「政宗様、ここはこの小十郎にお任せを」 圧縮された竜の怒気が大気を険悪に痺れさせている。耳に届くぱりぱりという不穏な音は、松永にも聞こえていることだろう。 一息ごとに深度を増す怒気を真正面から受けて小揺るぎもしないのは、彼の胆力が相当のものであるのか、あるいは、いくら竜の怒りが激しくともそこに憎悪が伴わないと見抜かれているのか。 松永ににじり寄りながら、小十郎の頭はこの場から逃げる算段をしている。 一軍を率いる大将が、なんの仕掛けもなく脅迫の場に立つわけがない。 血気に逸る若者ならばいざ知らず、松永ほどの男が、この断崖に囲まれた場に脱出の仕掛けを施していないとは考えられなかった。 大将は生きていればこそ。 この最奥の断崖は一見隔離された空間だが、生き延びることを念頭に置けば、小十郎たちが背にする氷穴の出口のみが外界と繋がる術であるとは考えにくい。 小十郎ならば、この断崖におびき寄せた敵を退路もなく置き去りにし、自分のみが助かる仕掛けを施すだろう。 だからこそ、小十郎は逃げ道を探って忙しく思考を塗り重ねた。 伊達家家臣筆頭たる小十郎が重視すべきは松永の打倒でも捕虜の奪回でもなく、政宗の安全である。 (最悪、捕虜の救出などできなくていい。この場に連れ込まれただけで後手後手なんだ) 斥候は死ぬことすら任務のうち。そう言った成実は正しい。小十郎とて同じ認識だ。 しかし重要なのは、政宗が実際に救出に向かったという事実だ。 仄めかされた捕虜には最上の方がいた。この場にいなくとも、彼女の名前と救出しようとした事実は外交的な価値を持つ。 人質救出の成果などに大した意味はない。彼らが全員死んでも、その事実をもとに兵の士気を誘導するだけだ。もちろん、黒幕を最上義光とした上で。 (松永久秀が生きようが死のうが知ったことじゃねぇ。刀が欲しけりゃくれてやる) もちろん、簡単にやる気はないが。 六爪は所詮刀である。失くしても打ちなおせばいい。いくら名刀といえど刀は所詮消耗品、現在の六爪とて何代目か知れぬ。 日本刀というのは素晴らしい切れ味を誇るが、その用途ゆえいつまでも使い続けることはできない。 人の脂は刀の切れ味を鈍くするし、動き回る人間を切ればどれほど腕が良くとも刀身にかかる衝撃や荷重は避けられず、刀は徐々に曲がってしまう。骨になど当たったら目も当てられない。 刀と刀が鍔競りあえば刃毀れするのもまた自明の理だった。 松永を斃すことに固執しても意味が無い。ここに来ただけで、十分な収穫はあるのだ。 ましてや松永の領土は遥か遠く大和である。 隣接する大名ならばいざ知らず、松永を殺して飛び地を領有したとしても大和近辺の勢力(例えば織田の魔王や豊臣)に攻め込まれるのは火を見るよりも明らかだ。防衛に兵を注ぐなど愚の骨頂でしかない。領土は、相応の利益があるからこそ奪い、守るものなのだ。 「卿らは、何を怒っているのかね?」 「分からねぇとは…テメエは芥以下だ…!」 道化芝居のように、心にもない台詞を吐きながら、小十郎は己が刀を振りかぶる。 松永は皮肉な笑みを消しもしない。卿らと纏められながら、その実、彼は別々に語りかけているようだった。 鍔元で競り合い、接近したのをいいことに、松永は小十郎だけに聞こえるよう落とした声量で語りかけた。 「私はこれと決めた物は、すぐに欲しい性分でね。あまり焦らさないでくれないか」 声の小ささが、お前の思考は見抜いていると告げている。卿の打算的な思考を知られたくはないだろう。 迫る太刀のような直刃を弾き返して、小十郎は鼻を鳴らした。何を今更。小十郎は保身など考えもしないのに。 「何か、勘違いしているようだが」 松永は舞でも舞うかのように優雅な足運びをし、そして、鋭利な刃先を斥候を戒める縄へと向けた。彼の足場を繋ぎとめる命綱ではなく。 刃を少し動かせば、悲鳴をあげる斥候を解放もできようし刺し殺すこともできるはずだ。 「奇妙なこともあるものだ。卿らは本当に、彼らを助けたいのかね? 教えてくれ、独眼竜とその右目。私は嘘を見破るのが苦手なんだ」 小十郎の思考が暴露されれば。 むしろ、人質は死んでくれた方がありがたい。見捨てられたと知った彼らが政宗の負のイメージを発信すれば、元も子もなくなってしまうのだ。 人質を殺すことは、小十郎にとって脅迫にならないと承知している松永は、だからこそ命綱ではなく人質の体そのものに刃を添わせた。 