潜伏している館に帰った松永は武装を解くと、裏庭に引き入れられた荷車を見に行った。 荷車には火薬を包んでいた油紙が散乱していて、薄く雪の積もったその上に、か細い手足が投げ出されている。 手足の先を辿ると、肉付きの薄い体に行き当たった。娘はたまに細い呼吸音をもらすばかりで声も立てない。 肌身に触れるものが雪なのか、紙なのか、それとも誰かの指なのか、その知覚すら放棄した娘の瞳は、それこそ墨で描かれた人形の瞳に等しかった。 松永が鎖を引くと、娘は抵抗なく荷車から転げ落ちた。しかし彼女に落ちた自覚など無いだろう。呆けた表情は現を投げ出した人のそれで、彼女の意識が最早枯れ果ててしまったことは容易に見て取れた。 ふん、と松永は息を吐く。 「つまらんね」 娘は反応を示さない。彼女の時は、あの崖で止まっているのだろう。 そのあとの移動とすら呼べない、それこそ輸送とでもいうべき扱いも、その過程で暴行を尽くしていったいくつもの雑兵の手も、彼女は知覚していないに違いなかった。 「卿には、本当に欺瞞以外なかったらしい」 薄汚れた娘を引き寄せ、薄く開かれた口を軽く吸った。嗜虐心に根差した快感を覚えはしたが、それよりも圧倒的な虚しさが胸に染みた。 娘は今を生きていない。彼女の時は崖で止まった。 それは、彼女が最早この上のいかなる出来事も受け付けないということか。 松永は娘の薄い腹に触れた。 「私の子を産んでみるかね?」 娘は反応を示さない。声など聞こえていないのだろう。 「なに、情など無くとも子は生まれる。卿が私になびくなど期待していないよ。しかし私は、卿に穏やかな時間を与えようではないか。卿は、ぬくもりの中で子を育てれば良い。我が子の重みというのは、悪くないものらしいぞ? 殊に、女にとっては。義姫を見たらわかるだろう。愛らしい幼児の声で、少しずつ、卿の凍傷を癒すと良い」 返事など求めていない、松永は思いつくままに未来を子宮の上に描いてみる。 松永は楽しそうに、―――その未来を、引き裂いた。 「そうして卿が笑顔を見せるようになったら、憎むべき男の血を引いた子供の腹を割いてあげよう」 幼い血潮は、娘が再び手にした幸せの総仕上げだ。気の遠くなるような悲嘆の中で、彼女は竜を過去に閉じ込めてしまったことに気付かされる。連綿と受け継がれてきた女の本能のもたらした幸福を、貪欲なまでに食い漁っていたことを思い知らせてやる。夢想するだに笑みが零れた。変化しないものなどありえない。竜を慕っていた頃の自分を忘れて、愛の対象を変化させたことに愕然とするがいい。恥知らずにも変わってしまったくせに、変わらぬと思っていた己の厚顔を知れ。 悪意を塗り固めたような松永の言葉だったが、娘が反応を示すことは無い。 嘲笑を浮かべていた松永の瞳から、ふいに一切の色が消える。残ったのは、いわば、憐憫とでもいうものだけだ。 「つまらんね」 そう言って松永は、娘への興味の全てを失った。 おぞましいほどの呪詛を塗り込めた言葉をは聞いてなどいなかった。 何故なら、の時は止まっているのだ。 夏の樹海から、あるいはもっとずっと昔から、既にの時は止まり続けていた。 死んだしあわせの中に留まり続け、嘘が壊れないように殻を設けて補強をし、水の淀みに似た停滞の中で生きてきた。 けれどもその殻は、いつの間にか触れれば融けるほどに薄く頼りない膜となり、静かに傍らを掠めるぬくもりを感じられるようになっていた。 ためらいがちなぬくもりは、少しずつ膜の中に浸透し、そうとわからぬうちに冷たい水を押し出して、膜の中を満たしてしまった。 それがあまりに心地よいものだから、強情を張って知らないふりをしたのだ。冷水に慣れた体には、ぬくもりは居心地が悪かったから。 それなのに、完全に手放すには惜しすぎた。 『明日は今日より幸せだと、まだ信じられるかね?』 