下主だったものを連れて視察に出かけてしまっている。
 留守の者が奮戦しているが、そんなに敗色が濃厚なのだろうか。
 ジャグナイフを手放そうとしないに怯むことなく、女が一人歩み出た。
 何度か城下で見かけた女だ。彼女の子供がに良く懐いていたのだ。
 けれど今、彼女の傍らにその子供はいない。

 「お願いです様、私の子供が、あの子がいないんです。町に…町に、いるのかも……っ!助けて、助けて下さい。あの子を助けて…!!」
 「頼むよ!俺の母ちゃんもいないんだ。幸村様はいないし、お前しかいないんだよ!」
 「…………どうして、」

 どうして俺なんだ。

 は武士でも忍でもない。クラウンだ。刃物の扱いには慣れているがそれは人を殺すためのものではない。
 それなのに大切な人を見失った人々は、に彼らの救出を願う。

 「幸村様が認めてる。お前の強さを」
 「それはあいつの勘違いだ!」

 いやだ、は激しく頭を振る。

 「俺は強くなんかない。あいつは間違えてるんだ、俺はただのクラウンなんだ! いやだ、いやだよ。あんな怖いところ誰が行くもんか。折角助かったのに、またあそこに行くなんて気が知れない!」

 怖い怖い怖い怖い。
 血が出ていた。悲鳴が上がっていた。死んでいた。
 どうしてそんなところにわざわざ赴かねばならないのか。
 それも自分の為ではなく、家族の為でもなく、全くの他人の為に!

 「頼む、お願いだ!俺の母ちゃんを助けてくれ」
 「お願いです様…!私の命、あの子を…!」
 「だったらお前らが行けよ!」

 どうして俺に行かせようとするんだ。死んだらどうするんだ。俺は折角助かったのに。
 そんなに大切なら自分で行け。人に押し付けるな。大切なものは自分で守らなきゃいけない。
 だから俺は俺の大切な命を守るだけだ。
 それしかできないし、それ以上をする気もない。

 叫んだ。
 勢いこんで熱気を孕んでいた場に静寂が落ちる。ふうふうと荒れる自分の息の音だけがうるさい。遠くからはまだ悲鳴が聞こえていた。

 「ひどい」

 ぽつり、誰かが零した。
 それはあの母親かもしれないし、友人の誰かかもしれなかった。

 「どうしてそんなことを言うの」
 「お前なら助けられるだろう」
 「あの子が死んでしまう」
 「じいさんが死んだらどうしてくれる」
 「お前のせいで」
 「助けられるのに」
 「ひどい」
 「こんなに頼んでるのに」

 水を浴びせられていた炎が色を変えて甦る。
 人々の目に奇妙な熱が渦巻いて、それは死神の手のようにの首に絡みついた。

 「ひょっとしたら、お前があいつらを招いたのか?」

 呟いたのは、誰だったか。

 「お前は異国語をしゃべる」
 「奥州の忍か」
 「だからお前は行かないの」
 「あいつらを呼び入れたのか」
 「お前のせいであの子は死ぬの」
 「お前のせいか」
 「お前のせいで」
 「お前のせいで!」

 憎悪が膨れ上がる。
 がむしゃらな手が怯えた子供に伸びる。滅茶苦茶な動きで、ただその爪の先まで怒りをみなぎらせて。
 獣染みた激情を、は必死で振り払った。
 身軽い動きで彼らから距離をとる。

 「No!違う違う違う、俺は奥州なんて知らない!」
 「嘘をつくな!」
 「本当だ!」

 はただのクラウンなのだ。本当なら幸村や、今を捕まえようとする彼らとさえ会うことのなかった人間だ。
 追い詰められた民衆の目には明確な殺意があった。
 彼らにとって憶測は既に真実。
 それは、行き場のない怒りや恐怖を別の場所―――に向けて安定を図ろうとする無意識の仕業だ。
 敵が何者かわからない。親しい人が無事かわからない。自分が無事でいられるかわからない。
 普段彼らを庇護する赤い槍は今は遠いのだ。
 耐え難い恐怖は発散を求め、人を暴走へと突き動かした。

 「死ね!」
 「死ね、薄汚い忍!」
 「っ!」

 は身を翻して、彼を引き倒そうとする手から逃れた。
 あの手に捕まってはいけない、そこには死神の鎌がある。
 罵声と「逃げたぞ!」という叫びを背に、は部屋から走り出た。

 (庭には行けない、あそこにはまだまだあいつらの仲間がいる)

 不安に駆られた民衆は、何かのきっかけがあればいとも簡単に興奮と混乱の坩堝へ身を投げる。
 その熱の矛先がの死を願うのなら、城内にいるわけにはいかなかった。

 (城下へ行くしかないな。できるだけ見つからない場所―――森へ逃げよう!)

 忍のように塀を越えながら、は冷静だった。
 心臓の音がどくどくとうるさい、しかし五感は鋭く尖り、思考は巡るましく動く。覚えた町並みを頭に広げ、侵入者が使わないであろう道を選んだ。
 興奮の熱が満ちている。
 白い太陽の下に赤い狂気が満ちている。
 その中を、水のような冷静さを裡に抱いては駆けた。

 (イタリア、を、思い出す)

 頬を熱風が撫でる。
 どこかで火事が起こっているらしい。
 この炎天では延焼するだろう、は物陰に立ち止まって人差し指を舐め、風向きを確かめる。

 より安全な場所を目指して再び走り出した。裏道だろうが溝だろうが走れる道はどこだろうと使う。
 饐えた臭いが鼻を刺した。
 鉄錆の臭いが鼻を刺した。
 ああ、ここはシチリアの夜のようだ。


 (い、き、ぬいて、やる!)


 もてる全ての技量をもって。
 は振り下ろされた血刀を避けた。
 現れたどこの誰とも知らぬ敵兵の首に勢いと体重を乗せた一撃を叩き込み、手を離れたなまくら刀でとどめをさす。
 骨を絶つ嫌な感触がした。
 刀を引き抜くと、血管を傷つけたのか盛大な血しぶきが上がった。
 すでに土ぼこりや泥で汚れていた着物に凄惨な模様が描かれる。
 両手に伝った血液は温かかった。

 「いきるんだ」
 白目を剥いて絶命した敵兵の上に零す。
 汚らしいの頭上には青く晴れ渡った空があった。
 ああ、あの日に似ている。
 記憶のどこかで、女の啜り泣く声がした。


弱者の側
幸村サイドと同時系列です
イタリアだのシチリアだの言ってますが、主人公は裏社会とは関係ない人です
だから戦うのは怖いし縋った手も払いのけます。自分のことで精一杯だから
それなのに戦える理由は後日
080131 J

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