輝宗の葬式の間中、義姫は気丈にも涙を見せず、先代の妻として―――未亡人として、細々としたことの采配を振るった。 喪主は現当主・政宗である。 義姫は能う限り政宗を避け、視線を遣らないまま弔いを終えたが、その彼女を見ている者がいた。 母の挙動をじっと見ていた小次郎は、彼女が時折、表情をごっそり喪う横顔や、政宗を視界に入れた一瞬の溶岩のような瞳に、気付いた。 弔問客が途絶え、私室に戻った義姫は、まるで幽鬼のように畳を踏んで縁側に向かった。 侍女が点していった紙燭が、細長く伸びた影をゆらゆらと揺らしている。細い手が障子を開けると、夜目の利かぬ闇が庭に降りていた。頼りない火は、庭の闇を払うには至らぬ。義姫は、人生に倦み疲れた老婆のように、のろのろとその場に座った。きんと冷えた床に体温を奪われる。微かに開いた口から立ち上る吐息は、線香のようだった。 『あなたに似合う花を見つけたんだ』 義姫は茫と、死んでしまった夫の言葉を聞いている。彼女が投げ出している視線の先には、輝宗が贈った白椿があるはずだった。その日は新月、星月夜。光量が足りず椿はその白い花弁を墨色に沈め、影が浮かび上がるのみである。 「『全てが…終わったら、二人……』」 ひび割れた声が約束を辿る。あの、最後の朝、出かけて行った輝宗の背中をたった今のように思い出せる。泣きじゃくる義姫を抱き締めた腕の温かさ、産屋の向こうで泣き笑いをしていた声、新床で向けられた憧れ。 輝宗殿。 「二人、ふたり……」 悲しみなどではなかった。義姫は、指をだらりと投げ出して、伴侶の喪失に呑まれていく。悲しみどころの話ではなかった。義姫を支え、満たしていたもの全てが、永遠に失われてしまっていた。 椿は暗闇の向こうで、義姫の周りには誰もいない。 わたくしは何故死んでないのだろう、と、小さな疑問が義姫の頭を掠めていった。 1 / 2 のクラウン! Ottantasette virgla cinque : levante 殯の冬が過ぎ、夏空が鮮やかになった頃、居室に引きこもるようになった義姫のもとに、政宗からの伝言が届けられた。 地方の統治を任せている重臣に呼ばれたので、数日後外出するという、事務的な報せだった。 義姫と政宗は、彼女自身が謀ったこととはいえ、母とも子とも呼べぬような、凍てついた間柄になっている。 実際は、累代の伊達家が抱え込んだ因縁から政宗を守るため、輝宗も承知で導き出した親子関係だったのだが、因縁を破壊する計画は輝宗と共に彼岸に去ってしまった。後には、事情を一切知らされず、両親に温かな情を抱けなくなった政宗だけが残った。 政宗は、義姫を母などと慕っていない。それも当然だろう、と、義姫はひび割れた心で思っている。わたくしたちは、政宗が孤独に陥ることを承知で我が子を遠ざけた。恨まれこそすれ慕われることなどない。 しかし、尋ねる予定の重臣の名に、義姫は諦観をかなぐり捨てた。 (この男は…!) 力を込められた指が、手紙に深い皺を刻む。 義姫はその男に覚えがあった。 輝宗と共に洗い出した、反伊達勢力の急先鋒。 政宗はそれに気付いていない。男は、彼の野心を巧妙に隠している。義姫は、男が罠を張っていると直感した。 (政宗が、殺される) 輝宗と共に守り続けてきた政宗が! 政宗を止めなければならない、と決断し、義姫は侍女を呼ぼうと息を吸う。 政宗を守らなければならない。輝宗と共に、守り続けてきた政宗を。――――輝宗を殺した、政宗を。 喉が凍った。 氷塊のような息の塊を吐き出せないまま、義姫の肩が緊張に強張る。座っているだけでじっとりと汗ばむ中、彼女の背筋を伝う汗は冷たかった。 (わたくしが政宗を守るのか) その疑問は、彼女の思考を混乱させた。 