明日を信じる力はまだあるか、と松永は聞いた。に過去を、しあわせという殻を捨てることはできるかと。 しかし、が愕然としたのは、捨ててしまっていたことに気付いたからだ。 いつの間にか。 蒼い背中に明日を見ていた。 隻眼の奥に、扉を見ていた。 虫の声も、濃い緑の匂いも、銀色の輝きも、身近にあったそれらは黄ばんでいた。 身勝手なことだ。 結局のところ、は七年前に留まることなどできないのだ。 そしてその身勝手さの手を引いたのは政宗で、彼はそんなを、居丈高なくせにどこか子供の安心を含んだ笑顔で迎えただろう。 どれだけ望んでも人は変わる。望みはやがて変わるものだから。 だがそれも、雪影と硝煙の向こうに消えた。 強情を張って、そのくせさもしく手を伸ばし続けたままだったから、せっかく膜が破れたのにの欲しかったものは、 ぜんぶぜんぶ、砕けた。 1 / 2 のクラウン! Settantasei : precious in the dark 我が子の少年期を、義姫は生垣の向こう側から見ていた。 輝宗の選んだ傅役や小姓に囲まれて、大病など嘘のように健やかに育っている。 義姫は、楽しそうに竹刀を振る梵天丸の姿を目に焼き付けると、人に見つかる前に踵を返した。 呼びかけることはできない。 彼女と梵天丸の間には溝があるのだ。 否。 彼女はわざと溝を作ったのだ。 歓声に背を向けて廊下を進むと、梵天丸よりも更に幼い声が響いてくる。次男の竺丸だ。母の姿を認めた竺丸は、屈託のない笑顔を振りまいて一直線に義姫のもとへ走り寄った。 だっこをねだる竺丸に応えてやりながら(最近では中々に重労働だ)、義姫はぽつりと呟いた。 「竺丸にも、そろそろ供を与えねばならぬな」 「では、最上に文を送りまする」 追いついてきた乳母が間髪をいれず応えた。義姫は無言で首肯する。梵天丸には輝宗自らが供から師から差配を振るい、最上の色をつける隙もなく伊達の者で囲ってしまった。だからこそ、義姫と梵天丸が不和な今、最上の者は彼女と竺丸を囲みつつある。義姫が、梵天丸から最上の者を遠ざけるために、わざと隔たったとも知らないで。 大名と、他の大名家から嫁いできた女の間に生まれた子の教育は大切だ。 三つ子の魂百まで、教育如何で女の実家の浮沈にも関わる。だから最上家は、できるだけ最上寄りの子供が伊達家の当主になるよう画策する。梵天丸に手が出せないのなら竺丸に。そして最上の者に囲まれた竺丸が成長した暁には、彼が伊達家の当主になるように―――。 竺丸を抱く手に力がこもる。梵天丸の警護は大丈夫だ、と輝宗は言った。どんな時でも、どんな場所にも、梵天丸を守るための忍が潜んでいる。しかし裏を返せば、警護の必要があるということだった。 そして梵天丸をつけ狙う輩は、義姫に梵天丸の讒言をしてはすり寄って、竺丸の歓心を引こうとするのである。 『殿、お願いがございます』 『義―――なんだ、そんな思いつめた顔をして』 『時が来たら……わたくしごと、最上を滅ぼしてください』 わたくしは竺丸を餌にします。 梵天丸を守るために。 反伊達勢力―――特に最大派閥にして最も危険な最上氏は、間違いなく竺丸を利用しようとする。 それならば逆にこちらが利用してやる。竺丸を担ごうとしたものはことごとく、我と共に地獄へと沈めよう。 梵天丸に手出しはさせぬ。 もちろん竺丸も、我が身にかえて守り通そう。 全ての責めはわたくしが負う。 我が子らよ、わたくしがお前たちにしてやれる、これが唯一のこと。 お前たちの春秋に争いの種を残しはせぬ。我が身を火として燃やしつくそう。 輝宗は茫然と義姫の覚悟を聞き、それがゆるぎないものと知ると、泣き出しそうな顔をした。 ああ、情けない。そんな顔をしてはいけない。貴方は伊達家の当主でわたくしの夫。わたくしは貴方の妻になりたいのだ。伊達家の人間になりたいのだ。