氏政のつけた案内人の死によって、最早迎えに来るという風魔には会えないかと思われた。 最上の方もいつきも、待ち合わせの場所など知らぬ。意識のなかったキリエは言うまでもない。 ともかく方角を調べて、奥州の方に歩いてみようと言った最上の方を止めたのはキリエだった。 「当てもないのに歩き回っても、マツナガの兵に遭遇する危険がいや増すだけです」 それよりも、待ち合わせに向かう途中であろうこの場に留まった方が良い。合流地点に逃亡者が現れなければ、風魔はその場から松永軍へと逆行し、道半ばに潜んでいる逃亡者たちを探そうとするだろう。地理を知る案内役は最短距離を歩いていたはずだから、風魔も最初に案内役が通るつもりだったであろう道を探るはずだ。それならば、下手に歩き回り、道を逸れてしまうよりもここに留まった方がいい。 また、領国を遠く離れた松永は、帰路を急ぐ身でもある。 急を要する道中ならば、たかが逃亡した人質の行方を腰を落ち着けて探ることはない。 1 / 2 のクラウン! Ottantacinque : fair before dawn V 説得されて、最上の方はその場で息を潜めることに決めた。 そうなれば不思議なもので、手足を動かさないことがかえって焦燥を感じずにはいられなかった。こういう時人間は、闇雲に手足を動かした方が不安を感じずに済むものらしい。がさ、と風や小動物がたてる音にいちいち跳ねそうになる心を抑えつけた。キリエの提案は理にかなっていたし、自分も納得したのだから、己の決定を疑うまいと試みる。 だが最上の方と同じように感じているのか、いつきはちらちらと落ちつきが無い。 彼女は最上の方ほど自制心を持ってはいなかったようで、何度かキリエに先へ進もうと懇願しては、彼女に落ちつけられている。 時間は長く、泥の塊のように鈍重であるかと思われた。 最上の方が何度目かの不安の波を押し殺したとき、ふと薄青い影が差した。 辺りは陽が森の向こうに隠れ、紅色の空に先駆けて夜が満ち始めている。それでも、最上の方にかかったそれは間違いなく影だった。 「………ッ!」 息を呑んだ最上の方に気付いたキリエが、瞬時に地を蹴り、影と最上の方の間に割り込む。彼女は柔軟な体を活用してその影に足払いをかけようとしたようだったが、足元を強襲されたはずの影はぴくりとも動かなかった。 一瞬の攻防が終息したのを見て、最上の方は悲鳴の張り付いた喉を解凍する。 やたら乾いた喉は最初、ひっかかるような音を出したが、なんとか舌は動いてくれた。 「そ、其方が、氏政公の言われた風魔か?」 「………」 影は、声もなく頷いた。それを見たキリエが低い位置から彼の太腿に突きつけていた短刀を下ろす。動脈を狙っていたらしい。もっとも切っ先は、彼女を見ることもなく風魔が取り出した苦無によって止められていたが。 短刀と苦無。互いに針の先のような面積だけを正確に突きつけ合い、キリエの攻撃を防いだ風魔の技量は凄まじい。例え彼女に殺す気はなかっただろうにしても、風魔はキリエに一瞥もくれなかったのだ。 風魔は、キリエにも、目立たないように葬られた案内役の墓にも注意を寄こさず、最上の方に手を差し伸べた。 (どうやって運ぶ気じゃ? 輿があるようには見えんが…) 戸惑いながら最上の方は手を伸ばす、すると案の定彼は最上の方をやすやすと抱えた。姫抱きで。 「〜〜〜〜〜〜っ!?」 四十路も目前の最上の方、旦那にもこんな抱かれ方をしたことはない。 ぎょっとした彼女が手足をばたつかせるのなど問題せず、風魔は平然と踵を返す。くっ、と顎が上を向いた。 そのまま出立しそうな気配を感じた最上の方が寸でのところで制止を叫び、従順な忍は瞬く間に動きを止めた。 「こ、このまま奥州までゆく気かえ」 こくり、と風魔が首肯する。 筋肉質な体に似合わぬ幼い動作とあくまで音のかけらも零さない姿勢に最上の方は頬が引き攣るのを覚えた。 「其方、わたくしを抱えて走るというのか」 首が縦に振られる。 「あの者たちのことは聞いていないのか」 最上の方は視線でキリエといつきを指し示した。 風魔の首が縦に振られる。 氏政と最上の方が出会う前に斥候に出ていたようだから、最上の方を連れていくことしか命じられていないのだろう。 「あの者たちも連れていく」 「…………」 風魔は何か言いたげに最上の方を覗きこんだ。無言のうちに疑問が聞こえてくる。 彼らの生死は重要ではないだろう、と。 最上の方は、彼の疑問を打ち払う強さを眉宇に表した。 