伊達藤次郎政宗。 元服の儀に臨み、青年に差しかかろうという横顔には武士らしい精悍さがあった。 慣れぬ加冠姿には初々しさが漂いはするが、それはむしろ清々しい若竹を思わせて、少年の頼りなさとは無縁である。 溜息の出るような若武者振りに、義姫は無表情の裏で大きく心を震わせていた。 よかった。よく、ここまで大きくなった。 声には出せぬ祝福に政宗が気付くことは無かったが、流石に輝宗には気付かれたらしく、肩に回された手が労わりの意を伝えてくる。 最上に限らず反伊達勢力の中心となった義姫と、家中、領外の反伊達勢力とのバランスに苦慮する輝宗とは、長い間息を吐く暇もない共犯関係にあった。 夫婦二人で、領外の勢力だけではなく、家中のものまでも騙し続けてきたのである。 義姫が敵を誘導する中、輝宗は味方と敵とを巧みに操りなだめすかして、父植宗在世時よりも広大な領国を実現させた。 義姫が反伊達勢力を身辺に集中させては策略を未然に防いだため、後継ぎたる政宗は他家からの余計な干渉を受けずに成長している。 おかげで現在は、陰謀の勢力図が明確に色分けできており、いつでも正確に敵を殲滅できる。 政宗の元服も成って一段落。不安定要素がほぼなくなった今こそ、最後の仕上げを―――敵勢力の排斥に乗り出す時だった。 「まだ気を抜いてはなりませぬぞ。百里の道は、九十九里でも半ばと思わねばなりませぬ」 「ああ、心得ているさ。―――だが、今は、政宗の成長を祝おう」 良い家庭環境であったとは言い難い。それを承知で夫婦は二手に別れたが、何も知らされず突然母に敵視された政宗に、二人の覚悟も真情もわかりはすまい。それでいいとは思っているが、申し訳なかったとも思う。政宗が二人に向ける視線に温かみは無い。彼を育てたのは両親ではなく伊達家なのだ。政宗の帰る場所は親子の炉辺ではなく、家臣たちの輪の中である。 「小十郎の存在はありがたかったな」 「ほんに」 誰にも、何も漏らしてなかった。だが、何も知らない小十郎は、自然と親に代わって政宗を導いてくれた。自然発生的な得難い従者に向ける二人の感謝に底は無い。 「義。全てが終わったら、雪見をして暮らそうか」 「まだ気が早いかと」 「計画だけ語っておこうと思ってな。ことが片付いたら、多少の面倒はあろうが政宗は竺丸を受け入れるだろう。政宗は本当に大きく育った。頭の回りも素晴らしく良い。そうしたら、きっと兄弟仲良くなって、おれたちの元には近寄るまい」 「わかりませぬぞ。それに、竺丸の気性なら、時宗丸と馬が合うやもしれませぬ。竺丸は甘えたなところがございます。時宗丸は、年下の子を構いたがるらしいですから」 「そうなのか?」 「時宗丸は政宗の弟分ゆえ、自分も可愛がる弟分が欲しいようです」 「そうか、それはいい!」 次の世代が伸びやかに育つのを見ながら、穏やかに二人で老いていこう。春には桜、冬には椿、季節を越えながら語り合って、いつかの未来には、息子たちの子供をこの手に抱くのだ。泣き喚く梵天丸に戸惑っていた義姫も、今ではすっかり赤子の抱き方を心得た。孫たちをあやして、そしてゆるやかに死んでいくのだ。 1 / 2 のクラウン! Settantasette : the last thing in the Pandora’s box 久方ぶりの冷気が肌を刺した。 いつきは軽く身を震わせて己を掻き抱く。最北端で生まれ育ったいつきだが、ここしばらくは軟禁状態で何日も外の空気に触れてはいなかった。襖一枚隔てるだけで、空気とはかくも表情を変えるのか。 が目を潰した侍に連れられて部屋を出たいつきたちは、粗末な荷車に乗せられた。何に使うものか、葛籠やら壺やらの積載された荷車は狭いことこの上なかったが、文句など言える立場ではない。いつきたちが手足を縮こめるや、荷車にはむしろがかけられた。粗いむしろの目の間から、奥州の冷気が忍びこむ。 「童、寒いかえ」 「は…だ、大丈夫ですだっ!」 かけられた労りに、いつきは大仰なほどの反応を示す。 それはそうだ。一部屋に押し込められ、寝食を共にしたといえど、いつきと最上の方の間には本来なら雲泥の身分の差があるのだ。 松永に散々苦杯をなめさせられている最上の方だが、いつきからすれば、ただの女として慟哭する最上の方でさえ己と同等に見ることはできない。この時代の身分の差というものは刷り込みにも似ていて、天守閣に登るような一族はいつきなどの地下人にとって竹取物語の天人と同種なのである。見たら目が潰れるとか、神通力を持っているとか、そういった俗説が神妙に語られているのだ。 いつきはそんな天人の一人、領主たる政宗に反旗を翻した娘であるから、それらの俗説を頭から信じているわけではないが、それでも最上の方に村の農婦たちに向けるのと同種の感情を向けることはできなかった。