『全てが終わったら、二人穏やかに老いていこう』 それは果されることのなかった約束。 その日の空は高く晴れ渡り、咲き初みつつある白椿が殊にその薄い青に映えていた。 数日前から、冬の訪れを告げるよう、空気は透明度を増し始め、前夜に降った雪が処女雪として庭に薄化粧を施している。この分では積もっているところもあるかもしれない。 義姫は障子を開け、円座に座っていた。夫や子供たちと餅だの芋だのを食べながら和んだ日は既に遠い。あの頃、瑞々しく張りを湛えていた義姫の手にも、年齢の齎す皺が散見されるようになってきた。輝宗などは、何を言うのかと笑うだろうが。そういう彼にも、白髪が混じり始めたとを義姫は意地悪く返してやった。自分たちは老いていく。子供たちが青年になっていくのと同じに。 梵天丸も、竺丸も、既に元服を済ませ政宗、政道と名を改めた。 輝宗は政宗に家督を譲り、荷が一つ下りたと嬉しそうに嘆息していた。反伊達勢力の囲い込みもあらかた整い、あとは適当な罪状をでっちあげれば全てが終わる。それは政宗の、当主としての最初の実績となるだろう。 今、輝宗は最後の仕上げに出向いている。実家への裏切りを決意した時、義姫は、自分が渦中として、反伊達勢力を道連れに自滅すれば良いと語ったが、輝宗がそれを許さなかった。 結局義姫・政道を反対派の旗印に祭り上げることとなってしまったが、輝宗は周到な準備の末、親子に累を及ぼすことなくことを終わらせる計りごとを練り上げた。齢を重ねるにつれ、一族の長い歴史の中でも出色の外交家となった彼は、ここに彼の生涯をかけた仕事を終えようとしている。 (殿。わたくしは、貴方の妻となれて幸せです) 嫁入りした娘の硬い心を解きほぐし、どんな時でも、家族を守ろうとしてくれた人。 愛していると告げるなら、それは輝宗以外に考えられない。 義姫はかつては信じられなかったほどの穏やかな気持ちで、愛しい人を思い描いて微笑する。 その時だ。 「お、お方様ぁ!」 狼狽した声が空気を切り裂き、転げるように侍女が走り寄って来た。 何ぞあったのか、義姫は眉をしかめる。 倒れこむように跪いた侍女は、蒼白な顔で、半ばうわ言のようにそれを言った。 「大殿様、身罷られてございます…!」 「な…」 おおとのさま、みまかられてございます。 言葉の意味を認めた脳が一瞬理解を手放した。 唐突すぎる知らせに絶句した義姫は、ふらり、侍女に歩み寄ろうとして裾を踏む。転倒しかけた女主を反射的に支えた侍女の肩を鷲掴み、義姫は血の気の引いた美貌を、使いの侍女に近づける。双方、鬼気迫った貌をしている。 「何と、今何と申した…!?」 「お、大殿さまが…若殿様に…」 侍女の眦から涙が落ちた。 「輝宗様が、政宗様に……討ち取られました…!」 1 / 2 のクラウン! Ottantasei : fair before dawn W ごうごう、ごうごうと耳元で唸っていた風の音が唐突に止んだ。 最上の方はあまりの風圧に閉じ続けていた目を開ける。いつの間にか太陽は沈み、天には満月に近い月が昇っていた。 薄明るい夜の中では周囲の様子もろくろくわからぬが、どうやら奥州に戻ってきたようだ。空気の匂いが、気配が、肌に馴染んだそれである。 風魔によって丁寧に着地させられる。ようやく月光に慣れてきた目が、樹木の隙間に見え隠れする景色を映した。藪を押しのけて見回すと、眼下に広い平野が開けた。どうやら、小高い丘にでもいるらしい。もう少し首を巡らすと、さほど遠くない位置に街道があり、大きな街へと続いている。山の上に城郭があった。月を背負ったその城を見間違えるはずがない。最上の方が嫁いだ、伊達家の本拠。 