かつては敏感に反応し予測まで立てた己が身を通過するもの、それは空気の動きであったり、人の声であったり、あるいは誰かの手であったりしたものは、今のにとって一瞬の微風と変わりなかった。端をとらえて考察、反応することはおろか、意識することさえない。は認知の内側に引き込む行動を放棄している。 自分の手を引く子供が誰であったか、辺りを警戒する女性が誰であったか、それさえ思い出すことはなかった。ともすれば、認識さえも危うい。 痺れた思考に耽溺することは、それなりに楽なことだった。 何も考えなくていい。 時折、記憶の襞から顔をのぞかせる種々の欠片がありはしたが、それが何であったかを思い出そうにも枯れた胸は記憶に伴う感情を生むことはない。 もっと早くこうなっていれば良かったのかもしれない。 そうすればは、あんなにも傷を負って、盲目にも孤独にしがみつくような生き方をしなくて済んだだろう。 最初に心が麻痺したとき、素直にそこに潜む暗く深い海に溺れてしまえば。 その海底に横たわることと、今まで必死に殻にこもってきたことは同じなのだ。同じ、孤独だったのだ。 それなら、こちらの方がずっといい。これならどこも痛くない。 まるで淡雪に埋もれるような心地よさに、はうっとりとまどろんだ。 ここにはどんな熱もない。どんな音も届かない。 激情も、狂気も、暴力も、優しさも。全てを遮断してくれる。撥ね退ける努力をしなくていい。何も届かないからだ。 ここは本当にいいところ。子供の甲高い悲鳴も、男の怒号もの鼓膜を震わせる何もかもが届かない。 ここは本当にいいところ。陽に翳された刃の煌めきが視界に映る、映るだけで何もかもが―――― の視界を 背中 が覆う。 1 / 2 のクラウン! Ottantaquatro : fair before dawn U それは言うなれば反射だった。 振り上げられた刃物の煌めきを現在のものとして認識したのか、それとも記憶にだぶらせていたのかも定かではない。どちらにしろ目に映ったものが刃物だけならば、はそれを粛々と受け入れていただろう。 けれども、幸か不幸か、の目前に記憶の中には差しこまれなかったものが飛び込んできた。 それが誰かの背中だと認識した瞬間、足が地を蹴っていた。 凶行を行わんとする男の手を、側転の要領で勢いを加えた足で蹴り飛ばし、ちらりと目端に捉えた死人の刀を即座にひっつかむ。一呼吸を置く間もなく、掴んだ刀は振り抜かれ、その勢いのまま首を飛ばす。放物線を描いた首は重たげな音を立てて地面を跳ねた。その音が響くのにつられたように、切り口から思い出したように血が噴き出す。 そこに死人がいた理由も、殺人者がいた理由もわからない。はひたすら無心のうちに、刃物を振り上げた人間を斬り殺した。掌に残る生き物を殺した感触。浴びた返り血の温かさ。木々の芳香と血の臭気が、懐かしい樹海を引きずり出そうとする。はまた殺した。おかあさん。おかあさん。行きましょう、――― 『』 低い声が名前を呼んだ。前髪に手が置かれる錯覚。吐き気を催すほど幾重にも重なりあった記憶の中の光景と現実の惨状を上塗りするように浮かび上がる、青色の背中。 白刃の前に、爆炎の前に、手を伸ばすことはなくとも呈されるその、背中。 背中の主はに何も求めない、何も期待しない、立ちあがる手助けなど論外だ。膝を抱えるのも、立ちあがるのも己の問題。の背中を押す手はない。ただ、終わってしまう寸前に、命懸けで彼を庇う背中。 その背中にぬくもりを感じていた。 強情にもそれから見ないふりをしたせいで、己はそれを失ったけれど。 伏していた目を上げる。 小刀を構えたまま、声もない最上の方と、腰を抜かしたいつきの視線が現実からの矢となって身を刺した。 彼らの背後、ぽっかりと守られる形の空間に己はいた。 あそこから見えた背中がきっと、自暴自棄になった己に差しこんだ二度目の曙光だった。 そんな意図はなかっただろうに、夜明けを教えてくれた竜を思う。 肩越しの夜明けの光は目を焼いた。だから目を閉じたけれど、暁を見出した目はもう夜に留まることはできなかった。 暗闇を払う光は爆炎と共に消えたが、もう一度目の前に現れた背中が、に朝を思い出させた。体が反射で動いたのは、背中を再び失いたくなかったからかもしれない。 細い金色の糸を手繰って、は戻ってきた。 目も眩むような光の中には、彼が大事に囲っていた偽りの記憶も、生温かく耳目を閉ざす殻もない。 吹き荒れる身を切るような真実、生々しく曝された傷が訴える痛み、己を守るものなんて己の手足しかないけれど。 