伸ばした手の先、指の先。 願っても、希っても、政宗が望んだものを手にしたことはない。 例えば椿の向こうの光。例えば晴れた冬の朝。 父の背中は雪に埋もれ、母の瞳は憎悪に塗れ、弟はこの手で葬り去った。 政宗は知らぬことだが、松永は彼から未来を貰う、と言っている。松永は同じように、について欺瞞を貰ったと唇を吊りあげていた。自分すらも欺き続けていたが、その後どんな目に遭ったかは改めて語るまでもない。彼は政宗について、政宗を政宗たらしめているのが未来へ走っていく力だと見た。それを失えば、政宗は最早竜になどなれない。 それは、つまるところ、政宗は過去にも現在にも飢え続けているということだ。 政宗は惨めで哀れな竜王だ。 伸ばした指が、宝を掴んだことがない。 いつか掴み取れると信じて、必死に未来を求め続けている。 政宗は満たされない。 伸ばした指は、空ばかり掴む。 満たされないままもがき続ける。 その姿はみっともなくて、泥まみれでぼろぼろで、とてもではないが伊達者などと言えやしない。 今、政宗は丸腰の傷だらけで、一部が腐った戸板に寝かされている。 ぼんやりと、意識は覚醒しつつあったが、脳が氷水に浸されたように冷たく痺れていて、思考の断片も構築できない。痺れを痛みと認識できるようになるまで、まだまだ時間はかかるだろうし、手足に力が入らないので歩くことも困難だ。痺れが引けば、割れるような頭痛と脳震盪による吐き気の難所が待っている。 政宗はそれらのことを未だ思いもしなかったが、目覚めの予感に痙攣する瞼の隙間から、十三夜の月を見た。 波のように、少しずつ耳殻に音が届き始める。ざわざわと男たちの怒声。親しんだはずのその声音を、まだ誰のものと判別できない。 脳震盪の影響で痺れの残る口許が、ほんの微かに、動いた。ようやく到着した侍医がそれに気付いて目を見張る。 満身創痍の政宗は、最初の思考を組み立てた。なあ、似た者同士の俺たちはいつの間にか、互いを深く、深く、取り込んで、変わり始めていたんだな。―――。未来を恐れ、指を伸ばすことを恐れていた、政宗の相似。 「ああ……悪くない、気分だ……」 爆発から守りきった、政宗と同じ目をした子供。 もう過去の喪失は痛むまい。政宗の伸ばした指は、の伸ばした指に、触れたのだ。 1 / 2 のクラウン! Ottantasette : the dawn T 全軍を引き上げて、再会一番「梵は!」と叫んだ成実を、小十郎の拳が殴り飛ばした。 動いているのも不思議な身体の、どこにそんな力があったのか。宗時が絶句していると、小十郎がぐらりと傾ぐ。「か、片倉さん!」流石に慌てて支えると、辛うじて踏みとどまった小十郎は鬼の形相で成実を叱りつけた。 「テメェは羽州方面軍の総大将だろうが!」 大音声を間近で聞いた宗時は、この人本当に重症なのかと疑いたくなった。 頬を腫らした成実は、折れた歯を吐き飛ばし、それだけで燃え立ちそうな目でいきり立った。 「オレは梵の家臣だ! 伊達軍総大将、伊達政宗の家臣、伊達成実なんだよ!」 「んなことは百も承知だ。オレが聞きてぇのは、政宗様から直々に任された最上戦の責任を放りだし、ここにいる理由だ!」 「偉そうな顔すんじゃねぇっ! 梵が危ねぇんだろ!?」 敬愛する主君への心配、その場にいなかった自分への自責、その場にいながら主君を守れなかった小十郎への怒り、まだ主君に会えない焦り。激情が激しく撹拌され、成実はほどんど憎悪の眼差しだ。 「ぐだぐだ言ってねえで、そこどきやがれ小十郎!」 烈火のような成実は、立ち塞がる小十郎に躊躇いもなく拳を固めた。「成実さん!」と小十郎を支える宗時が顔色を変えるが、その程度で止まる成実ではない。 今の小十郎では耐えられない―――宗時は、考えながらも成実の勢いに呑まれてただ迫る拳を凝視する。 ―――パァンッ! だから宗時の脳は、恐るべき打撃が不発に終わったことや、それを為した人物の手甲の色や、驚きに目を見開いた成実の一部始終を認識しながら、一瞬、何が起こったのかわからなかった。 成実の拳を握り込んで止めた男は、常の彼からすれば不格好極まりない、しかし彼の戦人の本性がさらけ出されたような笑みを浮かべた。 「よぉ、成実……誰が危ねぇって?」 「ぁ……梵……!?」 信じられないとでも言いたげに成実は慣れ親しんだ幼名を呼び、先程までの全ての激情がごっそり奪われたような虚脱状態で膝をついた。がしゃ、と鎧が土に触れて音を立てる。呆けた形に開いた口の横を、つぅっとまっすぐに涙が伝っていった。 「ひ、筆頭…」 「政宗…様…」 「よぉ。てめぇら、心配かけたな」 兜のない政宗の頭には、真白い包帯が巻かれている。「ま、政宗様」小十郎が現人神を見たように呟いて、ぐ、と何かを堪える音と共にうつむいた。