畏怖とでもいうのだろうか。とにかく生きる世界が違うのだと、そんな印象を拭い去ることはできない。 (まして、オラは…オラは、蒼いお侍を…) 最上の方の息子を、殺そうとしたのだ。 お互い、隔意なく接することができるかといえば、否と言わざるを得ない。 実際最上の方は、労りの声をかけこそすれいつきを正視することはない。憎まれているのだろう、といつきは思う。仕方のないことだ。 「キリエの傍らにとりついておれ」 「え…」 「離れておるよりは暖がとれよう。温もりながら、キリエの面倒を見ておやり」 「は、はいっ」 言われるままに、いつきはキリエの傍に寄った。投げ出された手を取ってみる。細かな傷の多い掌は力なくいつきの手の中に垂れ、その主を見上げていつきはやりきれない悲しみを覚えた。キリエの瞳は茫と開かれるままで、どんな意思も宿ってはいない。あの男に壊された。最上の方の悔恨はいつきには理解が及ばなかったが、触れれば切れそうなほど生気に溢れていたキリエから根こそぎ心を奪っていったのが松永だということは理解できた。今のキリエは、手を引かれれば歩くし、食事も排泄も行うが、そのほとんどが自発ではない。まさに、生ける屍という言葉が相応しい。 「キリエねえちゃん…」 いつきはこみ上げてくる涙を我慢した。鼻がつんとして、眉間が引き攣る。いつきに泣く資格などはない。キリエの心を壊したのは松永だが、いつきは政宗に毒を盛ることで彼の手伝いをしたのだ。いつきも共犯なのだ。松永と二人して、キリエの心を削った。同情などおこがましい。ここにいる三人の女たちの中で、自分だけは自業自得だ。 鼻をすする。どれだけ詫びてももう遅い。詫びたところで、キリエにはもう届かない。いつきは許されないことを知りながら、喉にこみ上げた謝罪を吐きださずにはいられなくなった。申し訳ごぜぇませんでした、呟いた涙声が、差し向かいに座る最上の方に届かないはずが無い。 落ち着きのない様子でむしろの隙間から外を窺っていた最上の方がこちらを向いた。涙よ、出るな。オラに泣くことはできない。 「こうなったの、は、オラのせいだ…!」 ころり。厚顔にも、堪え切れなかった涙の粒が頬を滑る。そうなったら、止まらなかった。 いつきは聞き入れられるはずのない詫び言を繰った。同じことを何回も言った気がする。政宗に背いた、それが間違っていたと認めるわけではないが、今となっては胸を張って正しかったとも言い難い。いつきは、結局のところ自分のことばかりだった。小さな世界の中で、欲しいものだけに囲まれて、皆に頭を撫で続けて貰いたかったのだ。お前は偉い子だねと。自分勝手な願いのせいで、いつきは周囲に死と不幸を振り撒いた。 幼子の細い肩には大きすぎる重荷を背負ってしまったいつきの言葉を、最上の方は遮ることもなく聞いていたが、 「オラが死ねば―――いっそ、オラが死ねばお方様たちがたすか」 「黙りゃ」 いつきのその一言は、鋭いまでの烈しさで制された。 ようやく口を開いた最上の方は、驚いたいつきを息子によく似た瞳で射抜く。すくんだ童の眉尻にも容赦はせず、彼女の舌鋒は子供用の甘やかしを持たなかった。 「其方もわかっておるようだが、ああその通り、其方がしたことは決して許されぬ」 わたくしが許さぬとは言えない。最上の方とて同じ穴の貉だ。否、いつきよりももっと酷い。 わたくしに、政宗の母を主張する権利などないのだ。 「だが、其方を裁くのはわたくしでも、まして松永でもない。其方は政宗に裁かれる。この奥州の国法に照らして裁かれる。それまでは、其方の死はいかなるものであってもわたくしが許さぬ」 「心せよ。わたくしが、其方たちを守ってみせる」 言い切り、最上の方は再び視線を外へと転じた。きつく眇められた目元には疲労と責任感が漂っている。深窓育ちの姫君にできることなど、農民とはいえ一軍を率いたいつきに比べてもたかが知れようが、彼女の纏う緊張感は無駄と切り捨てるには真剣だった。何かできることがあるはずだ、と、最上の方は全霊でもって考え続けている。 (まだわたくしに人質の価値があるうちに) 泣き虫な農民娘は気付いていまい。伊達領を出た途端、最上の方の価値など路傍の石に転落する。伊達と最上の軍勢が追いついてきた時のための保険が不要になるからだ。そうなれば、足の遅い女子供など弄ぼうが切って捨てようが問題は無い。が常の状態であったなら、小賢しく回転する頭をフル活用してどうにか脱出を果たすだろうが、今のには何が起こっているのかすらもわかるまい。生きる気力があること自体疑わしいのだ。 限りなく絶望的ではあるが、全ては最上の方の双肩にかかっていた。例え、何をすればいいかさえわからなくとも。 