「何を、わかりきったことを」 「小十郎様ァ!」 斥候たちには幸せな誤解を招くように、松永には斥候の無価値と取引の不成立が伝わるように返答する。 松永は残念そうに「そうかね」と呟くと、容赦なく斥候を縄ごと斬った。 「ぎゃっああああぁぁぁ」 噴き出した血の糸を引き、バランスを崩した斥候が崖下へと吸い込まれていく。 他の斥候たちがあげる恐怖の叫びを聞き流し、松永は血濡れた死刑台に新たな人質を引きずり出した。 「………ッ!」 首輪に喉を締め付けられた娘が頼りない足場に蹴り込まれる。 滑り落ちそうになった彼女が慌てて死刑台にしがみつくのと同時、松永は鎖の先を小刀で柱に縫いとめた。 見知らぬ娘の災難に、しかし小十郎は眉をひそめる。斥候が娘にかわったところでどうだというのだ。 だが、それは政宗にとっては違ったらしい。 「ッ、松永ァ!」 咆哮が響き、小十郎が思いもしなかった激しさで竜の爪が薙ぎ払われた。刀の軌跡はさながら稲光のように攻撃的という他ない。そこに怒気を通り越した、明らかな殺意を見てとって、小十郎は戦慄を覚えた。 鍛えられた筋肉の全力を尽くして、抜き放たれた六爪全てが松永を食い千切ろうと凶悪に唸る。 さすがに松永の嘲笑も凍りついている。獣よりも凶暴な衝動に燃える鳶色の瞳は爛々と輝き、その濁りのない若い目には獲物のひきつった顔が映っていた。 「……ああ、驚いた、驚いた。どうやら卿は、そこの右目よりずっと清らかな男らしい」 顔には出さないように気を配りながら、小十郎は主の変調に驚愕を覚えずにはいられなかった。 困惑する。政宗は、それこそ支配者のお手本で、その理想的な生き方から外れたことはなかった。 損得計算抜きで誰かのための感情を爆発させることなど論外。政宗はそういう生き方を自らに課し、一挙手に至るまで染み込ませていたはずだった。 本来あるべきわがままも揺らぎも押さえつけ、三日月のように張り詰めて、細く尖った政宗。 病からの生還と引き換えに、ぽつんと一人、輪から外れた政宗は、輪の中に戻ろうとそれこそ必死で「望まれたかたち」をなぞった。 父に、母に望まれた、強く凛然と孤独に立つ王。 小十郎はそれをそそのかしたも同然だ。だからこそ、斥候のためか娘のためか、激しく憤る政宗に違和を感じずにはいられない。 覚悟を新たにするため、いらぬと切り捨てた感情が政宗の姿を喜んでいる。 新たに決めた覚悟が、政宗の姿を非難している。政宗は一人でいいと。満たされないままだからこそ、政宗は強大な筆頭たりえるのだから。 さて困った。じりじりと間合いを測りながら、松永は呟いた。政宗の全身から発散される殺気は濃度を増し、松永の背筋に冷たい汗が伝う。 正直、ここまでの圧力は予想していなかった。 政宗は松永の半分も生きぬ若造だというのに、さすが竜と呼ばれるだけの男だった。 松永はちらりとを見遣る。この小娘や最上の方を通して見た、迷いの多い若者の刃先に、しかし躊躇いは微塵もない。 何か答えを得たか―――だが、それならば。 松永の口唇が釣り上がる。主に気押された小十郎が、気を取り直すように刀を持ち直したのを目の端にして、松永は制止の声をあげた。 「おっと。それ以上動かないでもらおうか」 かちゃり。手の中で、愛用の宝刀が小さな音を立てる。 今にもとびかかろうとしていた政宗の動きが凍り、代わりとばかりに周囲を圧する殺気が膨れ上がる。 しかしいくら膨れたところで所詮気配。殺気程度では松永の害にはならない。 松永の宝刀は、太刀造り。普通の日本刀よりも長く、両刃の直刀。 その刃は今、を縫いとめた柱の命綱に沿っている。 少し手首を動かせば、柱諸共娘の小さな体は雪景色に吸い込まれて消えるだろう。 要求は、言葉にされるまでもなかった。 政宗が噛みしめた奥歯が鳴る。小十郎は勝ち誇る松永に斬りかかろうかと思ったが、彼の間合いは松永の身まで一歩届かない。突進してきた政宗が、小十郎と松永の間にわりこんでいるのだ。 小十郎は、柱の根元に座り込んだまま呆けている娘に、苛立ちを載せて怒鳴った。 「娘、テメェも助かりたかったら、自力で小刀くらい抜け!」 いくら女の非力といえど、この三竦み状態なら松永の妨害も入るまい。 彼女は小十郎の怒鳴り声に身を震わせ、今気付いたとでも言いたげに鈍く首をもたげた。苛立ちが募る。