膨らんだ腹を愛おしそうに輝宗が撫でた。赤子の短い手足をばたつかせ、両親の間で笑い声をあげた。この身を贄にしてでも守ると誓った。椿の向こう側で大きくなっていった子供に、悟られぬよう隠した愛を注いだ。そんな彼女を支え続けた、温かな手。全てが終わったら、二人、穏やかに生きていこう。 彼女の歩んだ幸福と、決意の人生。 そして今、彼女の横には、位牌が一つ。 彼女に添うのは位牌、ただ、それだけ。 思考を振り払うようにして声を出した。すぐにやってきた侍女に、墨と紙の用意を頼む。 違う。わたくしは、政宗を守りたいのだ。守らなければならないのだ。輝宗殿と約束した。わたくしはあの子を愛したかった。輝宗殿は死んでしまったけれど、わたくしはあの子を愛したくて、守りたかったのだから、約束を守らなければならない、政宗を憎んだりするはずがない……。 義姫は震える手で筆を取り、政宗への書状を書いた。重臣の訪問を止めるよう訴えた彼女の叫びに、しかし返事は来なかった。出立の準備が整いつつあるらしいと噂に聞いて、義姫の心は鉛を呑んだ。無言こそが、政宗の答えだった。考えてみれば当然だ。政宗は義姫を信じない。手紙は途中で人の手を介すため、反対勢力をあげつらうことも、輝宗との策略を明かすことができなかったのも痛かった。せいぜいが、ほのめかす程度である。その程度では、信頼がない今、ブラフと取られても仕方なかった。 政宗にとっては、義姫こそが自身を陥れようとする一派の首魁である。 そのように振舞ったのは義姫自身であり、誤解を解かなかった輝宗の咎でもある。 覚悟していたはずの政宗からの疑心に、義姫の心は蚕食されていった。輝宗殿、と小さく上げた悲鳴はそのまま中空に溶ける。 彼らの策は瓦解していた。輝宗と義姫、二人が生きてあってこその策だった。今、策は壊れ、澱んで腐臭を放ち、義姫はそこに溺れようとしている。 義姫は必死で食い下がり、どうにか、出立前日の饗応を引きだした。政宗は条件を付けた。次の間に、小十郎を控えさせること。 政宗が己を信じないことは、とうに思い知らされていた。 条件を呑んだ義姫は、これが最後の機会と思い極める。輝宗と共に巡らした策のかけらを拾い集め、言葉を尽くして説得しなければならない。人払いをすれば、相対して真実を話すこともできよう。 だが、政宗が義姫を信じなければ? 「絶対に……行かせては、ならぬ……」 殺させはしない。 義姫は蒼白な顔で、化粧箱の奥を探る。漆の小道具をどけ、小さなくぼみに指を引っ掛ける。 隠し抽斗から取り出したのは、小さな細竹の入れ物だった。細竹の節の所で開けられるようになっている。中には、ミョウバンのような顆粒が詰まっている。 義姫はその一粒を小指に載せる。舐めた舌先が痺れるような感覚。 ―――感覚を鈍くするものです。 昔、彼女が体調を崩してそれを求めた時、薬師はそう説明した。 つまり、麻酔のようなものである。 ―――この入れ物程度なら命に別条はございません。ただ、一度に服用されると、しばらく麻痺や目眩を感じるでしょう。 何かの役に立つかもしれない、と一本だけ残しておいたあの時の己は、まだ身籠ってすらいなかった。 あの時の義姫は、これを誰に盛ると思っていたのだったか。「使わない」という幸福など、予想すら。 義姫は薬を懐に入れ、饗応の準備をしている厨へ向かった。蝉の声が降るようで、立ち上る陽炎にひどい悲しみを覚えて胸が潰れる。目の際を潤した涙を堪えた。感傷に溺れる時ではない。覚悟を決めた義姫の眦は、政宗に瓜二つだとかつて輝宗が羨ましがっていたことを思い出した。 幾度目かの角を曲がった時、居合の稽古に向かう小次郎とすれ違った。