「なして…」 全身を張り詰めさせる最上の方に、いつきは疑問を抱かずにはいられなかった。 何故、こんな自分を守るなどと言うのだ。 いつきは憎むべき暗殺者で、汚らしい農民だ。貴人が決死の形相を浮かべて助ける相手ではない。捨てれば済むのだ。簡単だろう。農民に、いつきに価値などは無いのだ。 最上の方は苛立たしげに答えた。 「何を、わかりきったことを問う。其方は、わたくしたちの国の民よ」 支配者階級の者として生まれ育った最上の方にとって、それは考える以前の答えだった。骨まで染みついた、と言ってもいい。 農民も、商人も、もちろん武士も、彼女らに仕え、彼女らを守る者たちは、同時に彼女らが支え、守っていく者たちなのだ。謀反が起こるのは心得違いやこの双方向のバランスが崩れた場合。最上の方も参加した謀反は、崩れたバランスが積み重なり、ねじれた思惑が絡み合った末だ。基本的な社会構造が壊れたわけではない。最上の方は、受け継がれた支配理論の中で生きている。 その言葉はいつきにとって衝撃だった。 地を這って生きてきたいつきにとって、最上の方の育ちの良さからくる発言は、侍は搾取するだけだという思い込みを揺さぶるのに十分だった。 最上の方は気高かった。己の心を押し殺してさえ、上に立つ者として民を守る責任を全うしようとしていた。 いつきはその姿に蒼い侍を見出す。領主として上に立つ政宗は、最大多数の最大幸福を叶えることが責務である。彼の采配は、時にマイノリティに苦渋を呑ませる。弾圧される側だったいつきにそれを許すことはできないが、それが彼らに課せられた生き方であることに息を飲んだ。 為さねばならないことを為す。 民を守る。 最上の方も政宗も、それを魂に刻みつけているのだ。 「ありが…とう、ごぜ、ます…」 頬を伝う涙の筋は、冷気にさらされてすぐに冷える。それでも、いつきは、温かいものが溢れていると感じていた。 いつきの嬉し涙の意味を察することのできない最上の方は、困惑気味に彼女を見ていたが、やがて視線を外して彼女の為すべきことに戻った。涙は、いつきが自分で拭くだろう。最上の方はそこまで優しくなれるわけではない。彼女はただ支配する側であり、支配者としての責任や愛情と一人の人間としてのそれは違うのだ。一人の人間として、最上の方はいつきを慰めてやろうとは思わない。誰にでも手を差し伸べるほど甘くはない。 最上の方が視線を戻した隙間からは、ただ延々と雪景色が広がるばかりだった。 冬の奥州はどこでも似たような景色であるが、それにしても、ちらほらと緑が目に映るようになってきた。どうやら雪が薄くなっているらしい。そういえば、そろそろ冬を脱する頃だ。米沢から南へ下ればそれだけ春も近くなる。しかしそれが意味することは、最上の方にとっては最悪だった。伊達領から抜けてしまうまであとどれほどか。早く、早く脱出の機会を見つけなければ。 気持ちばかりが急く中、荷車が急に停止した。何やら言い争う―――というより、誰かが一方的にわめく声が聞こえる。誰だ。しわがれた声だ。聞くうち、それが老人のものであることに気付いた。 「全く、近頃の若いもんは礼儀というものを知らん!」 声高に下らない愚痴を撒き散らしながら、老人の声は荷車に近寄り、最上の方の視界を馬の腹が覆った。紫の具足に使い込まれた鐙。そっとむしろを持ち上げると、品の良い髭を蓄えた老顔が彼女を見下ろしていた。 慌ててむしろを下げようとした最上の方を目で制し、老人は四方へ怒鳴り散らす。 「儂を誰だと思うておる! 若造の見張りなどいらんわい。北条家代々のご先祖様の名にかけて、この北条氏政、逃げも隠れもせんわ!」 癇癪を爆発させる老人に辟易したのか、松永の声が何かを命じ、氏政の得意気かつ威厳のない笑い声と共に隊列が再び動き始めた。 一体何が起こっているのか、困惑するばかりの最上の方に、荷車の隣に並んだ氏政の低い声が届く。 「伊達家先代の奥方とお見受けいたす」 「い、いかにも…わたくしは伊達輝宗が妻、義と申す」 「拙者は北条氏政。安心なされよ―――お味方でござる」 氏政は顔を正面に向けたまま、器用にも視線だけを送って寄こした。 最上の方の肌が粟立った。氏政の目は、老いたりとはいえ武将のそれである。己の目が包む厳しさが彼女を怯えさせたことを知ってか知らずか、氏政はふと目元を優しげに弛め、彼女にとって最も幸いであろう情報を教えた。 「貴女の息子は、生きておりますぞ」 |
元服とか相続とかめちゃくちゃな年齢操作になってます。 史実的には数え年10歳で元服…まじか… 100428 J |
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