「どうしてもわたくしを先に運ぶというのなら、あの者たちにも迎えを寄こしてくりゃれ。氏政公も合意したぞ」 「…………」 主の名を出せば、風魔は何か考えるように僅かに首を傾げた。最上の方は、ここが正念場とばかりに彼に強い視線を注ぐ。 そんな中、「あの」と小さな声が沈黙を破った。 キリエが軽く手を上げている。彼女は草履が脱げそうだから懐に入れておけと言うような気軽さで続けた。 「俺はいいです。フーマさん、オカタサマとイツキちゃんだけ運んで」 「何じゃと……!? キリエ、其方何を言うておる!?」 「姉ちゃん!?」 風魔の腕から転げ落ちそうなほど身を乗り出した最上の方を、忍の手が抱え直す。興奮する荷物を意に介することなく彼は重心を移動させ、年端もいかない子供を抱えるような格好に変えてちらりとキリエの方を見る。それを主の頭越しの了承と見てとったキリエは、悲鳴じみた声で騒ぐいつきをひょいと抱えあげると詰問を続ける最上の方の手の中に彼女を押しつけた。 「キリエ! 其方何を考えておる。まさか、妙なことは考えておるまいな」 お前も奥州へ帰るのだろう。 やっと松永の手を脱したのだ。最早彼女は、政宗の腕の中へ帰れるはずだ。 キリエは言ったではないか。政宗にありがとうと言わなければと。右ストレートを決めなければと。 それなのに何故帰還を拒むのか。 まさか―――まさか、血を浴び、松永に体を開いた己は、最早奥州に戻れぬなどと、そんなことを考えているのでは。 女ならば誰でも思い当たる心境を、キリエは抱いてしまっているのではないかと最上の方は危惧したが、彼女の青白い剣幕をキリエは笑って否定した。柔和な笑みだ。これが彼女の本来の笑顔だろうか、と場も弁えず考えた思考の端は直ちにその思いを改めた。眩しそうに開いた瞳を彼女は知っている。彼女はそれをずっと身近に見てきた。 それは侍の目だった。 意地と、誇りと、死すら恐れぬ覚悟を決めた目。 渇えを満たそうとするかのような、満ちた泉のようであるような。 激しい決意を秘めた目だ。 絶句した最上の方に、キリエは静かな口調で言う。 「まだ、俺にはすることがあるんです」 憑き物が落ちて澄明とした表情であるだけに、そこに滲んだ色はぞっとするほど鮮やかでわかりやすかった。 酷く寒々しいのは、キリエの瞳に宿る光が刃のそれを思わせるからか。 キリエは風魔に視線を移すと、奥州から戻ったら己を松永軍に連れて行ってほしいと頼んだ。それがどんなに危険な行為であるかを重々承知しながら、最上の方はキリエの双眸の前に止める言葉を持たない。武士の目をした彼女に何を言っても無駄であることを、武家の女である最上の方は悲しいほどに知りぬいていた。 「オカタサマ、イツキちゃん。どうかご無事で」 いつきが止めてくれと腕の中で懇願している。しかし最上の方は痺れたように動かない。 そそけ立った頬を為す術もなくキリエの方に向け、最上の方は一切の懇願を捨てた。武士を女として扱うことはできない。 「武運、を、祈る―――」 キリエはすっと瞼を閉じた。睫毛が長い。 その影に満足を、いや、僅かに哀しげな満足を見つけた。その途端、言葉が最上の方の口を衝いて出る。 その哀愁にはまだ少女が隠れているはずだ。 「……ッわたくしは其方の言葉を伝えぬ。其方が、其方の言葉で、政宗に礼を申せ! よいな!」 奥州に戻るつもりが無いことを察してか、縋る思いで念押しした最上の方に、キリエがぱっと顔を上げた。ぽかんとした顔にやがて微笑が滲む。その寂しい微笑は最上の方の心をかき乱したが、それは同時に武者の顔でもあった。 彼女はきっと、奥州には戻らない。 キリエは大仰な仕草で最上の方の手の甲に唇を落とした。Piacere, Donna Date.(初めまして、伊達家の女あるじ様) キリエはじっと待っていた風魔に目で合図を送る。軽く頷いた風魔は、今度こそ地を駆るべく足に力を込めた。 今度こそ、最上の方はそれを止めない。 ぐぅっ、と風が耳元で逆巻いた刹那、最上の方の耳に遠ざかっていく声が届いた。 「Grazie, regina! E per me un grade poter incontrare Lei! (ありがとうございますオカタサマ! 貴女に会えて光栄でした!)」 彼女が取り戻したものは、一体何なのだろうか。 最上の方には、想像することもできなかった。 |
20101009 J |
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