死病の罹患者が篭る部屋は暗かった。 感染を引き起こさないため、小十郎の主が移された部屋はいうなれば離れといったもので、蔵でもなければ牢でもない。 広い部屋の東と南は採光のための障子が入り、障子紙を通した日光は淡色の温もりとなって部屋を満たしているはずだった。 しかし、いくら明るくとも、その部屋は確かに暗かった。 それは病魔のせいであったのか。 それとも、梵天丸の心を冒した毒のためか。 死神の腕を脱せども、心に巣食った陰気はやすやすと祓えはしなかった。 梵天丸は、障子を開けることを好まない。それが部屋の鬱屈した陰をますます広げる。 乳母となった姉が手を焼くほどの気性であったのに、なんという変わりようか。 けれどもその変化に首を傾げる者はいない。 障子を開ければ庭が見える。庭には椿が植わっている。その茂みの更に向こうにあるのは、梵天丸の失った光差す庭だ。 子供の世界は狭い。梵天丸にとっては、それこそあの庭の中が世界のほとんど全てと言って良かっただろう。しかし、最早彼がその庭に足を踏み入れることはない。 すすり泣く声を聞いた。 爪を立てられた畳を交換した。 柱の影に蹲った子供の腕を取って引きずり出した。 けれども、どこにも居場所のない子供は呆然と佇むのみだった。 小十郎は、自身を駆り立てたものが何であったのか、幾つもの答えを持っている。 一つは当時の君主夫妻への憤り。 一つは幼い主への憐憫と苛立ち。 彼は主の可能性に気付きつつあったから、いつまでも引きこもり続ける主を憐れと思えど、再起の兆しを心待ちにして、昨日も今日も閉じられる障子に苛立たずにはいられなかった。 思えば小十郎もまた幼かった。 周囲の大人の誹謗中傷を黙殺することは出来たけれども、主への期待も相まって、彼の悲しみの忖度以上に急かす気持ちが大きかった。 『もう、いやだ!』 突如自身を襲った孤独に、梵天丸の出した答えはその一言だ。 家族の中で居場所を失い、嗣子という地位ゆえ向けられる無価値の烙印、過剰な希望。 己で己の回復を図るにはまだまだ彼は脆弱で、頼る手などは見当たらない。 右目から血を滴らせ、梵天丸は小さな体全身で叫んでいた。助けてほしい。寂しい。嗣子でなくただひとりの人の子として助けて、助けて。 貫かれ、刳り抜かざるを得なかった眼球を畳に放り出し、小十郎は泣き喚く子供の頬を張った。 『命は、たった一つしかございませんぞ!』 1 / 2 のクラウン! Settantotto : reminiscer before dawn 目が覚めて最初に知覚したのは、脈打つような脇腹の痛みだった。 呻きながら体を起こすと、陣羽織の上を雪の塊がぱらぱらと落ちる。全身が満遍なく痛み、また寒さのあまり末端の感覚が無かった。 どうやら、落下の衝撃は大概が雪によって緩和されたらしい。軽く頭を振った小十郎は、はっとして周囲を見回した。 「政宗様…!」 少し先の木立から、青い具足が覗いている。 厚く降り積もった雪を踏みぬきながら、小十郎は必死で主の下へ駆け寄った。低木に引っかかった政宗は手足をだらりと投げ出し、爆風のためかところどころ火傷をこしらえた顔は人形のようで、唇は紫色だ。至近距離の鉄砲でさえ通さぬ硬度を誇る鎧に守られ、重要な臓器の集う胴は一見無事であったが、太腿を枝に貫かれたのか溢れた血が周囲の雪に染みている。 生きた心地もしなかった。 腿は、太い血の管が通っているのだ。血を流しすぎれば命も危うい。 小十郎は急いで羽織を裂き止血をする。寒さが幸いし、出血は予想したより酷くはない。 口許に手を当てて呼吸の有無を確認し、小十郎は安堵のため息を吐いた。 迂闊な診断はできないが、とりあえず政宗は生きている。 周囲を見渡した小十郎は、崖から落ちる寸前のことを考慮して現在位置を推測した。 松永軍の落ち武者狩りが頭をかすめたが、長く留まる方が松永には利が少ないことを考え、ひとまずその危険性は高くはなかろうと結論付ける。 ならば、出来得る限り早く伊達軍と合流したい。成実と元信は対最上戦線に置いてきた。今ここに展開しているのは宗時か、と出陣にあたって敷いた布陣を思い返して進むべき方角を決める。 「政宗様、しばし我慢を」 意識の無い主君に断り、ぐったりした体を背負って歩きだす。細身とはいえ、青年の体はそれなりの重量でもって小十郎の体を苛んだ。強かに打ったのだろう脇腹が痛い。小十郎とて、崖から落ちているのである。 脂汗を滲ませながら進む。邪魔なので兜を脱がせたため、政宗の髪が時折小十郎の頬をくすぐった。 (…、こんな、ときに……) 予断を許さない、緊迫した状況であったが、小十郎にはふと湧き出た懐古感を留めることは叶わなかった。 幼い政宗を、こんな風にして背負ったことが何度もある。 遊び疲れて眠った子供の体温を、抜け殻のような子供の軽さを、背中で着物を握り締めた手の小ささを、今もはっきりと思いだせる。 失明したばかりの頃、ふらりと何処へか抜け出した梵天丸を探した夜更け、離れに連れ戻される子供は小十郎の背で声を殺して泣いた。 『天下を獲る』 そんな、弱虫の子供が、途方もない野望を口に乗せたのは右目が空洞になってからだ。 凝っと己が失った椿の向こう側の庭を見つめる子供が、本当は天下など欲していないことは百も承知だった。 梵天丸はただ、あの庭に、もう一度戻りたかっただけだった。 そのために、父母に己を認めてもらうために、戦国武将であれば当然抱くであろう野望を我もと倣ったに過ぎない。 (俺は利己的な人間だ。ああそうとも、松永、テメェの言う通り、俺は汚い) 子供の浅慮などお見通しだった。その上で、小十郎は梵天丸に忠誠を誓い、少年の退路を断ったのだ。 小十郎は、主の覇道が見たかった。 深く息を吸い、肺が雪の匂いで満たされる。 しなやかな筋肉をまとった政宗の腕がだらりと揺れる。それを複雑な思いで見た。この腕は、小十郎が育て上げたのだ。 あの頃の政宗は本当に不安定で、小十郎は覇道をこれ幸いと、政宗に孤独を飼いならさせた。 子供は孤独で死ぬけれど、王は孤独と共に生きるのだ。 そんな風にして、政宗はできあがった。だから小十郎だけは、今の政宗を否定してはならない。 (俺は、この方を王にすると決めたとき、この方の臣下になろうと決めたのだ) 事実政宗は理想的な君主だった。 小十郎が惑っている間も、彼は君主であり続けた。 けれども、 『ッ!』 力なく項垂れる娘の立ち、政宗は丸腰にも関わらず松永の爆撃から彼女を庇った。 政宗が初対面の娘をして道化師の名を呼んだのは置いておくにしても、それは著しく君主の行動からは外れていよう。 だが、炎の前に立ちふさがった政宗の形相に迷いは無かった。 まるで普通の青年のように、 まるで魂から突き動かされたように、 どういうわけかその一瞬、政宗の顔貌はまさに竜を思わせた。 (この、お方は…) 王であるのか、それとも青年に戻ろうとしているのか。 今更、ただの人になどはさせぬ。 しかしあの一瞬、王の仮面をかなぐり捨てた政宗は、まさに竜であったのだ。 |
20100629 J |
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