鞘鳴りの音がした。
 小十郎は素早く木立の中に身を隠して様子を窺う。数拍して、目によく馴染んだ青い胴鎧が映る。
 落ち武者狩りなどものともせぬ、あるいは、そのようなものより主を見つける方が先決と思い極めているのか、木立の中で辺りを見回した兵は彼の首領の名を呼んだ。

 「筆頭ォォ! 小十郎様ァ!」
 「ここだ!」

 素早く周囲に目を配った小十郎が半身を晒すと、兵はたちまち半泣きになって駆け寄った。伊達軍は直情径行な兵士が多い。その分短所も多いが、小十郎としては、そんな彼らだからこそかわいい。
 兵たちはスリーマンセルで行動していたらしく、一人は小十郎と、彼の守る政宗を認めると、顔面に喜色と心配を載せて宗時への伝令に走った。
 意識の無い政宗にとりすがる兵士たちに、主の体に障りのないよう扱えと厳命しておいて、小十郎は深く息を吐く。
 緊張の糸が緩んだか、脇腹が激しく痛む。分厚い胴鎧をつけたままでは詳しいことはわからないが、それは異常な痛みと言えた。骨か、臓器か、両方か、どこかがおかしくなっているに違いない。傷からのたうつように押し寄せる不快感に堪らず嘔吐した。胃酸と、血の臭いが鼻をつく。


 驚いた兵たちが裏返った声を上げるのを制止して、更なる波をやり過ごす。政宗が気を遣った今、彼らが頼るのは伊達軍の頭脳ともいうべき小十郎だ。竜の目は、片方だけでも開かねば。傷ついた肩に圧し掛かる責任を気力で背負う。乱れた前髪が散る視界の中、小十郎は政宗に目を移す。彼の率いる竜の体は、この小十郎が守らねば。

 「片倉さん!」

 馬術に長けた宗時が、愛馬から飛び降りて駆け寄った。彼の馬は奥州屈指の荒馬で、宗時以外が近寄ったらば軽く十人は蹴り倒す。しかし今回ばかりは尋常ならざる主の様子を汲んでか、近寄った兵を一人蹄にかけただけで大人しくなった。伊達の兵士は馬に蹴られ続けて強くなる。
 宗時は手早く政宗たちを安全な場所に連れていくと、待ち構えていた軍医が政宗の診察に取りかかった。
 小十郎も診断を受けたが、傷の手当ては己でと断る。軍医は悔しげな顔をした。流石に、医者は兵士のように誤魔化せない。

 「あの崖から落ちるたァ…肝が冷えたっスよ」

 包帯を寄こしながら、宗時は片眉を下げた。その目が、同じ場所にいれば自分もそうしただろうという覚悟を伝えてくる。
 彼は成実と並んで、政宗に心酔している。
 鎧を脱いだ小十郎は鬱血やら裂傷やらに塗り薬を磨り込んだ。筋肉が盛りあがった彼の上体のあちらこちらが紫色に変色している。よくこれで主を背負えたものだと宗時は思った。医者は、動けずともおかしくはなかった、むしろ人一人背負って歩いてきた事実がおかしいとまで言っていたのだ。そこを歩き抜き、兵らの前では平気な顔をしているのはまさに小十郎だからだろう。
 宗時とて政宗への忠誠心の高さは誰にも譲らぬ。けれども、小十郎、命どころか魂さえも捧げつくしているようなこの男には、一歩譲らざるをえないと思う。

 「政宗様の容体は」
 「……全身を強く打ってるっス。大きな怪我は、太腿の傷だけっスが、これも血の脈は逸れてました。片倉さんがきつく縛ってくれたおかげで、出血も少ねぇらしいし。今んとこ命に別条はねぇっス」
 「そうか…」
 「ただ、頭を…脳が、こう、揺れちまったみてェで、しばらくは目ェ覚まされねえって。早く城に帰って、詳しい治療を受けてもらわねぇと…」

 それに、と、宗時は言葉を切る。
 小十郎は特に強く打ったらしい胴にきつくサラシを巻いている。その横顔は主を気遣うばかりで、己の痛みなど眦にも表さない。
 周囲に聞き耳がないのを確認して、宗時は低く言い加えた。

