馬の嘶き、兵たちの喚声!

 凍りついたいつきの恐怖が握った手から這い上る。こんな近距離では、幼い子供の足で戦場から抜け出すことはできない。
 最上の方は、彼女の人生をかけた仕事と、その果てにある運命から目を離すものかと腹を括った。
 恐怖に砕けそうな膝を叱咤し、振り上げられた銀色の死を睨み上げる。
 恐ろしい、けれど後悔は無い。
 己の体が馬に踏み荒らされようと、誰にも一顧だにされぬ躯と成り果てようと、己が人生を今この瞬間も全力で生きている、そう思うことができる。
 おめき叫ぶ兄の夜叉そのものの顔貌に、最上の方は訣別した義光への悲哀と誇りを覚え、ついに天涯孤独となる政宗への慈愛と謝罪を思い、そして輝宗へ、ようやく会えることだとか、任を果たしきれなかった申し訳なさだとか、そんなものを全て混ぜた感情を抱えて、月を裂くように振り上げられた刀へと顎を上げた。


 来るがいい、死よ。
 わたくしはそれでも、進軍を許さぬ。


 「    ッ!」

 絶叫が、耳を聾した。











 1 / 2 のクラウン! Novanta : the dawn W









 轟音と、視界を貫く閃光が収まると、最上の方の目前には懐かしい背中があった。

 「輝宗、殿…!?」

 鼓膜にはまだ轟音の名残があるらしく、自分の声が遠くから聞こえる。彼女を庇った男は、その呟きを拾ったらしく、ぴくりと筋肉を緊張させ、思わずといった風に左の視線を寄こした。彼の持つ、唯一の視界を。

 「政宗…!」

 若干近付いた己の声は、先ほどよりも大きな驚きに縁取られている。
 いつの間にか父に酷似した長男は、母譲りの美貌にどんな顔をしたものかという困惑を載せ、すぐさま正面を向いて刀を構えた。竜の雷撃によって攻撃の機会を逸した最上軍を油断なく伺いつつ口を開く。

 「Thank you, mother. アンタたちを死なせはしねぇ」

 対応に戸惑いを含みつつも、自信と力に満ちた声だった。表情は見えないが、不敵に微笑んでいるであろう、その顔が想像できた。その微笑は力に溢れ、彼の父が、母が、かくあれかしと望んだものを超えた、晴れやかなものであるはずだ。絶望的な戦況に囲まれているにも関わらず、それは、王者としての輝きを手に入れている。
 最上の方は、全身の力が抜けていくような、大声で泣き笑いしたいような衝動に襲われた。

 「政宗様! おめえら、前へ出ろ! 政宗様をお守りするんだ!」
 「梵、いきなり突出するなんて、何考えてるんだ!」

 家臣たちが後を追い、政宗を中心とした兵団が再び作りあげられる。しかしそれでも、手負いの衆であることに変わりはない。
 政宗は傷だらけの部下を従え、不敵な微笑を刻んだまま叔父を見上げた。

 「よォ、Uncle…顔合わせんのは、初めてだな」

 初対面の義光を、そうと思わせないのは、血縁による造作の相似だろう。例えば目許や鼻などが、己や母と映しとったように似ている。
 義光はありったけの憎悪を込めた目で、彼の甥を見下ろした。皮一枚に情を湧かせられるほど、彼らの間に安穏としたものはない。

 「……すぐに首となろう。敗残の兵で何ができる?」
 「Try doing it as a test? (試してみるか?)……アンタもアンタの民も、無事じゃすまねえぜ」
 「怨敵を殺せるなら、悪くない賭けだ」
 「……sworn enemy(怨敵)……アンタ、ほんとにそれだけで、ここまで来たのか」

 生死の境に立たされている側だというのに、政宗はむしろ、憐れむように義光を見上げた。
 独眼に、義光が映る。その影が、まるでこの世で最も惨めな男のような気がして、義光は気圧されるものを感じた。今、政宗の命は、己が握っているも同然だというのに。

 政宗は平静に話していた。彼の声には、命の瀬戸際の危機感も、昂揚も、命乞いの哀れさも無い。ただ義光の器を測るような、測り終えて失望したような声音に、双方の軍が静かにざわめく。
 小十郎は、成実は、訝しげに主の横顔を窺った。どこか飄々とした印象を受けたことがおかしかった。これまで政宗が、そんな雰囲気を持ったことなどなかったのだ。


 そして、これほど大きく見えたことなど。


 「それなら叔父貴、折角だ。俺とタイマンしねぇかい?」
 「何だと?」
 「アンタが欲しいのは、俺の首だろう? 態々アンタの軍を血濡れにさせることもねえだろう」
 「政宗様!?」
 「黙ってろ、小十郎」

