すう、と吸いこんだ息は枯れ草と雪と僅かな新芽、そして戦のにおいがした。
 風上から流れてくる、兵馬の血と汗の臭気。草むらに潜んだ最上の方は、小刻みに震えそうな体を押さえつけるように、両手を重ねて強く握った。
 今から、自分がしようとしていることは、何の意味もないかもしれない。
 ただでさえ最上の方は、伊達と最上、どっちつかずに流されていた。
 彼女の言葉も、存在も、誰の心にも届かないかもしれない。
 暗い思考に溺れそうになる。しかし最上の方は、それでも、と伏せがちだった目を上げる。心の中心に、懐かしいひとの面影を据えて。
 隣で、緊張する最上の方を心配そうに気遣ういつきに、大丈夫じゃ、と囁いた。

 「其方、ここにわたくしと残る必要は無いぞ。怪我をする前に逃げるが良い」
 「……いんや、お方様。オラ…何もできねえけど、お方様の傍にいさせてくだせえ」

 きっとキリエ姉ちゃんだったら、お方様と一緒にいると思うんだ。
 青ざめた少女の頑なな決意に、最上の方はそれ以上の忠告を止めた。代わりに、キリエ、あの不思議な娘は無事だろうかと考える。
 キリエが何をするつもりで、あの場に残ったのかは知らぬ。
 けれども最上の方は、キリエの瞳に一つの覚悟を見た。耳慣れぬ言葉で綴られた音の中に、末期の別れが織り込まれていることも。

 キリエ、あの子は、死ぬつもりだ。

 彼女の届けた政宗の真情を、彼女の最後の微笑みを反芻する。
 自己犠牲的なキリエが、その心の中に後生大事に抱えていた政宗の影。政宗を抱えたキリエは、そんな意図はなかったにせよ、最上の方にかつての決意を思い出させた。
 どうにか恩人を、キリエを助けたい、と考えた最上の方の耳に、ざくりと草を踏む音が飛び込んでくる。
 兵馬の気配にいつきの体が強張った。
 最上の方は、少女の小さな手を握り立ち上がる。敵の眼前に姿を晒す。
 ざわ、と揺れた気配に、最上の方は浅く息を吸って気を引き締めた。我が人生の正念場だ。―――いや。

 (輝宗殿。わたくしたちの、正念場です)

 恐れはない。
 今、最上の方は、伴侶と共に歩んだ道にいる。











 1 / 2 のクラウン! Ottantotto : the dawn U









 政宗に開口一番、最上義光の動向を聞かれ、ことの重大さを痛感した成実が、即答できずに思わず口籠った時、殿を務めていた鬼庭綱元が帰還した。
 最上軍は既に伊達軍と同じ原野に侵攻しているという報告に、本陣の空気が張り詰める。成実は、血濡れの甲冑で現れた綱元の傍らに、同じく殿を務めていたはずの元信の姿がないことに気付き、勢い込んで尋ねた。

 「鬼庭殿、元信は!?」

 これで元信が死んでしまっていたら、成実はどう詫びたらいいのか。
 綱元は、戦場焼けした頬をにっと上げて、焦る若将の頭を撫でくり回した。

 「無事だァ。成実、お前さん、あのしたたか者嫌いだったろう。あいつの心配をするとは、お前さんもちょっとは成長しおったなァ」
 「鬼庭」

 素直に安心した成実の頭上を、政宗の声が通りすぎる。呼ばわれた綱元は、政宗の無事に目許を和ませそうになったが、眼光の前に顔を引き締める。

 「元信の姿が見えねぇな。あいつァ今どこにいる」
 「それが、中々面白いことになっとりまさァ」

 最上軍に追撃されているというのに、泰然自若の様子であったのは、元来の気性の他に元信の動きが関係しているらしい。
 ほう、と先を促した政宗に、「元信ァ今、北条軍に―――」ドッ、と飛来した矢が、綱元の左の上腕を貫いた。

 「あ゛? ……もう来ャアがったか、最上の野郎ども」

 眉根を寄せて、綱元が痛みなどないかのように矢を折り、手早く矢羽と鏃を投げ捨てる。見れば政宗も、宗時に支えられたままではあったが小十郎も、戦を前に眼光を鋭くしている。
 形勢は不利と言う以外にない。
 陣形は整っておらず、小十郎始め名のある将は手傷を負っている。
 けれども、彼らの頂く竜が目覚めた今、伊達の兵どもは敗北など考えもせぬ。
 凶猛に笑みを刻む、自信に溢れた手で柄を持つ武将たちに囲まれて、政宗は正に項羽のごとき様相だった。
 しかし政宗の頭脳は、酷い頭痛に苛まれながらも、四面楚歌に陥ることを良しとせず、状況の打開を探る。絶望的な状況を覆すために。ことここに及ぶまで後手後手に回り、それでもなお、打つべき手を求める。
 諦めることなどできない。政宗の背には、ただ伊達軍の命のみが背負われているわけではないのだ。彼らの家族、親族、広大な奥州が背負われている。

 「梵―――」

 ふと、政宗の思考を遮って、刀を捧げ持った成実がまっすぐな視線を寄こす。
 成実は思い詰めた者の、頑なに透き通り、後悔を沈ませた瞳で断罪を乞うた。

 「こんなことになっちまったのは、オレのせいだ。責任もって蹴散らしてくる。それが終わったら、オレのことは好きにしてくれ」

 死んでくる、と聞こえた。
 政宗は眉を顰める。竜眼に射竦められた成実は、奇妙に晴れ渡った顔をしている。抱えた覚悟が、彼の周囲だけ音を失くしたような。澄みきった瞳が逆に不吉だった。

