政宗。小次郎。――――輝宗殿。











 1 / 2 のクラウン! Ottantotto : the dawn V









 母上、と、たった一人だけが使う呼称を耳が捉えて、最上の方は頬に張り付いていた憔悴を振り切った。
 息子を振り返ることはしない。驚愕、疑念、敵意を背に、弁解もしない。
 最上の方は、正面に見据えた懐かしい軍装の中から縁の深い前立てを探す。見つけ出す自信はあった。義光の性格を考えればこの場にいることは予想がつくし、己の出現に驚いた彼は、きっと自分を迎えに来る。同じ血が流れ、同じ未来を求める家族と、義光はまだ思っているだろうから。
 案の定現れた懐かしい顔に、少し父上と似てきたと小さな郷愁をくすぐられる。しかし最上の方は、この場において甘えの一切が不要であることを心得ていた。

 「義、久しいな」
 「兄上」

 喜色を滲ませた義光は、謀略の成功と悲願の達成を前にして、自信に溢れている。
 記憶にあるよりもずっと堂々とした戦国武将を向こうに、最上の方は固い声で応じた。

 「お前にも苦労をかけた。特に今回は、お前の協力がなければ時機を逃しただろう……ところで、その格好はどうした? おい、誰か、義を本陣に送っていけ! 義、今は戦陣で満足なものもないが、まずはゆっくりと…」
 「兄上!」

 義光の発言に、背後の伊達軍が殺気立つ。やはり最上の方は、義光と繋がっていた。最上の方を嫌っている成実は、彼女ごと矢を撃ち込み、義光ともども討ち果たしてくれんと近場の兵から弓を奪って小十郎に止められている。政宗は沈黙したままだ。
 最上の方は伊達軍の動揺に頓着せず、ただ血を分けた兄を見上げ、同じ夢を見ていたはずの兄妹が決定的に遠ざかってしまったことを感じていた。そのことに微かな寂寥と誇りを覚え、彼女は一語一語を区切るようにして言った。誰に認められずとも、一人の、伊達の女として。

 「兵をお引きください」

 言葉は静かな響きで、義光の興奮を打った。一瞬、戦場が沈黙する。
 最上の方は言葉を継いだ。

 「伊達を攻め滅ぼしたところで、得るものは何もありませぬ。否、得るどころか、全てを失う端緒となりかねぬ。兄上。兵を、お引きください」
 「……何を言っている!」

 義光は怒号した。最上の方と手を繋いでいたいつきが竦み、その震えが最上の方の左手を震わす。義光の嚇怒を正面から受け止めて、しかし最上の方は眉一筋動かさなかった。
 怯えが無いわけではない。心は平静とは程遠い。しかし、荒事に馴染まぬ弱さを覆して支え抜く覚悟が彼女にはあった。それはいわば、女性ならではの強さである。人を愛し、失って、培ってきた愛が、記憶が、誇りが彼女を支え、死地ですら顎を上げる力を生みだす。どんなに臆病な女でも、家族を守るためには信じられない大胆さを発揮する。その点において、最上の方は正しく女であり、それこそがかつて輝宗が褒め称えた彼女の本質だった。怒り狂う義光を前に、最上の方は、この上なく美しい女だった。

 「義、お前は、一族の無念を、悲願を忘れたか。お前が嫁に出された日の、あの屈辱を忘れたか!? 長年の雪辱を果たし、最上の誇りを取り戻すのは今、正に今を於いて無い!」
 「……政宗を滅ぼせば、最上の父祖の霊にこの上なく報いることとなりましょう」

 義光の熱弁は、幼い日の思い出を、娘時代の悲しみを刺激する。しかし最上の方は、その頃の記憶に引きずられることはなく、あくまで冷静だった。それはきっと、輝宗との日々があったからだ。屈辱に塗れた結婚が、いつの間にかかけがえの無い記憶になっていたように。
 最上の方は顎を上げた。

 「ですが兄上。兄上はその後のことをお考えか!」

 伊達家が滅びれば、奥州は支配者のない空白地帯となる。戦勝を重ね、奥州から甲斐、相州に至るまで肥大した大国だ。遠い地域から周辺大名に蚕食され、あるいは最上と同じく今まで従属していた小名たちが叛乱し、伊達に連なる残存勢力との割拠で奥州は虫食いだらけの分裂状態になる。最上家に伊達家に取って代れるだけの力があれば併呑も可能であったかもしれないが、数代に亘る従属により最上家にそれほどの力はない。所詮、小名の一つなのだ。伊達家という主は、憎むべき重石でもあり、他の大勢力からの防波堤、更には奥州の紐帯でもあった。それを弑して玉座についたところで、反発を招くのは必至。そしてそれを収める力も、成り変わる力もないとすれば、勝利は緩やかな自殺と同義だ。
 最上の方は舌鋒を緩めない。

 「兄上はわたくしと組み、わたくしたちは松永を招き寄せた。あの男は自分の望むもののために、最上も、伊達も利用しました。このような輩が、この奥州に跳梁することになるのです。この、わたくしたちの、奥州に!」