 とんでもないこと、しかしいかにも彼らしいことを言いだした政宗は、反駁する小十郎を押しこめ、手を高く打ち鳴らして義光に挑みかけた。

 「流れるのは、俺か、アンタの血だけだ」
 「………」

 義光は、反射的に罠を疑った。
 しかし、政宗は頭に包帯を巻いたまま、噂に名高い六爪も無く、何より追い立てられて編成もままならない敗残兵だ。罠があるとは考えにくい。
 それならば、この何かをふっ切ったような表情も態度も全て、自棄からきたものに見えなくもない。いや、そうに違いなかった。
 政宗には、最早己の技量以外何もないのだ。しかも、彼は傷つき疲れ果てている。
 思考を放棄した自暴自棄で、最後の賭けに出ているのだろう。義光は嘲笑った。

 「自棄になったか。伊達家の総大将が憐れなことだな。今更、兵を温存する意味もあるまい?」
 「そうでもねえさ。領民たちを俺らの因縁に付き合わせなくてすむ」

 この戦は、結局伊達と最上の意地なのだ。
 否、正しくは、最上の方に弾劾された通り。
 最上義光の、意地だ。

 「………これ以上、無駄な血を流すなと、そう言うのか……?」

 甘い、と、義光の満腔に憎悪が満ちる。口許が引き攣った嘲笑の形に。
 政宗の理屈を、義光が受けとめられるはずがなかった。
 何世代にも亘って、最上は伊達に服従してきた。姉は、人質とも言えぬ形で伊達に捧げられた。最上の、侍としての誇りは、長く長く、伊達によって泥で汚され続けてきた!
 黒く煮詰まった屈辱が、遂に、目前の勝利で遂げられようとしている。
 この、機会を逃せば、これまでの全てこそが無駄になるではないか!

 「無駄な血など、我らが生まれる前から流れておるわ!」

 最早引き返すことなどできない。義光は馬に鞭をくれ、全軍に突撃を呼びかけた。伊達政宗、義光には彼の首しか見えない。呼応した最上軍が走り出すのを背に、義光は迎撃体勢をとる政宗に刀を向ける。
 政宗は一瞬、悲哀と憐れみの混じった眼差しをした。アンタはもう、意地を張り通すだけなのか。俺たちは人間と人間として対峙することはなく、アンタは領民を自分の業に巻き込み、業の為に彼らを殺し、その命を背負って生きてゆくつもりなのか。そんな侍になっちまって、アンタ、それが本望か。
 憐れみは激突の瞬間を前に殺意に代わる。政宗とて死ぬわけにはいかない。

 「「おオォオオオオ!!」」

 幾世代もの怨念が積もった刀が、自由へ向けて空を裂き、


 突如飛来した矢は義光の首を一文字に射通し、弓勢のあまりそのまま首と胴とを別った。
 死を悟る暇も無かったに違いない。










 突然の総大将の死、直後側面から降り注いだ無数の矢と突っ込んできた軍勢に、最上軍は憐れなほどの総崩れとなった。
 呆気にとられたのは一瞬で、すぐさま追撃に移ろうとした伊達軍だったが、連戦の上指揮をとるべき首脳陣が負傷しており、更には得体の知れない軍勢に混じってしまうわけにもいかない。第三者が最上勢を追い散らしていくのを、防御を固めながら見守ることとなった。成実が歯ぎしりしたのは言うまでも無い。
 喚声を上げて遠ざかっていく集団から、騎馬武者が二騎、馬を返してくる。
 小十郎がさりげなく政宗を守る位置に移動し、成実が薄く唇を舐め、夜中だというのに額に手を翳した鬼庭が「おお、奴さんも男前な有様になったもんだなァ」と気楽な声を上げた。
 小柄な方の騎馬武者は、政宗の前に進み出るや、少しぎこちない動作で下馬し臣下の礼を取る。

 「殿、再び御前に参るのが遅れ、申し訳ございません」

 元信だった。
 罅の入った眼鏡、血泥と煤に汚れた顔、おまけに応急手当だろう、ぞんざいに添え木で固定した右腕。
 成実と喧嘩別れしたのち、どう見ても文官の彼には手に余る事態を切り抜けて、援軍を引っ張って来たらしい。
 元信の生真面目な背後に、きびきびとした動作で水色の甲冑が立つ。