政宗が危険を冒しているのに、彼女は助かりたいと思わないのだろうか! は雪雲を背景に、自身を繋ぐ鎖を縫い止めた刃を見る。よく手入れされた刃は、しかし光源がないため輝きも鈍い。 のろのろと首を巡らせて、命綱を切ろうとする宝刀と、対峙する政宗を光のない目に映す。 松永がいたぶるように言葉を寄こした。 「卿の好きなようにしたまえ」 「おい、娘!」 伊達主従と対峙して、松永にの動きを制限する余裕はないのだろう。 そう思ったのに、反しては指一本動かさなかった。 (鈴虫の声が聞こえる) むせかえるような、夏の終わる匂い。 崖下から吹きあげる寒風に手足の感覚を奪われながら、は凍えるような岩肌に葉の影を見る。 光が零れていた。まるで天国への道のように、重なり繁った葉の間から差し込んだ美しい陽光。 (なんだ、ここは、あの場所だ) もう一度、俺はここへ来たんだね。長いこと待たせてごめんなさい。 きっとずっと戻りたかった。戻らなければならなかった。やり直して、俺はきっと、今度こそ。 懐かしい声が囁く。その手に細いナイフを握って。 行きましょう、。 「待て!」 膠着を破ったのは一声だった。焼けるような怒りで喉さえ燃え立つようだと思ったのに、声を出してみれば簡単だった。 抜刀した六爪を鞘に収め、紐を解いて地面に投げ出す。ガシャリ。遣い手を失った刀は重い鋼の音を鳴らして沈黙する。 「くれてやる」 刺し貫くような瞳に闘志を燃え滾らせたまま、政宗は怒りを呑んで言葉を絞った。 斥候たちが悲鳴じみた制止の声をあげるが、それにはどこか安堵の色がある。やはり自分の命が惜しいか、松永は倦んだ人のように心の片隅で蔑んだ。 「ふふ……ふははははは! やあ、見事見事」 松永は手を打って哄笑した。 無気力に座り込むに、上機嫌で話しかける。 「卿は、本当に愛されているようだ。ごらん、独眼竜は、卿に明日を与えようとしている」 びくりとの肩が揺れる。 もう逃がしはしない。誤魔化してもやらない。独眼竜からその爪を貰ったように、卿からは卿の持つ唯一のものを貰おう。松永はうっそりと嗤う。 「私に聞かせておくれ。―――明日は今日より幸せだと、まだ信じられるかね?」 赤ん坊の腹を割くようにそっと。 小さな内臓を潰すように優しく。 の目が零れんばかりに見開かれる。蒼白な顔に、震える手。まだ幸せを信じられるか。過去を越えて、未来に幸せを見つける気力は、まだあるか。 卿の持つ唯一のもの。卿の欺瞞をこそ、私は貰おう。 「独眼竜。卿は全くもって清らかな男だ」 残念だね。卿の清らかさは、この不幸な子供を救えなかった。 そしてきっと、卿自身も。 「実に救い難い……いやはや……」 松永は、惨めな捨て犬のような子供を見下ろした。 しあわせに固執した女。嘘で塗り固めたしあわせを永遠と嘯いて、誰にも奪うことなどできぬと高をくくっていた愚か者。 口角をあげて、松永は見苦しいものを処分するように刀を振り上げる。 「ッ!」 丸腰のくせに、刀の軌道に蒼い鎧が飛び込んでくる。 まるで予期していたかのように、松永は一瞬の躊躇もなく政宗の正面で指を鳴らした。 この世には永遠などありはせぬ。 「全くだ!」 轟音! その瞬間は、陳腐なことだがまさにスローモーションのようだった。 至近距離で爆発した凶悪な熱と光が、凄まじい衝撃と共に頬を焼く。 の目前を覆った背中が無ければ、いくらクラウンとはいえ不安定な足場から落下していたのは間違いない。 蒼い陣羽織の裾を激しく揺らして、蒼い影は見開かれたの視界をゆっくりと移動したように見えた。 空中に投げ出された政宗を追った視線が一瞬絡む。 ひとつっきりの鋭い視線が、彼の守りきった子供の視線と見合わさって、 ふと、柔らかく和んだ。 まさむね、まさむねとうわ言のように繰り返す。声は耳に届かない。爆音で鼓膜がやられたらしい。 眼下に広がる雪景色は、の呟きなど掻き消してしまうかのように平静だった。たった今、墜ちた竜を呑みこんだことさえ知らぬ顔で平静だった。 いや。 いやだ。 マサムネ。 1 / 2 のクラウン! Settantacinque : lunatic in the dark 「いやだああぁあッ!」 |
新年おめでとうございます(台無しじゃねぇか) 100113 J |
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