 「片倉さんにも、きっちり治療を受けてもらうっスよ―――…アバラ、折れてんでしょう」
 「………」

 それだけではない。医者は、右腿の骨にも、左手の指にも異常が見受けられると言っていた。背は背で筋を違えているし、肩は脱臼寸前の衝撃を受けていたらしい。「片倉様でなければこんな状態で政宗様をお運びすることなどできなかった」とは医者の言。
 よくも、サラシ一つで平気な顔をしているものだ。普通ならば、痛みに悶えてもおかしくはない傷である。
 宗時に応えるように、小十郎はざんばらな髪の間から彼を見遣った。鳥肌が立つ。

 矜持と忠誠に染め抜かれた修羅の顔。
 圧倒的な凄味を上げた口角に漂わせ、小十郎は言った。

 「オレは政宗様の右目だからな」

 主が前後不覚の間、彼の代わりに軍を背負わねばならないのなら、己の傷などどうということはない。
 小十郎は、己の命を政宗の覇道のために使うのだ。
 宗時の心配はありがたい。しかし、危急の折りには無用の気遣い。政宗が無事に城に帰るまで、痛みがいくら暴れようとも小十郎は指揮を執る。

 それでなければ、小十郎は意味が無い。
 彼は己の期待を梵天丸に押しつけて、政宗を育て上げたのだ。
 その覇道は小十郎が守る。だから、道を逸れるのは許さない。

 政宗が揺れても、小十郎が揺れても、こればかりは変わらなかった。



 言いようのない威圧感が渦巻く空間に、宗時は思わず唾を飲み込んだ。
 同じ家臣として覚悟を抱えてはいても、やはり、自分や成実とは、小十郎はどこか違うのだと肌で感じる。
 彼は、幼いころから主従の傍にいた成実とは違い、その違いが何ものであるかをはっきりと掴むことはなかったが。
 その時である。

 「こ、ここ小十郎様ァ! 宗時様ァ!」

 周囲の探索に出していた兵が慌てふためいて乱入してきた。
 あまりの興奮に、彼は上司たちの間で流れていた空気を感じ取る余裕もない。
 兵は、荒い呼吸を繰り返しながら、真っ青な顔色で報告した。

 「真田です」

 「真田幸村が、街道に陣を敷いています!」











 1 / 2 のクラウン! Settantanove : vassal before dawn T









 生き物が息を潜める雪の中、血潮のごとく赤い軍備はよく目立つ。
 街道を臨む形で整えられた砦には、赤地に六連銭の染め抜かれた真田の軍旗が翻り、倒木の隙間からそれを窺う小十郎に旺盛な生命力を見せつけた。
 本人の気性もあって真田と言えば突撃を連想しがちだが、真田家は城郭造りにおいても優れた技術を有している。茂みに埋もれがちな飾り気のない砦は、即席ではあっても攻略には生半な覚悟で挑めない堅牢さを隠しもしない。
 いつの間にこんなものを、と小十郎は歯噛みした。

 武田が伊達に降ってから、まだ季節は一巡もしていない。
 ひどく落ち込んだ軍事力を回復させるにはまだまだ時間がかかろうと思っていたし、見張りも特段な報告は寄こさなかった。
 いやむしろ、気付けなかったというべきか。

 冬が巡るや、伊達は一揆鎮圧、最上との因縁、松永の介入など、頭を悩ますことが多すぎた。
 更には、まだ以前の支配機構が残っており、統治しやすくまた不審な動きをする余裕も無いと見込んでいた甲斐よりも、北条家が滅び、無政府状態となった小田原一円に注力せざるを得なかったのだ。
 肥大化した王国の隅々まで目を配るには、まだまだ伊達は若かった。
 短期間での拡張であるから、人も整備も追いつかない。
 そんな中で、武田の隠密行動を見落とすのはある意味必然とも言えた。武田には、猿飛佐助が象徴するように堅固な隠密組織も健在なのである。

 もっともそれを言い訳にすることはできない。
 だからこそ、小十郎は悔やんだのである。

 (オレとしたことが…)
 「おい、宗時。真田の軍容はどれくらいかわかるか」
 「斥候を放てるほど、オレらは人数がいねぇっスからね…パっと見になるっスけど、150…多くても300はいねぇでしょう」
 「………。何故、そう思う」
 「だって、ありゃ真田の隠密行動っスよ。街道占拠ってわりには、武田を見張ってる黒脛巾の報告はねぇっス」

 伊達家の隠密組織である黒脛巾は、何代も前から整えられてきた甲賀には一歩劣るものの、優秀な忍び働きをする。彼らは変事があるや、そこが戦場であろうと確実に主の政宗に報告を上げた。
 街道占拠などという大事が起こっているというのに、その彼らから何の知らせも無いということは、武田ではなく真田単体の、それも隠密行動と見るべきである。