 「よォ、元信。Welcome partyが開ける有様じゃなくて悪ィな。………そっちの男は?」
 「北条氏政が弟、氏規にござる」

 戦場に似合わぬ、どこか紳士然とした涼やかさを持った氏規は、三つ鱗の家紋の鎧を跪かせることはなかった。
 血まみれの武者面を付き合わせるような伊達軍にあって、この貴公子然とした男でさえその矜持を折らぬところに、北条らしい誇り高さがある。
 そしてそれは、勝者と敗者、瀕死の軍の将と援軍の将という立場を勘案して、臣下の礼を取らずとも咎められることはあるまいという計算の証左でもあった。
 先の、伊達家が武田家を下した際、裏で糸を引いていた北条家は滅亡している。

 「援軍には礼を言う。だが、亡国の外交官が、何故軍を率いている」

 小十郎の指摘に、氏規は慇懃に目を伏せた。彼の口角は、怒りも屈辱も載せず、品良く上がったままである。

 「我らが貴殿に弓引いたこと、申し訳はいたしません。我らは侍。戦も勝敗も武家の常。―――そして、家名を落とさぬこともまた、武家のさだめであります」

 氏規は懐から、折り目も美しい書状を取り出し、政宗に捧げた。
 一読した政宗は、書状を彼の右目にも披見する。差出人は、氏政とある。

 「先の謀略戦も、俺らの小田原城包囲を生き延びたのも、松永の入れ知恵というわけか? 相模の虎も落ちたもんだな」
 「……口惜しいが真実です、侮辱も甘んじて受けましょうぞ。我らは汚名を雪ぎ、北条の名を次代の氏直様に伝えたい」

 書状の内容は、松永の言を入れ、無用の争いに力を貸した詫び、松永の狙いが奥州の動乱とそれに乗じた最上家、伊達家、北条家に伝来する宝の奪取にあること、そして松永の始末は北条家が刺し違えてでも成し遂げるので、伊達家における北条氏の存続を願い出るものだった。
 書状を回覧した成実が激する。

 「オレらを陥れる手助けしておいて、どの口がほざく!」
 「Wait,成実」

 罪を問い、無碍にすることは―――不可能だ。政宗はたった今、北条軍に救われてしまった。
 伊達家をスケープゴートにする計画を知り得た時から、氏政は、自分たちを高く売りつける方法を考え抜いていたのだろう。最も効果的なのは、追い詰められるであろう政宗を助けることだ。
 窮地にある伊達軍を襲って身を立てるよりも、救って恩を売る。命の恩人を粗末にすることはできない。

 恐らく、伊達家との折衝役だった氏規あたりから元信に相談があったのか、元信から氏規に持ちかけたのか―――どちらにしても、窮地の伊達家と北条家、両方が生き延びるには協調しかなかった。
 だからこそ元信は、殿軍を買って出たのだろう。恐ろしく倍率の高い賭けではあったろうが、おかげで政宗は生き延びた。
 政宗は氏規を、氏規を通して氏政を見定めようとした。生真面目な貴公子は、姿ばかりは飄然と、しかし毅然として、政宗の独眼を受けて立った。

 「OK,気に入った…」

 小さく息を吐いた氏規に、政宗は笑いを含んだ声をかけた。

 「北条のじいさんは大した政治家だぜ。この俺に一択しか寄こさねえ」
 「恐れ入ります。しかし、貴殿の心ひとつで、選択した未来も変わってしまう」
 「勝って兜の緒を締めよ、か?」
 「恐れながら。貴殿は勝者であり我らは敗者。それは変えられませぬ。しかし、できるなら、仲良くやるのが一番です」
 「Ha,しおらしいかと思えば、なんとまあ不穏なこった」
 「無用のことを申しました」
 「Never mind(気にしてねぇよ)」

 仲良くやりたいもんだね、と政宗は嘯いた。北条家の心根は信用できると感じた。武将としての直感に近い。
 北条軍の収拾をつけるべく退出しようとする氏規に、政宗は一つ、問いかけた。

 「氏政公はどこにいる?」
 「………我らの意地を見せに行っていますよ」

 政宗公、と氏規は、細い目を虚空に注いだ。

 「我らは坂東武者です。恥は、我が手で雪ぐ」

 氏規はそう言い残し、馬に鞭をくれて軍を追った。
 熱の過ぎ去った戦場では、小十郎が死体の中から義光を見つけ出し、その体を戸板に載せている。
 その様子を視界に捉えながら、政宗は気負いなく、事実を確認するように呟いた。

 「……やっぱり、俺が天下獲るしかねぇんだな……」

 それがせめてもの追悼になるのなら。
 政宗は瞑目し、糸が切れたように、崩れ落ちた。


 20111123 J 



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