あァ片倉さんが泣いてる。そう思う宗時も、涙があっという間に決壊した。ついでに足の力が萎えて、小十郎ともども座り込む。 「何だ、辛気臭ぇ」 「っ、梵! オ、おで、オレ本当に心配っ」 政宗の苦笑いに、成実が立ちあがって猛然と抗議する。涙声のため先程までの威圧感など皆無だ。政宗よりも陽性をしているこの従弟は、ガキ大将そのままの泣き顔で、放っておけば歳も立場も投げ捨てて大泣きしかねない。政宗の苦笑いは更に深まったが、その瞬間、呼吸さえ忘れるような吐き気と気絶寸前の頭痛を覚えて足がもつれた。 立ちくらみした政宗を、慌てて成実が支える。無茶苦茶な態勢で吐瀉した政宗は、荒い呼吸を繰り返す口許を、痙攣する手で拭った。成実が政宗の名を叫び、小十郎が医者をと怒鳴る。 「Don’t get into a flap!(うろたえんじゃねぇ!)」 竜の咆哮は絶対だった。絶対君主の前に、家臣たちは動きを止める。政宗は荒れ狂う不調を青白いポーカーフェイスの下に押し込めて、成実の肩を掴んでしっかりと立つ。太腿の傷が鼓動に合わせて燃えるようだったが、政宗はそれを無いものとして扱った。今、政宗は倒れられない。 「政宗様、傷に障ります。どうか、お休みください」 「Ah〜? 何言ってんだ、竜がこれくらいでへたってたまるかよ」 それより、と政宗は成実を見た。 「成実…最上の叔父貴は、どうしてる?」 最上の方たちを見送って、はまず、死んだ松永兵の身ぐるみを剥がした。 着物に染みた血はどうにもならなかったが、俺たちを殺した血だって誤魔化せば平気かな、とは考える。戦場を意識した人間に正常な神経などない。 刀の血のりは雪ですすぎ、は次に枯れ枝を集めて火を熾す。目立たないよう、岩影になっているところで焚いたので、煙いわ空気の通りは悪いわで大変だった。 火の勢いが十分と見てとるや、は松永兵の生首から外してきた兜に雪を入れ、それを火にかける。 目的は暖をとることではない。 は静かな表情で炎を見つめ、雪が水となり、湯となるや、兜を火から下ろして頭から湯をかぶった。 「まさか、この体質を便利だと思うようになるなんてなあ」 濡れた前髪を掻きあげ、喉仏を上下させては苦笑した。手早く女物の着物を脱ぎ、血と垢の饐えた臭いのする着物に着替える。兜は雪で冷やして目深にかぶった。 身支度が終わると、は暗い山道を、注意深く足跡を探しながら下り出した。案内役に率いられた自分たちと、それを追ってきた松永兵によって踏み荒らされた雪が、彼の道程を容易にした。 ふと、野生の獣のような動きで、は辺りを警戒する。何か来る。その直感が頼れるものであることをは知っている。狭い家の中で母の気配に息を凝らし、獣として樹海をさまよった経験が、彼の感覚から現代日本人らしい贅肉を削ぎ落していた。 音もなく降り立ったその気配から、は一瞬で間合いを取る。息を殺し、樹間から差し込む細い月光を頼りに、はそれが北条の忍だと気付いた。 「あれ、フーマさん。オカタサマたちを送った帰り?」 口調は砕けているが、警戒は解いていない。 距離を詰めないまま、は風魔が頷くのを視認した。 「Grazie!(ありがとう!)それで、フーマさん、俺に何の用?」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………ごめん、俺読心術はさすがに使えない。喋れる?」 『お前は何をする気だ?』 「うお俺の声!?」 っぎゃー鳥肌立った! とは騒いだ。風魔は元の場所から一切動かず口も動かさず、というか喉仏さえ動かない有様で実に見事な声帯模写を披露した。も芸人の一端なので、一瞬後にはニヤッと笑って右手をあげた。鏡のように風魔が左手を上げる。はニヤニヤしながら中指から小指を揃え、親指と付けたり離したりしながら即興の相棒を作った。 『其方、真の名はいっこく堂か』 最上の方の声である。 風魔はことりと首を傾げて、『なにそれ』口調までだ。風魔の口は一文字に結ばれたまま。こいつプロの腹話術師だな、とは確信した。 『アンタ、松永軍に戻ってどうする気?』 そのものの口調で、まるでのような訝しげな雰囲気で、風魔はに問いかけた。 もし氏政を阻むようだったら、という意思が言外に隠す気もなく滲んでいる。 傭兵の忠誠を見たは、ふと表情の一切を消した。徐々に、唇が、不敵な笑みを象っていく。 穏やかに舌を動かした。 「アンタらと一緒のことをする気さ」 は、風魔の忠誠も氏政の計画も見透かしたように、一切の迷いもなく言い切った。 |
20110610 J |
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