 「真田には、猿飛という腕利きの忍がいる。真田の報告を上げようとした奴が殺されていても不思議はねえ、そこを割り引いておけ。―――が、真田の隠密行動ってのには同意だな」

 小十郎はやや意外な思いを抱きながら頷いた。宗時は、騎馬を好むように野戦を愛している。戦場での動物的勘は成実に迫る。
 だが、どうやら宗時には、物事をもう少し深く見る目も培われつつあるようだ。荒馬や荒くれ者たちとの交流ばかりを楽しむこの男を小十郎が見直したのは、そういう理由からだった。
 気にはかけているのだろうが、小十郎の覚悟と部下たちの手前、傷ついた参謀を表だって支えかねている宗時の肩に自然な形で手を置いて、小十郎は声を低く落とした。

 「宗時、お前は真田幸村という男を間近で見たことがあるか?」
 「は? ……いえ、遠目ならあるっスけど」
 「あれはとびきりの戦鬼だ。政宗様が好敵手と認めるほどにな……そして、お前や成実ならわかるだろうが、主に魂を捧げてやがる」

 わかるか、と、小十郎は促した。
 己の立ち位置が普段のそれとはやや変わったことを感じたのだろう、宗時は少し戸惑いながらまっすぐ小十郎を見返した。眼光は鋭い。これだから、伊達軍は恐ろしいのだ。雑然としているようで、その実、思いもよらぬ新芽が飛び出していたりする。新芽は、春の草よりも素早く、貪欲なほどの速度で成長する。

 「真田あるところ、信玄公あり、っスか」
 「正解だ」

 幸村は良くも悪くも純粋だ。例えば松永や、西国の智将が下剋上を成し遂げたように、表と裏の顔を持ってはいない。彼独自の動きというものを考えぬのだ。
 信玄という天才を主として戴き、心酔しているのだからそれも道理だ。そして小十郎が看破したのはそこだ。

 「真田の動きは、信玄公の指示と見ていいだろう。それでなくても武田の軍事力の低下はやすやすと回復できるもんじゃねぇ、真田に勝手な動きができるはずもない…」
 「てことは、仮に真田が自分で街道占拠しようとしても、信玄公が止めるってことっスね」
 「ああ。だが、現実にことは起こっている……今の伊達は手一杯だが、それでも武田独力で刃向かったって良いことはねぇ。うまく独立をもぎ取れても、周辺諸国が黙って回復を見守ってくれるとは思えねえからな」

 それに、武田の内部にも問題がある。
 甲斐は多くの鉱山を有するし、灌漑施設の発展も目覚ましいが、基本的に痩せた土地である。信玄が圧倒的なカリスマのもとうまく束ねてはいるが、国人たちも本来独立志向が強いので、国力の充実を求めるなら自然、他国への侵略に活路を求めるのが宿命と言えた。
 そして、武田家という家にその裁量権がなくなれば、瓦解は避けられまい。武田は独立ではなく、侵略が伴ってこそ成立するのだ。
 侵略の標的になるのは、末端まで掌握しきれていない奥州だろう。しかし、ようよう独立できるだけの未回復な軍事力に、伊達の精鋭は負けはせぬ。

 「宗時、お前の部隊に草はいるか」
 「見張りに残すくらいならなんとか……でも、潜り込ませるのは無理っス。こちらもあちらも、人数が少なすぎる。ほぼ全員顔見知りの部隊に送りこんでも死ぬだけっス」
 「構わねぇ。見張りと、周辺の黒脛巾、伊達方の城に連絡を命じてくれ。そうすれば人数が出る」
 「了解っス」

 宗時が早速部隊の方へ向かおうとしたので、小十郎は一言彼を呼びとめた。

 「それから、決死隊を十名ほど募ってくれ」
 「……は、決死…え?」
 「お前たちは政宗様をお守りしろ。道は―――」

 小十郎は幸村の陣に背を向ける。聞いたことが信じられないとばかりに唖然とする宗時の横に並ぶ。追い越す。体中を苛む痛みなど、まるで無きもののように、彼の動きは気迫に満ちて滑らかだった。
 伸びろ新芽。政宗を支えていけるよう。
 小十郎の眦が猛々しく、往古から受け継がれてきた忠誠心と闘争心で染め抜かれる。


 「道は、オレが拓く」


 20100809 J 



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