小次郎は目礼し、母の横をすり抜けたが、数歩のうちに立ち止まった。喪服のような打掛が消えてゆく先を、足音を殺して追いかける。兄と違い父親似の目許が、剣を手にしたように研ぎ澄まされていく。厨に入った義姫が、饗応のために準備された材料を見回し、料理に不可欠なものとして調味料を選んだ。 「要は、行かせなければ良い…」 義姫は囁いた。 それでこの身が咎を受けようとも、政宗が助かるなら。 いや、むしろ咎を受けることこそ好都合。おれが貴女を守る、と言った輝宗は既に彼岸の人。ならば義姫は、当初の予定通り、反対派の首魁として全ての叛臣たちを道連れに奈落へ落ちよう。 そうすれば、子供たちを狙う者どもは破滅する。 義姫はそっと微笑んだ。輝宗殿、わたくしたちの仕事は、どうにか終わりそうです。 心中語りかけた義姫は、どうしたことか、その瞬間思い出した。 政宗が、輝宗を殺したこと。 微笑みが強張る。全身に鳥肌が立って、義姫は思わず薬を入れていた竹筒を強く握った。 中身のない薬入れを、まるで祈るように捧げ持つ。その体勢に意味は無く、ただそこにあった薬入れを握ることで、激情を押し殺そうとしているだけだ。 激しい葛藤が荒れ狂った。愛しい息子、夫を奪った息子。 義姫の喉から、獣のような唸り声が漏れる。尋常ではない目つきで、彼女は絞り出した。政宗、と。激情の錯綜する声で。 厨を覗いていた小次郎は、母の激情の一部始終をその目に収めると、一度、強く瞼を閉じた。 彼の横顔は、どこか影を抱え込んだ印象で、造作が全く違うにも関わらずふと政宗を連想させる。歳に似合わぬ葛藤と覚悟が、彼ら兄弟の陰影を共通させたのかもしれない。彼らは歪んだ家庭の子供だった。それでも小次郎は、自分たちが愛されていることを知っている。 小次郎はゆっくり、瞼を押し上げていく。睫毛の隙間から夏の光が差し込み、それはとても、愛おしいものと思えた。 殺させない、と無声音を綴る。 青空に挑むような小次郎の瞳は、はっとするほど澄みきり、彼の父に、母に、兄に似ていた。 「………誰にも、僕の家族は壊させない……」 彼の悲愴な決意が、母を、兄を、更に隔ててしまうなど考えもせず。 小次郎は、道半ばで倒れた父の背を追い、父のように、彼の大切なものを守ろうとしていた。 義姫の去った厨に忍び込んだ小次郎は、薬の溶けた調味料を懐に隠す。そのまま彼は城下に向かい、信頼している薬師に痺れ薬を求めた。 何に使うんですか、という問いかけを黙殺し、小次郎は尋ねる。 「これを飲んでも、刀は振れるか?」 ええ、と薬師は訝しみながら頷いた。小次郎は代金を払い、何か不吉なものを感じたのだろう、心配そうに眉を下げた薬師をぎろりと睨む。 政宗と義姫の―――伊達家と最上家の確執は、よく知られている。当然、小次郎の微妙な立場も。 「僕が兄上に何かするんじゃないかって、心配してるのか」 「いっ、いえそんな!」 「心配ない」 小次郎は人の行きかう往来に視線を遣り、賑やかな伊達氏の街を惜しむように目を細めた。 「明日全てが終わる―――兄上が、お前たちをずっと…ずっと、守ってくれる」 気圧された薬師に一礼すると、小次郎はまじめくさった顔で(兄と違い、小次郎は普段から真面目な表情ばかりしている)これからも良薬を作ってくれ、と言い残した。 幼時の大病以来、政宗は健康そのものだが、そのかわり生傷が絶えないのだ。 道々それを思って、小次郎は小さく噴き出した。清々しい気分だった。 誰もが、家族を守りたいと、願っていた。 |
展開の都合上唐突に昔話 早送り展開ですみません 20110618 J |
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