だから―――だから、実家を滅ぼそうと決めたのに。 刀の握り方を知る男の手が、義姫の細い手を取った。 悲愴な覚悟を載せた手を包み、輝宗は言う。 『小さい手だ』 『最上者の手です』 『おれの妻の手だ。もう、最上のものではない』 義、呼びかけた輝宗の声は低く、しっかりとしていて、義姫はふとこの男を夫とできた僥倖を思った。 『二人で守ろう。おれたちの子らを。お前だけにはさせぬ。おれはずっと、お前を守りたいんだ』 ―――耳の奥に輝宗の言葉が響く。 あの自信の無い男は、己の言葉が、思いやりが、どれほど義姫を救っているかわかってはいないだろう。 いつかわかってくれる日がくればいいのだが、と思い、それがわかる日は最上家の城が焼きつくされたあとだろうと思い直す。 義姫は侍女たちに聞こえぬように、竺丸に囁いた。 「早う大きくなれ」 そしてわたくしを告発して。 そうすればお前は無事でいられる。 いつか、遠い冬の朝、また家族で雪見ができるよう。修羅の道を歩みながら、自分の最期を描きながら、それは不思議と辿りつける夢に思えた。 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。 松永が館を発ってからというもの、焦がれるような不安と怒りで神経が張り詰め続けていたからか、最上の方は満足な睡眠など取っていなかったのだ。 屋敷の奥に籠められている最上の方だが、人馬の響きが空気をざわめかしているのが感じられた。これが昔の夢を破ったらしい。 帰って来たのか、と、最上の方の足から力が抜けた。松永が帰って来たということは、政宗は。 生きた心地もしない時が過ぎ、やがて、最上の方といつきが軟禁されている部屋の戸が滑る。そこにはやはり松永が立っていて、ひどく薄汚れた娘がその後ろに佇んでいた。キリエねえちゃん、といつきが叫ぶ。 「松永…」 「姫、いきなりで悪いが、出立の準備をしてくれますかな。ここに用はなくなった」 最上の方の顔から血の気が引いた。奥州に用が無くなった―――政宗は、敗けたのだ。 旅には足手まといとなる女の最上の方を連れて行こうとするのは、伊達・最上双方への人質であろう。ということは、もうここには戻ってこないということであり、脱出した先で面倒を避けるため殺される公算も高い。しかしそれは、最上の方にとってあくまで些細なことだった。政宗の敗北に比べれば。敗北とは死と同義である。それが乱世の常識だった。 愕然とした最上の方を傲然と見下して、松永は機嫌よく踵を返す。 左手に握っていた鎖を放りだすや、いつきが奪うように先端を捕えた。松永への警戒か、はたまた長く共に囚われているせいか、彼女は最上の方たちに連帯意識を感じているらしい。 労りを載せたいつきの手にいざなわれてきたの足取りはまるで頼りなく、最上の方は新たな衝撃を受けた。 「松永、貴様、キリエに何をした!」 「……何も?」 戸を閉める直前、松永はいたぶるような声音で答えた。 「私は彼女に何もしていないよ。彼女はただ見ていただけだ―――独眼竜が、崖下へと落ちていくのを」 常のように、比喩を用いない文章は、明解極まりないからこそ凶器だった。 表情を失った最上の方に、松永が冷酷な助言をする。 「詳しいことは彼女に聞くと良い。一部始終を見知っているよ」 聞けるはずがない。松永の言葉が本当ならば、は政宗の死を見て、心を壊すほどの衝撃を受けてしまっているのだ。 それをほじくりかえすような真似など、できようはずもない。 そしてまた、最上の方に、それを正視する気力があるとも思えなかった。 松永の去った部屋には、三人の女が残される。 一人は現を離れて沈み込み、一人は戸惑い、一人は混乱と絶望で茫然としている。 出立が、近い。 |
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