何故このお人は立っている。 幾度も槍を合わさぬうちに、幸村は小十郎の状態を見抜いた。 小十郎の刃は、裂帛の気合と共に猛々しく振り抜かれる。 が、その刃に重さがない。 練り上げられた技巧でもって、一撃一撃が竜の爪のような致死性を宿すに至っているが、健常な武人の筋肉が与えるであろう力はとんと感じない。鍔競りになれば、幸村は彼の刀を容易く弾き飛ばせるだろう。小十郎もそれを承知しているのか、切りこんでは離れての繰り返しだ。 ここに至るまでに、誰かの槍を受けたのか。 現に彼は手負いの獣を思わせる様相だ。体に余裕が無いからこその、壮絶なまでの気迫がびりびりと幸村の肌を刺す。 しかし、と幸村は思う。 (片倉殿ほどの巧者が簡単に手柄を許すだろうか) 今まで政宗とばかりせめぎ合いをしてきて、小十郎はむしろ佐助に相手をさせていた。よって彼と刃を交わすのはこれが初めてではあるのだが、そこは同じ武人、相手の力のほどは一合打ち合えば目算が付く。小十郎の実力は承知できた。 しかし小十郎の呼吸は荒い。時折笛の音のような高い呼吸音が混ざり、その音ごとに彼の生気が抜けていく気がする。目も、霞み始めているのではなかろうか。幸村を見据える双眸が暗く翳り、眼光ばかりが鋭い。 彼は、正に死兵のような形相だった。けれどもおかしなことに、小十郎から発散される気迫は死を志向してはいない。 どうあっても生き延びると宣言しているかのようだった。 (独眼竜が見当たらないことに、何か関係があるのだろうか) 気配すらない伊達政宗。 後詰もない、手負いの片倉小十郎。 何か尋常でない事態がこの主従の上に降りかかっているのだと推測することは容易い。 斬り込んできた小十郎の刀を弾く。脇腹を狙って繰り出した槍を、小十郎は左足を軸にして避けた。すかさずもう一本の槍を左腿に叩きこむと、すんでのところで速さの乗った刀が槍の軌道を逸らした。穂先は小十郎の外套に穴を開けるにとどまる。 刀に、大した力は籠められていない。小十郎は速さと、幸村の勢いを利用した最小限の動きで渡り合っている。尋常ではない技量だった。 (だが、ここでこの方を殺すことは容易い) むしろ殺すべきだ。 小十郎は、その武力だけでなく頭脳でもっても伊達軍の重要な戦力だ。 彼の死によって政宗が受けるダメージは甚大である。 伊達軍の戦力低下は、現状独立を失った武田にとって祝うべき朗報となるだろう。 うまくすれば、独立を取り戻すことさえも。 けれども――― (お許しくだされ、お館様) 動きを止めた幸村に、小十郎の怒声が飛んだ。 上段に打ちおろされた刃を消極的に受けとめる。 「何をしている! 本気を出せ!」 「……ふん! でぇや!」 軽い刃を押しのける。が、それ以上の攻撃をしかけることもない。 それ以上の戦闘を放棄したかのような態度に、小十郎が低い声で訝しんだ。 「……どういうつもりだ…!」 「………行かれよ。急ぎ、奥州へ戻られよ」 「情けをかけるなと言ったはずだ!」 「否! 情けではない! 政宗殿にお伝えくだされ。いずれ―――正々堂々、貴殿と勝負すると」 「………いいのか、俺にそれを言って」 小十郎はちらりと砦に目を遣った。 投降して間もない将の挑戦、秘密裏に築かれた砦―――それらが暗示するところを、幸村は白日に曝したことになる。 つまりは、武田の反乱を。 幸村は誠実と凶暴が入り混じった微笑を浮かべた。猛々しさの塊のような武士の表情。 それは正に、武田武者の典型である。 「構わぬ。貴殿を生かして帰すなら、某の言葉があってもなくても同じこと」 それに貴殿のことだ、とうに、この砦の存在は周辺の伊達の支城へ伝達済みだろう。 幸村はそう付け加えた。 抜け目のない指摘に小十郎は軽く笑う。この分では、鎮圧の兵を差し向ける余裕がないことも見抜かれているだろう。カマをかけたつもりがかけられた。 小十郎は刀を収めると、威儀を正して若い虎に頭を下げた。 「かたじけない、真田幸村」 「なんの」 顔を上げた小十郎と、槍を下ろした幸村は目を合わせ、不敵な微笑を交わした。 「次に見えるときは、容赦はせぬ」 「望むところだ」 小十郎が背を返し、奥州へと街道をひた走っていくのと同時、幸村も砦に向きなおって歩を進めた。 双竜との再会を彩る血と硝煙を予感する。その日のために、奥州が混乱している今を逃さずやっておくべきことがある。 1 / 2 のクラウン! Ottantatre´ : fair before dawn T 休憩のためであろうか、動きを止めた一行からいつきたちは密かに抜け出した。 氏政の手引きによるものである。 彼が耄碌を装って騒ぎを起こし、注目を集めるうちに、彼の従者の一人を先導としていつきたちは山中に分け入った。 