着いたのか、と息を吐いた最上の方は、風魔の労をねぎらおうと思い、振り返ろうとした。 その瞬間、視界の端に何かが映る。 釣り込まれるように首を捻った。 青黒い夜の中、それははっきりとはわからない。しかし、最上の方はそれを推測するに十分な賢さも、見識も備えていた。 「軍…勢……!?」 藪の向こうに広がる平地。米沢城と逆方向の平地には、ドロドロとうごめく塊がある。戦国に、武門の女として生まれた最上の方は知っている、あれは陣を構えた軍勢だ。 最上の方は兵法に通じてはいないため、その陣容が防御か、攻撃かまではわからない。けれども、それは防御の陣容であると最上の方は直感した。今、奥州の、それも米沢の街を前にする軍勢は二種類しかない。即ち伊達軍か最上軍。この軍が最上軍で、伊達軍が籠城しているならば、最上軍は城山や街を取り囲んでいるはずだ。街から何里も離れた場所に布陣するなら、それは伊達軍に違いない。 (伊達軍は、わたくしたちが仕掛けた罠に釣られて、最上領まで遠征していた……それが、城の外に布陣しているということは、攻撃か、あるいは最上軍に追いつかれて入城ができなかったか。攻撃ならば、こんな、本拠である城の近くに布陣するはずがない―――) 最上の方は必死で身を乗り出し、伊達軍のはるか向こうを見晴らそうとする。縋る灌木が頼りなく揺れるのも気にしない彼女の裾を、いつきが必死に握り締め、傍観していた忍を呼ぶ。 音もなく近寄った風魔が彼女を支えるのにぞんざいな礼を述べ、最上の方は遠くに蠢く地平線を見た。どうやら、最上軍はまだ移動を完了していないらしい。 「なんたること……!」 危機感に怖気立った言葉が漏れる。歯噛みした。 氏政曰く、政宗は万全の状態ではないらしい。そんな政宗に代わって指揮を取っているのは小十郎だろうか。しかし、大将を欠いた伊達軍に、勢いに乗った最上軍が止められるとは思えない。 軍勢の強弱はともかくとして、勢いに乗り、士気の高い攻勢ほど恐ろしいものはない。 (なんとか、衝突を回避……最上軍を、義光を退けねばならぬ。だが、どうやって…?) 今更最上の方が説得に赴いたところで、獲物を前にした軍は止まるまい。 同じ血が流れるからこそわかる。義光は、今歓喜しているはずだ。伊達に頭を下げ、無条件で、まるで生贄のように娘を嫁がせた最上家。その屈辱を、遠い日の最上の方は婚礼の輿の中で、義光は花嫁行列を見送る櫓の上で、共に唇を噛みしめて腹に落としたのだ。臓腑を焼いた激情。無力な現実。最上の方は、その手を取った輝宗の温かさに触れて、血管を巡る憎悪を別のものに変えていったが、義光はそうではない。今彼は、先祖たちが呑み続けてきた苦杯を覆そうとしている。最上家の誇りを、取り戻そうとしている。鷹のように迫る義光を前に政宗は仔兎のように無力だ。 (第一、最上の本陣は遠すぎる…) ここからでは間に合うまい。最上の方は沈思した。合戦が始まる前に、女の足で辿りつける距離ではない。 ふと、最上の方の着物を、小さな手が引いた。 「あの…忍の兄ちゃんが」 何か用があるらしい、といつきに促されて見れば、風魔が形ばかり跪いていた。暇乞いの作法。どうやら、氏政の元に戻るつもりらしい。 最上の方は彼をねぎらおうと口を開いて、弾かれたように彼を覗きこんだ。 「其方、もう少しだけ、わたくしを運んでくれぬかっ?」 時間は取らせぬ、と最上の方は興奮気味に押し込み、風魔に彼女の願いを詳らかに語った。 風魔は少し思案していたが、本当に大した時間も、労力も掛からないと考えたのだろう、やがて静かに首肯する。 最上の方は、一切迷いのない瞳で「頼むぞ」と一言、風魔を信頼した。 