ねえ、でも、俺の夜は明けたよ。 血の染みた地面を踏んで、歩み寄った娘の静かな表情を最上の方は痺れたように見ていた。 娘は最上の方の正面で立ち止まると、深い色を湛えた眼差しをすうと和らげる。乱れた頭を流れるように下げた彼女は綺麗な角度でお辞儀をした。 「オカタサマ、イツキちゃん、ご心配をおかけしました。助けてくれて―――ありがとう」 それを聞いた瞬間、我に返ったいつきがわっと泣き出した。足に力が入らないのだろう、彼女は腕で這い、キリエの裾に取り縋って姉ちゃん、姉ちゃんと繰り返す。良かった、ごめんなさい、という言葉が混ざるのが、彼女の素直な心根を表している。 最上の方は頭を上げたキリエを呆然と見、信じられないとでもいうように問いかけた。 「戻ったのか…」 「はい」 「そなた……」 差しのべた手は、吸い寄せられるようにキリエの頬に触れ、血の飛沫を親指が拭う。擦られた血痕は、拭い去られることなく彼女の頬の上を汚した。 衝動的に娘の細い体を抱き寄せる。キリエは抵抗しなかった。彼女の小さな頭蓋を抱いて、思わず悔恨が口をついた。 「すまぬ…!」 己の身勝手な因縁に彼女を巻きこみ、追いやってしまった地獄は言語に絶する。キリエは心さえ壊したのだ。戻ってこれたとはいえ、その手は血に濡れている。 瞬く間にせり上がってきた涙が溢れて、最上の方は慌てて身を離した。キリエに見られないように背を向ける。察しの良い彼女は気付いただろうが。 (わたくしに、泣く資格など無い) 謝ることすら厚顔だ。唇に歯を喰い込ませる最上の方は、背中にキリエの視線を感じていたが、彼女はどんな言葉をかけることもなかった。最上の方はほっとする。自律精神の強い彼女には、この上庇われるような労わりは耐えられなかった。むしろ断罪の方がいい。キリエの無言は労わりの言葉よりもずっと優しく、弾劾よりも厳しかった。 最上の方といつきが落ちつくのを待って、キリエは状況の説明を求めた。 やはり彼女は、自分を失ってからのことを何も把握していないらしい。北条氏政の手引きで脱出したことを聞いても、「誰か老人がいたような気はしますけど…」と曖昧に眉を寄せるだけだった。 常陸を抜けて奥州を目指していること、氏政が迎えとして寄こす忍との合流地点に向かっている途中会敵し、案内役が斬り殺されたこと。整理して話すうちに程よい緊張感が戻ってきた。今は、後悔よりも先にするべきことがある。 「状況は決して楽観視できぬ。わたくしたちを探す追手も出ているだろう……しかし、良い知らせもある」 察したいつきが嬉しそうにキリエの手を握った。最上の方も、眉間が和むのを抑えられない。 キリエは訝しげだったが、「政宗は」とそう聞いた途端に彼女の全集中力がその続きに注がれるのがわかった。四肢が緊張する。 最上の方は、キリエの表情をこの上もなく嬉しく思った。 「政宗は、生きておる。小十郎たちに守られて、奥州に向かっておるそうじゃ」 一瞬息を詰めた音を聞いた。零れおちんばかりに見開かれた目が、ゆっくりと伏せられ、一拍、二拍、再び瞼の下から黒い瞳が現れる。気丈な彼女の目から涙が零れることはなかったが、若干潤っているのか、銀が散ったように虹彩が瞬いた。それはとても美しかったが、堪えることはないのにと最上の方は思う。 キリエは震える吐息を吐くと、何かを堪えるように笑った。 「じゃあ、あいつに……無茶ばっかりするなって、右ストレート決めてやらないと」 後半はよくわからなかったが、その物言いに最上の方の口許も綻ぶ。 キリエは彼女に笑い返して、それから、と付け加えた。何かに気付いたように視線を上げる。彼女の視線の先を追った最上の方は、鬱蒼とした木々の枝葉の間から、僅かな空を見出した。僅かに春めいてきたとはいえ足の速い太陽は、既に青空を午後の色に変えている。もう暫くすれば青空は茜に染まり、静まり返った夜が来るだろう。 けれどもキリエは、午後の空の、そのずっと向こうを見ているようだった。 それが何であるのかは分からない。あるいは人か、過去か、それ以外か。 キリエの顔に視線を戻した最上の方は、その目許に浮かんだものに、言いようのない不安を覚えた。それは彼女にとってよく馴染んだものだった。輝宗と共にあった頃、鏡を見れば己の目に秘められていたもの。覚悟。 最上の方の不安をよそに、キリエは静かに、まるで大切な大切な宝物を愛おしむように呟いた。 「ありがとう、って、伝えなきゃなあ」 |
20101009 J |
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