 「成実、テメェ……ふざけてんじゃねえぞコラァ!」

 成実の意を汲んだ政宗は、捧げられた刀を弾き飛ばした。ガシャン、と硬い金属音。強烈な立ちくらみを気力で押さえこむ。本当なら殴り飛ばしてやりたいところだった。

 確かにこの状況を破るには、多大な犠牲が出ることは想像に難くない。
 しかし進んでその犠牲となり、道連れを一人でも増やそうという決意など、政宗は誰一人として許す気は無かった。

 「……OK, きっちり落とし前はつけてもらうぜ。そのために、死ぬ気で生き残ってこい」
 「梵、オレは…!」
 「Shut up! テメェは俺の処断を控えてんだ、勝手に死んでくるんじゃねえッ」

 この話はこれで終わりだ、と宣言するように、政宗はぐっ、と四股に力を入れて陣幕を出ていく。太腿の傷が痛みと熱を発散しているだろうに、その力強い後ろ姿は成実の目を灼いた。
 成実は、一瞬主君の背中に目を奪われ、そして、奥歯も砕けよと言わんばかりに歯を食いしばり、その背に向けて頭を下げる。涙の予感に目頭が熱を持っている。
 成実の主は、死ぬことも許してくれない。自身が傷だらけで、どう考えても窮地で、成実に咎があろうとも。
 死ぬ覚悟でなく、生き抜く覚悟をしろと、そう言う。

 「オーケー、梵…生き抜くよ」

 成実は誰の耳にも届かない返事をする。弾かれた刀を拾い、抜刀した。鍛冶場の火に鍛え抜かれた直刃に、微笑を湛えた夜叉が映る。

 「だからしっかり、オレを罰してくれよ!」





 まだ馬には乗れないが、政宗が陣中を歩くだけで兵たちの意気は上がった。
 故郷を前にした兵である。故郷防衛の意識は元々高く、彼らの頂くカリスマの出現でもってその勢いは立派な武器だ。

 (だが、それでもまだ、勝機は薄い…)

 陣形の整っていない伊達軍は、このままでは、正面からのぶつかり合いに突入するよりない。
 大将格の多くが負傷している今、消耗戦となって分が悪いのはこちらだ。政宗を運んだ兵たちの疲労は濃く、殿を務めていた兵たちなどは、浴びた血も乾き切っていない。
 彼らの目は爛々としているが、気力が疲弊を覆い尽くしていられるのは長くはない。
 小十郎もそのことを気にしているようで、宗時に支えられながら、各隊の侍大将を呼び集めている。
 そういえば、先程綱元は、元信が今何をしていると言おうとしていたのだったか。文官とはいえ重臣で、殿を務めていた将の動向を聞き逃すわけにはいかないと、政宗は視線だけ左右にやって、熊の如き綱元を探す。
 しかし綱元は、今自身の隊を編成しに行っているのか、近場にはいなかった。政宗は仕方なく、手近な兵に綱元を呼ぶよう命令した。


 追いついてきた成実と小十郎を従え、政宗は前線に出た。戦の予感に、ぴんと張った凪の中を、煉獄から噴き出す瘴気のような風が血の気の戻りきらない頬を撫でる。
 不似合いなほど明るい月が、枯れ草の向こうに最上軍の影を黒々と浮かび上がらせていた。時折槍の穂先が、月光を弾いて鋭く光る。
 謀略を成功させ、追撃に追撃を重ねるという快進撃、最上軍の士気の高さは陽炎となって立ち上るのが見えるようだ。
 政宗は、もう何年も顔を合わせていない叔父の厳格な眼差しを思い起こし、挑むように顎を上げる。
 今、叔父は積年の宿願成就を前に、研ぎあげた牙をむき出しにしているだろう。自尊心の高い義光の宿願は、政宗の首から滴る血によって成就される。
 政宗は最上の血を感じさせる冴えた美貌を好戦的に歪め、己の死を見つめた。

 上等だ。死など、この独眼竜が喰らってくれる。

 未だ有効な戦法は組み立てられていない。しかし、追い詰められて尚、諦めようとは思わなかった。
 最上軍の兵馬がざわりと揺れる。月光を集めた槍の穂先が振り下ろされ、前進の体形になる。傍らの成実から、常以上の闘気が発散される。小十郎が腹の底から押し出すような大音声で指示を飛ばす。
 ざく、と聞こえるはずのない足音を、過敏になった耳が拾った。
 その時である。

 「止まれ!!」

 戦場にあるはずのない、高い声が、血の気配を切り裂いた。
 その声は不思議なほどよく通り、命令することに慣れた気配と覚悟を携え、両軍の動きを奪う。政宗は雷に打たれたように脳髄が痺れた。それは、その声は、かつて彼を呪った声と同じなのだ。
 見開かれた独眼が忙しなく音源を探す。十三夜の月、照らせ、もっと明るく照らせ。今、彼は戦場を忘れた。迷子の如き、必死の面持ちで、頭痛すらも忘れて。
 ざ、と草原を風が撫でる。ざわざわと揺れる枯れ草の中に、ほっそりと、凛然と佇む背中。
 闘気を掻き消された成実が、嘘だろ、と呟いた。

 髪は乱れ、所々汚れた着物の、隙の無い記憶から程遠い様相の女。
 あの着物を覚えている、と思わず政宗はどうでもいいことを考えた。あの、雪の朝、彼女は頻繁に椿の柄の着物を着ていた。
 ははうえ、無意識に舌が動いた。声が掠れている。口内がからからに乾いていた。貴女に宛てて、母と、そう紡ぐのは、一体何年ぶりのこと。


 伊達軍を、政宗を背中に庇い、最上の方が戦場に凛と、佇んでいた。


 20110717 J 



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