 松永のような男に、この奥州を、生まれ育った美しい故郷を、良いように汚されてなるものか!
 最上の方は、瞼の裏に浮かんだ男を激しく憎悪した。そのような男を招いてしまった自分の不明は、後悔してもしたりない。いっそ消え入りたい程の恥辱と後悔が、最上の方の絶叫に悲鳴の色彩を与え、松永への憎悪と激しい後悔が聞く者の心に深く斬り込んだ。故郷への愛と誇りが、最上の方に共鳴する。

 「わたくしは愚かでした。下らぬ意地に執着するばかりに、我が手で、この奥州に泥を塗ってしまった……これ以上、我らの国を汚してはなりませぬ」
 「我らの国だと?」

 義光は嘲笑した。

 「どこに、我らの国がある! 我らの国は、我らの誇りは、とうに伊達に奪われたわ。其方も骨髄に染みていよう。我らは、我らの誇りを取り戻すのだ!」
 「否! 兄上は気付いておられぬのか。兄上が率いる兵は、兄上の指揮に服した兵は、最上の兵ではないのですか!」

 弾き返すような返答に、義光は思わず背後に目を走らせた。
 兄妹の舌戦をはらはらと見守っていた兵たちが、主の視線に戸惑った目で見返す。息を潜めるような静寂を、足軽の誰かがぼそりと破った。

 「うらぁ、最上様に喰ってもらいてぇと思って、米作っとります」
 「う、うらも、最上様の百姓だぁ」

 自分も、自分もと囁きが波になり、義光を圧倒した。
 意地に生きる武士と、目の前のことに生きる百姓では意識が違う。武士ならば、独立という誇りを奪われた屈辱は筆舌に尽くしがたく、その怨嗟は激烈な闘志となって忘れられることはない。しかし、軍の大部分を占める足軽たちは農閑期の農民がほとんどで、農民にとっては最高権力者が誰であろうが、自分たちを守り、年貢を納める相手こそが主だった。自然、自身の帰属はその主へと規定される。
 一種の詭弁であることを自覚しながら、それでも最上の方は、自身の信じ抜く理を語った。

 「我ら武士は、民を守るためにぞある。兄上の民は、最上の国の民と、言うてくれているではありませんか」

 最上の方と義光の間にある支配理論は、同じものであるはずだ。
 一瞬言葉を探した義光の隙を逃さず、最上の方は、言葉を続ける。かつて一揆を起こし、戦乱に巻き込まれて村を失ったいつきの手を、強く握って。

 「我らの叛乱は、最上一族の意地によるもの。―――民を、武士の意地の道連れにしてはなりませぬ」

 いつき、すまなかった。そんな意思が掌から感じ取れて、いつきはぼろりと大粒の涙を零した。最上の方の手を強く強く握り返す。

 「兄上! どうか兵をお引きください。奥州全てを道連れにするなど…」
 「もう良い」

 なりふり構わぬ必死の懇願を、義光の静かな声が押しとどめた。
 願いが届いたか、と、最上の方は期待を込めて兄を見上げる。戦場を吹き渡る風が、彼女の興奮した頬を掠め、義光の前立てに切られていった。息を凝らす最上の方の目前、義光は顔をあげ、前立てが月光を弾き、顕わになった他人行儀な眼光に、彼女は説得の失敗を悟らざるをえなかった。

 「其方の理屈は、所詮、女の理屈だ。誇りを奪われた現状を、仕方が無いと肯定することから始まっている。そのような軟弱な言を、こともあろうに其方の口から聞くことになろうとは……。義よ、其方は結局、伊達の女に成り果てたか」
 「兄…」
 「呼ぶな! 其方は最早、最上ではない。息子と共に、伊達の地に骨を埋めるが良い」

 義光の目には、失望と諦観があった。その視線は、敵意よりも激しく最上の方を苛む。
 これが彼女の選んだ道だ。

 「一つ間違えているぞ。俺は、奥州の王になぞなろうとは思っておらん。最上の国さえ、我が手で守り抜くことができれば良いのだ」

 伊達家に成り代わろうなどと、考えてもいない。政宗が倒れたあと、例えば甲斐や、相模や、かつて伊達領であった周辺地域がどれだけ乱れようと、我が国さえ守れればそれで良い。むしろその機に乗じて現実的な範囲の国獲りもできようし、多くを望まないだけで得るものは大きい。
 そして義光が切望するのが、武士としての誇りの回復なのだった。

 「其方が男であれば、わかっただろうにな」

 義光は僅かな悲哀を含んで、死にゆく妹を憐れんだ。
 ここで刃を収めても、謀反の事実がある以上、最上に下る沙汰は厳しい。どちらにしても、最早引くことなどできぬ。
 絶望を貼りつけた最上の方から、せめてもの手向けに視線を逸らさず、義光は大音声を発した。

 「我が最上の誇る悍兵よ! 憎き伊達軍を、族滅せよ!」


 20110919 J 



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