灯のない部屋に踏み入った輝宗は、暗色の空気が孕む重苦しさを察して眉を寄せた。 片目と引き換えではあったが梵天丸が死病から回復してからというもの、城はどこもかしこも安堵と歓喜が満ち溢れている。賄い場の女中たちなど、梵天丸の食事を作るたびに泣き出しているという。若様がお元気になられて本当に良かった。 しかし、この部屋の暗さときたらどうだ。 まるで死人が出たような―――梵天丸が死んでしまったならこうであったろうと思うような暗さだ。ずん、と圧し掛かってくるのは、悲しみとか絶望とか、そんな言葉で表わされる感情。 「義」 輝宗は部屋の主の名を呼んだ。 彼が贈った深縹の打掛は無造作に畳に広がって、差し込んだ僅かな光に銀糸の模様を瞬かせている。皺になるだろうな、と輝宗は思った。 姿勢を正すことも、裾に気を配ることもなく、呆然と座り込む妻を彼は初めて見る。 梵天丸を相手に慌てている時でさえ、彼女のどこか凛然とした空気は損なわれていなかったのに、輝宗を一顧だにしない後ろ姿はまるで糸が切れた操り人形のように頼りなかった。輝宗を押しのけてまで息子に寄り添おうとした強さなどどこにも無い。 畳を摺るように進んで、輝宗は義姫の傍らにしゃがむ。 知らない女の顔だった。 白椿と称えた潔癖な美は、憔悴と失望の影に沈んだ。 投げ出された手を握る。火の気のない部屋に長くいたからか、細い指は冷たく、乾燥していた。 義姫は言う。離縁してください。 「わたくしは、貴方の妻になれない。あの子の、母になれない」 「貴女は申し分のない妻で、母親だ」 「違う!」 わたくしは駄目、わたくしなどでは駄目。 何が最上の義姫だ。わたくしなどより、そこらの百姓女の方がずっと出来た人間だ。義姫は叫ぶように訴える。崩れた美貌の上を、大粒の涙がほとほとと零れた。気性の烈しい義姫が、別人のような激しさで、輝宗の胸を叩いた。わたくしは貴方に相応しくない。あの子のために何もできない。 義姫は、美しくも素晴らしくもなかったのだ。さあ、とくと見よ! 彼の女はこんなにも醜く、みじめに泣くのだ! 義姫は理解していた。頬を伝う涙が心底嫌だった。沸騰する絶望だとか悲しみだとかを、軽蔑と共に唾棄したかった。 何故なら、彼女が泣くのは、とどのつまり彼女自身のためで、夫のためでも息子のためでもなかったのだ。 自分の価値を見失って途方に暮れた。縋ってきた梵天丸を恐れて拒絶した。それが、「母」にもなれないことを知らしめた。 輝宗の賛辞に自分を縛っていたなど言い訳に過ぎない。義姫は自分だけしか見ていなかった。自分の価値を追い求めて、ついにその全てを自分で拒絶したことを知る。 今更傷ついたところで見苦しい。 自分を憐れむような涙など枯れてしまえばいいのに、次から次へと溢れて止まらない。しゃくりあげる義姫の乱れた髪を、輝宗が撫でた。優しい温度だった。八つ当たりをしていた拳が解かれ、いつの間にか抱きこまれていることを知る。慣れた匂いのする胸に、義姫は顔を埋めて泣いた。不相応なぬくもりだった。 嗚呼、嗚呼。 わたくしは、この男とあの子を愛したかった。 心の底から愛したかった。 自責と後悔に駆られて子供のように泣く義姫のしゃくり声を聞いて、輝宗もまた、後悔に駆られていた。 この人をここまで追い詰めた責任の一端は、輝宗にもある。 強い人だ、美しい人だと褒められる度、彼女はどんな心地がしただろう。 輝宗はあの時の己の感想が間違っていたとは思わない。しかし、それが彼女の糸をきりきりと張り詰めさせていったことは確かだろう。 (これだからおれは、駄目な男なのだ) もしこれが、父の植宗であったなら。あるいは、輝宗に植宗や義姫のような知性が少しでも備わっていたなら、この愛おしい人はこんなにも傷だらけになることはなかったかもしれない。 己はこれだからいけないのだ。大切なことばかり失敗する。 大切で大切で、心から愛おしかった家族さえも守りきれない。おれがもう少し利口だったなら。輝宗は奥歯を噛みしめる。 どこから間違ったのだろう。梵天丸を義姫の手から遠ざけた? 凛とした態度を失わぬ義姫に敬愛を表したくて白椿を贈った? ―――その強さを美しいと、思った? 温かく煌めいていた家族の軌跡が、そのまま刃を返して彼らを追い詰めたのか。 梵天丸は、と輝宗は考える。梵天丸は大丈夫だろうか。気付く。良かれと思って与えた環境が、親子の間に膜となっている。溝となる日も遠くあるまい。いや、あるいは既に。 この手で裂いた幸せを思って、輝宗は義姫を抱く力を強くした。 1/ 2 のクラウン! Settantuno : family in the dark 人差し指の尖端を布で一拭きするだけで、赤色は簡単に消え去った。 しかし爪の間、指紋の間にこびりつく鉄錆臭さは消えない。