「じきに、奥州までの護衛を寄こしましょう。風魔という忍でござる。彼の者ならば信が置けますゆえ」 そう言って、関東に不慣れな最上の方たちを送りだした。 抜け出す際、最上の方は氏政を振り仰いだ。 短く感謝の言葉を告げ、その先を一瞬言いあぐねた彼女に、氏政は二通の書状を渡す。 「こちらは独眼竜へ、渡していただけますかの」 書状は少し厚みがある。旧領主から新領主へ、政治向きの申し送りや、此度の松永の件に関しての旧北条家の立場―――北条に仕えていた侍たちの処遇に関する願いが書かれているのだろう。 次いで氏政は、こちらはもし奥方が構わないと思われるのでしたら、と前置きし、薄い方の書状を指さした。 「妻へ―――甲斐の、黄梅院へ、送ってやって下されぬか」 老いぼれが見苦しいと笑われましょうが。 少し照れたように言う氏政に、最上の方は努めて声を震わせないようにしながら承知した。 「必ず……必ずや、お届けいたします」 薄い書状である。 しかし、そこに綴られた一字一字には、国主としての氏政ではなく、夫として、人間としての氏政が存在していて、彼の愛しい人へ最後の挨拶を告げているのだ。 そう、この書状こそは、北条氏政の辞世である。 復興という鼻薬を嗅がせ、旧北条兵を利用して政宗を陥れた松永も、関東を抜ければ最早氏政に用はない。 そうなれば、滅んだ国の主など抱えていても面倒なだけだ。 目的を達した彼は、さっさと氏政を殺すだろう。 その未来を甘んじて受け入れ、いや、最上の方たちを逃がし、政宗に彼の真意を見せることで、少しでも旧北条家家臣たちの未来を安からんものにするために、氏政は死を覚悟したのだ。 「関東は豊かな国でござる。ご先祖様が力を尽くして、この国を富ませてきた。我ら一族はこの国を愛し、愛された。この国を汚い簒奪者どもの草鞋で踏みにじらせてなるものか」 氏政はそう語った。松永に利用された今、伊達に報復を受ければ関東は荒廃する。 それだけではない。氏政は、書状に諸国の動きをしたためてもある。丁度小十郎が幸村を通して悟った武田の動きを、地下に潜んでいた氏政は我が目で確かめている。 強大になればなるだけ、国には敵が増えていく。 支配の確立しない国ならば、そこに漬け込むものは更に多い。 例えば、独立を取り戻したい武田や北条のように。 そしてその時戦場になるのは、諸国がこぞって狙うのは、未だ伊達の支配が浸透せぬ関東だ。 そのようなことをさせてなるものか。 例え、この命に代えてでも。 最上の方たちを見送った氏政は、誰にともなく呟いた。 「儂は誇り高き北条家当主、北条氏政。ご先祖様、ご覧くだされ。儂は、この国を守り抜いて見せましょう」 いつきは、獣道をひた走っていた。 前には最上の方が、慣れぬ山中に息を乱しながら氏政の寄こした道案内に従っている。 子供とはいえ、自然に慣れたいつきほどの余裕があるわけもあるまいに、彼女は時折振り返っては後に続くいつきと、彼女に手を引かれたを確認した。 は相変わらず呆とするばかりで、いつきが手を離せばその場から一歩も足を動かすことはないだろう。 その容易い想像はへの憐憫を抱かせたが、道なき道を進むにつれてその感情は彩りを変えた。 余裕が奪われるにつれて、人は攻撃的になる。 疲労に苛まれ始めたいつきは、段々と、繋いだ手が重くなっていくように感じた。 自発性のないは、ありていに言えばお荷物である。 いつきは自分よりも大きな荷物を引き摺っていて、しかもその荷物もいつきと同様に疲弊しているのか、次第に歩みが遅くなる。 この手を離したい、と小さな声が生まれた。 この人は自分で生きようともしていないのに、どうしていつきが面倒を見なくてはいけないのか。心の片隅で生まれた不満は、極限状況の中で楽々と大義名分を得、途端にとめどもなく肥大していく。 力任せに手を引くとはよろける。試しに手を離せば歩みも止まる。 このまま置いて行ってしまおうか、という囁きさえも心に生まれた。 頭を振って惨い囁きを追い散らし、いつきはもう一度の手を取る。 がこうなったのは自分の責任。彼女を捨てることなどできない、してはならない。 けれども、不満が渦巻くのだけは止めようもなかった。 どうにか、人馬のざわめきも遠くなり、シダの垂れた岩影で一息をついた。 しかしこちらは女子供の足である。侍たちが捜索に出れば、すぐにも見つかってしまうかもしれないので長居はできない。 案内人の急かすような視線を受けて最上の方が立ちあがり、いつきも足を叱咤して腰を浮かす。 「ねえちゃん、」 肩越しに振り返ったは座り込んだまま、身じろぎする気配もない。 引っ張り起こさなければ駄目だろうか。 そんなの、いつきは嫌だった。面倒だった。自分だって疲れているのだ。