限界を越えた体に鞭打ち、襤褸となった草履でもって小十郎は奥州までの道を踏破した。つき従うのは、政宗を先に運んで行った宗時が、案内のために寄こした最小限の元騎馬兵。護衛や援軍を差し向けられるほどの余裕はなかった。その彼らも、今は脛当てを泥にまみれさせている。馬が、米沢を目前にして泡を吹いたのだ。 落ち武者同然の一行は、しかし敗者の持たない強い眼光を携えて、今彼らの主君と合流していた。 頬のこけた小十郎を、急いだ道程のためだろう、山賊のような乱髪となった宗時が飛んで迎える。 「片倉さん!」 宗時は小十郎を前にし、眉の間をしわしわと寄せた。政宗を逃すために、小十郎は宗時を信頼し、捨石同然の道を征った。彼が戦いうる状態でなかったことを知るだけに、九死に一生を得た小十郎と再び相まみえた宗時は、言葉を絶するしかなかった。 人馬の汗の臭いが染みた宗時の肩に手を置き、小十郎は主君の無事を問う。 「政宗様は」 「……ッ、ひ、筆頭はご無事っス…! 今、先触れを城に出したんで、帰城したらすぐ診断できる手筈は整えてあります…!」 「そうか……宗時、よくやってくれた」 「そんな…!」 その一言に、堪えていた涙が決壊する。安堵と、尊敬と、役目を代われなかった申し訳なさとで、宗時は男泣きに泣いた。 その時である。 月明かりの中、身を寄せ合うような小集団の鼓膜を、どろどろと軍馬の足音が揺らした。 小十郎は反射的に尖った顎を引く。ここで襲われたらひとたまりもない。 次は我こそが主君の盾にと、宗時隊の兵が決死の覚悟を漂わせ始め、しかし涙を払った宗時がそれを押し留めて声を張った。 「待て! あれは敵じゃねェ、成実さんとこの隊だ!」 揺るぎのない言葉に、隊の動揺は見る間に鎮まっていく。小十郎は宗時の確信の理由を聞いた。 「宗時、どうしてそう言い切れる?」 「人取橋から撤退する時、成実さんに急使を出したんス。真田の時には間に合わなかったっスけど、援軍を出してくれるって…」 「成実は最上義光と対陣中だろう。あまり多くの援軍は無用だ」 小十郎は月影に見え始めた軍の影を、焦点を絞りながら言う。 「オレたちはこれから城に戻る。必要数といえば護衛程度だ。だが、あいつはまさしく戦中だ。兵が要るのは成実の方だというのに…」 「で、でも最上は全然動かねぇって成実さん言ってたっスよ!?」 「今動かなかったからといって、その次の日にどうなるかわからないのが戦だ。成実、あいつなら天性の勘を持っていると思ったが」 「そ、その勘で大丈夫だと踏んだんじゃねぇっスかね」 「勘を実行に移すには、理性と合理性で説明できる状況を作らなきゃならねえ。勘一つに頼って、一国を滅ぼすなんぞ洒落にもならん」 軍容が明らかになるにつれ、小十郎の眉間に皺は深くなっていく。 成実は軍の大多数を撤退させたのか。政宗の負傷に度を失って。 整然とした撤退は流石武を以て鳴る成実の手腕だったが、叩き伏せたわけでもない相手を前に突然の撤退では褒めるところなど何もない。徒に相手に、あの“羽州の狐”に悟らせただけだ。伊達軍の後方で何かが起きたと。 (松永と繋がっている、最上義光に!) 背を晒す格好になった伊達軍に、これを機会と義光が追撃せぬはずがない。 (米沢は目の前…しかし、今から入城して、城攻めに耐えうる準備などできようはずもない…) まして、政宗は健常を欠いたままである。 明るい十三夜の月が、まるでこの伊達軍の行く末を見届けようとするかのように、天頂に至ろうとしていた。 |
20101227 J |
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