触れた瞬間の、粘つく温かさの感触も。 表情筋を忘れたように、一切の感情を取りこぼしたはじっと自分の両手を眺める。 この手が最初にナイフを肉に埋めたのは十二のときだ。赤い手袋をはめたように真っ赤に染まった彼の手の下で、めった刺しにされた母が末期の息をした。 あいしてる、と微笑んで。 だから俺は大丈夫だ、とは呟く。Stai bene. 俺は誰にも傷つけられない。 俺はあいされているんだから。 あいされている俺はしあわせだから。 おかあさんが死んで、あいもしあわせも完結したから、もう誰にも俺のしあわせを奪えない。 何故って、それは最早の中にしかないのだ。何年も前に終わったあいを覆すことはできない。 だからは平気なのだ。 蔑まれようが、犯されようが、人を殺させられようが―――どんな悪意にさらされても、宝物は自分の中にあるから、は傷ついたりしない。 瞼を下ろす。 最上兵の最期を、それで全て忘れた。 俺は人でなし? だからどうした。 俺には、おかあさんとのしあわせさえあればいい。 例えその記憶が、俺の妄想であったとしても。 「キリエ…! 其方、其方、」 目を開けると、最上の方が柳眉を痛ましいほど下げて顔を覗きこんでくる。言葉を続けようとして何度も思いとどまり、歯切れの悪い音をいくつも並べている。 近くに松永たちはいない。松永はあの後、すっかり憔悴した最上の方を部屋まで送り届けると何処へか去った。普段と変わらず余裕綽々とした口角の釣り上り具合だったが、彼の周囲に詰める武士たちのものものしい緊張を感じ取ったは、戦が近いのかな、と推測していた。ターゲットは十中八九伊達家だ。そうでなければ最上の方を手中にし、に利用価値を見出すはずが無い。 最上の方は凛と上げていた顎を落とし、「すまぬ」と、そう何度も繰り返した。肩の線が細い。まるで、隠していた彼女の無力さをさらけ出しているようだ。 「すまぬ、キリエ、本当にすまぬ」 「いいですよ、そんな気にしなくて」 「わたくしのせいじゃ」 血の咎に苦しむのはわたくしのはずだったのに。わたくしのせいで、其方に人殺しをさせてしまった。無用の苦悩を背負わせてしまった。 は本当に気にしていないのだが(人殺しなど今更である)、最上の方にとってはそうではないのだろう。 たかが道化師に額づいた最上の方の蒼白な頬を涙が伝っていく。ああ綺麗だなと思って、 そうして無性に、腹が立った。最上の方が、心底から謝るから。 「謝らないでください」 声は、思ったよりも平坦だった。ぽつりと落ちた呟きだった。けれども、それまでの制止とは根本的な温度が違う。 温度差に気付いた最上の方が顔を上げる。彼女は心から申し訳なく思っている。を心配している。 まるで、かつての児童相談所の相談員のように。閉じた世界のしあわせの正体を、善意で暴こうとした彼ら。は真実など求めていなかったから、善意の手は敵の手だった。敵とみなした相手には容赦をしない。事実、彼は6年、相談員を遠ざけ続けた。 しかしあの頃と今では事情が違う。 が固執するのは相変わらずおかあさんとのしあわせだったし、可哀想な彼を救うために差し伸べられる手よりも幸不幸をじないままの距離を好むところも相変わらずだが、それでも優しさをそれと認識できるようになってしまった。 は泣きそうに眉を下げる。自嘲するような表情。俺はいつの間に憐れみを受け流せなくなったのだろう。 「まるで、俺が傷ついてるみたいだ」 俺は平気なのに、傷ついたりなんかしないのに。 はしあわせで満たされているはずなのに、最上の方は彼に謝る、可哀想だと言い立てる。 「しあわせなんです。しあわせなはずなんです。だから傷つかないんです。それなのに謝られると、まるでしあわせなんかじゃないみたいだ」 最上の方からすればこの期に及んでしあわせだなどという自己認識は神経を疑う以外の何物でもないが、にとってはそれが最後の砦なのだ。 自分がしあわせだと信じていたから、その身に起こる全てのことに鈍感でいられた。 前提が崩れてしまったら、今まで取り合わずに目を逸らしてきた全ての痛みと向き合わなければならない。 すすり泣く母に虐待されていた四季、母を殺しその腐りかけた肉を食べた秋、イタリアの裏路地で玩具のように扱われた夜、松永の甘い香に付き纏われながら心臓を抉った薄暗がり。 避けていたそれらを乗り越えるなんてきっと無理だ。 は倦んだように息を吐いた。願う。 「しあわせなままで、いさせて」 ―――けれども心は小さく呟く。 もう一度、無事で良かったと髪を撫でて、と。 |
ストックホルム症候群ってあるけど、 あれって正にだよなあって思います 090927 J |
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