それなのにこの上どうして無気力な人間を支えなければならない。 は心を壊された。松永のせいだ。いつきのせいだ。わかっている。自分には、彼女を連れて逃げる責任がある。 けれども、とて、いつまでもこの状態が許されるわけではない。 これは逃避行だ。生き延びたいのなら、せめて自分の意思で立ちあがってもらわなくてはならない。皆、自分のことで手一杯になる。いつまでもを優先することなど無理だ。 『……どうせ、私は…死ぬもの…!』 ふいに、弱弱しい声を思い出した。 喘鳴に塗れて、聞き取りにくくて、憎悪に満ちた声。あれは誰だったか。紙人形のような手足と呪詛に満ちた目。薬臭い布団の中で、自分の運命を呪い、健康な他人を呪っていた。 (―――お千代だ) 思い出せば止めどもない。羨望と八つ当たりを見せつけた彼女の姿がにかぶり、苛立ちを抑えようもなくなった。 お前なんか、何もしようとしていないくせに。 弱虫だ。絶望に囚われて、他の全てを忘れてしまうなんて。絶望以外の何も見えなくなってしまうなんて。 お前は立ちあがろうともしない―――自分で自分を絶望の蔵に閉じ込めていることに、気付かないのか! 「いい加減……甘ったれるでねぇ!」 苛立ちが口を衝いて出た。突然弾けた大声に、何事かと大人たちが振り返る。は俯いたままだ。 いつきは構わずに続けた。 「おめえさん、一体いつまでそうやってる気だ? ああ、おめえさんは、青いお侍があのキノコ頭にやられちまうのを見ちまったかもしれねぇ。でも、このままだとおめえさんもキノコ頭に殺されちまうだぞ!? おめえさん、あんな奴に殺されてぇだか? じいちゃん言ってたでねえか、青いお侍は生きてるって! なのに、なのにどうしておめえさん、立ちあがろうともしねえだよ。青いお侍に会いたくねぇだか? 殺されちまったら、青いお侍に会えねえだぞ!」 息を整える。は相変わらず身じろぎもしない。 悲しい。情けない。苛立たしい。 いつきは叫んだ。 「目ぇ覚ませ!」 いつまでも、絶望に座り込んでいるわけにはいかないのだ。 ましてを絶望させた政宗の死は、早合点だったではないか。 の事情を知らぬいつきは政宗の死がを追い詰めたと思っている。 しかし、いつきの渾身の説教にも関わらず、は緩く瞬きをするのみだ。 いつきが拳を握りしめた瞬間、がさりと下草を乱暴に踏む音がした。 「こんなところにいやがったか」 声が喉で凍る。弾かれるように振り向くと、白刃が木漏れ日を弾いてきらりと光った。 松永軍の軍装を身に付けた侍は、野卑な顔に残忍な笑みを浮かべる。 「松永様からお達しがあってな……見つけた奴が、好きにしていいそうだ」 目的語は決まっている。 彼は案内役を一息に斬り殺すと、無遠慮な目で逃亡者たちを舐めまわした。その目に含まれる好色な光にいつきの足が竦む。幼い彼女は、まだあけすけな性に慣れていない。 侍の目は低い位置で止まった。 だ。 若すぎもせず、歳をとりすぎてもいない。ぺろりと唇を舐めた彼の視線を遮るように、最上の方が我が身を二人の間に滑り込ませた。 「下がりゃ、下郎!」 「はあん、あんた、どこぞの武家の奥方さんか。その歳にしちゃ別嬪じゃねえか」 武家も貴族も農民も、股を開けば女は女。あんたもちゃんとかわいがってやるよと、虫唾が走ることを連ねながら侍はにじり寄ってくる。 ぱっ、と、最上の方は素早く守り刀を抜き放ち、侍の顔面を斬りあげた。わっと叫んで侍は距離を取る。追撃をするには、最上の方の技量は頼りない。機を逸した。血の滴る顔を上げた侍の目は怒りに燃えている。 「……犯すのは、やめだ。てめえは殺してやる…!」 侍は刀を片手に、ゆらり、ゆらりと不気味な足取りで距離を詰めた。最上の方は懐剣を構えたままじりじりと後ずさる。必死で肉食獣と相対する小動物のような最上の方を見て、侍の顔に嗜虐的な笑みが広がる。 恐怖を煽るように殊更大きく刀を振り上げた。いつきが悲鳴を上げる。刀の切っ先が陽光を弾いた。ちかり。 その瞬間最上の方を追い越して、視界を掠めた赤い色。 それが何であったか、その場の誰もわからなかった。その赤色の正体を知る前に、別の赤色が噴水のように噴き上がる。 最上の方は呆然とそれを見た。首なし死体の向こうに人がいると気付いても、懐剣を握り締めた手の力を抜き損ねた。 今、最上の方は伏せた双眸と向き合っている。 瞳の主はゆっくりと一度瞬きし、返り血の斑点を飛ばした顔を上げた。 「……Grazie,オカタサマ……」 泣き笑いのような表情を浮かべたが、夥しい血の向こうに立っている。 |
20100929 J |
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