わたくしにできることは何。わたくしにしかできないことは。
 それが、常に義姫の思考にある。



 椿は、その年も美しく咲いた。
 凛と白くも、雪に滲まぬ美しさを輝宗はことのほか愛で、義姫とて悪い気はしなかった。
 そのせいか、いつの頃からか、雪が降った次の早朝に襖を明け放ち、椿を眺めるのが習慣となった。
 五つの歳を数えるようになった梵天丸は既に傅役や乳母、将来の側近たる小姓たちに囲まれて輝宗によって整えられた英才教育を受けていて、義姫たちの手元にはなかったが、この時ばかりは輝宗に手を引かれ、眠い目をこすりながら母の部屋を訪うのだった。
 引き離されていても親子の情は通うのか、梵天丸は義姫によくなついた。
 腹を痛めて生んだ子である。義姫も、そんな梵天丸が愛おしくないはずがない。
 雪の降る夜は、梵天丸の小姓が彼の伝言を持ってくる。「母上、明日は晴れますか」。晴れたら親子三人で椿を眺める。まだ短い足をぶらぶらさせて、縁側から雪のちらつく空を見上げる我が子の姿を想像しては、義姫の胸はほのぼのと温かくなるのだった。

 けれども、時折、氷柱から落ちた滴のような思いがよぎる。
 (わたくしは最上の女ではなかったか)
 最上の女なれば、強力な次期伊達家当主へと成長しようとする梵天丸を慈しむなどもってのほかだ。次期伊達家当主は、親最上でなければならない。例え父がそれを望まなくとも、義光が、あるいは彼の子が、連綿と継いでいく最上家のために。最上の女たる義姫にしかできないことを、しなければならない。
 (そのためにわたくしは、伊達の女になどならぬ)
 わたくしは最上のため。最上のために。
 傅役たちの目を盗んで母の庭に入り込んだ梵天丸を叱責し(勉強はどうしたのです!)、しょげた丸い頬を撫で小さな手を取って、お前は未来を拓いていくのだからと諭すその温かな充実を、心のどこかが否定する。

 ここはとても居心地が良い。
 夫の隣で眠り、息子を愛し、その充実感たるやまさしく幸せと言い切れる。
 嗚呼、けれども、わたくしは伊達の女ではない。わたくしは最上の女。最上の女であらねばならない。
 だって、わたくしにしかできないことは、伊達家の中で最上として生きることにあるのだから…。
 夫の首に指を添わせ、息子の成長を厭い、ぬるま湯へ押し流されそうな自己を律する。
 わたくしは、最上家の義。

 

 梵天丸が高熱を発したのは夜だった。
 またもや庭に忍びこんだ梵天丸が、母に見つかることを期待して椿に隠れていたのを、義姫が黙殺した夜だった。
 伊達家の不幸と、喜べるわけもなかった。

 「疱瘡…!?」

 幼い梵天丸に取りついた病魔は死神だった。この時代、疱瘡すなわち天然痘の治療法は確立しておらず、発病はすなわち死であった。
 ふらり、足から力が抜けた。底無しの淵に陥るような感覚。足が地についている気がしない。倒れそうになった義姫を支えた輝宗も、常のお気楽顔を青く引き締めている。
 大丈夫、きっと助かる。あの子は強い子だから。医者に手を尽くすよう言った、祈祷師をかき集めた。あの子は万海上人の生まれ変わりだから、きっと守ってもらえる。梵天丸は死なない。輝宗自身、自分に言い聞かせるような慰めだった。
 ああ、ああ、義姫は震える手で顔を覆い、意味を成さない声を上げる。

 「わた、わたくしの、わたくしのせいです」

 あの子が椿の影にいたのに気付いていた。部屋に上げて、かじかんだ手を温めてあげていれば。
 母親のように――わたくしはあの子の母親なのに!――風邪を引いてはならぬと気遣ってやっていれば。

 わたくしは、最上家の義。

 何が最上家だろうか! 義姫のちっぽけな意地のせいで、梵天丸は死神に捕えられようとしている!
 義姫は輝宗の手を支えに、力の入らない足を一歩、前に出す。

 「どこへ行く」
 「決まっておりましょう」

 梵天丸のところです。義姫の方が倒れそうな蒼白な顔をしている。
 義姫の答えに輝宗は一瞬瞠目して、彼女を支える手に力を込めた。進路を遮られる。

 「義、それはできん」
 「何故です」
 「貴女はおれの正室だから」

 万が一梵天丸が死んでしまったら、輝宗と義姫はもう一度後継ぎたる男子を作らなければならない。義姫を疱瘡で喪うわけにはいかない。
 冷酷な答えに、義姫はカッと夫の頬を打った。梵天丸を見捨てるのか。輝宗は避けずに、真っ向から受け止める。

 「言いたいことは、わかる。おれだって、梵のところに行きたくないと思うか?」

 満身が火照り、義姫は怒りに震えた。輝宗の言いたいことはわかる。彼らは上に立つ者として生を享けた。下流階級のように衣食住の心配をしなくて良いけれども、彼らにも果たすべき責務は多い。その一つが家を繋いでいくことだ。義姫も、輝宗も、それを口惜しいほどにわかっている。彼らも所詮歯車なのだ。彼らは頂点などではない。社会に頂点は存在しない。社会という大きな有機物は、小さな小さな歯車たちの集合体だ。それが綺麗な着物を着ていようと野良着を着ていようと、歯車であることに変わりは無い。
 輝宗が堪えるように歯を食いしばる。普段穏やかな夫の、殺気すら漂う姿を義姫は初めて目撃し、対象の無いその憎悪を恐れた。
 けれども、止められるものか。
 今度は自分の足で、輝宗の腕を離れて歩き出した義姫を輝宗が制止する。義姫は止まらない。

 「……部屋には入りませぬ。が、息子に寄り添わせていただく」

 梵天丸。これが母にできる精一杯。情けないな。
 強い決意の滲んだ声は、泣きだす寸前のように上擦っていた。輝宗はもう止めなかった。感激したとでも言うように情けなく顔を崩して、慌てて義姫の隣に並ぶ。支えにと差し出した手を義姫が拒むものだから、業を煮やしたか突如彼は妻を抱き上げた。こちらの方が早いとばかりに、義姫を抱いたまま廊下を走る。足で開けられた障子の何枚かに穴が開いた。

 (梵天丸)

 生き残れ…!
 義姫は、一心にそれを願った。





 願いが天に通じたか、梵天丸は死病を生き延びた。
 その知らせを夫婦は息子と襖一枚隔てた部屋で受けたが、張り詰めていた糸が切れたか義姫はその場で気絶した。意識が暗くなる瞬間、歓喜やら驚愕やらで右往左往する輝宗のやかましい声が耳に残った。
 義姫はまだ、梵天丸に会っていない。
 完全に回復するまでは会えぬということか。母が我が子に会うことさえ彼らの立場ではままならない。よく頑張ったと、早くその頭を撫でてやりたいのに。

 毒が回って、右目から光が消えたことは聞いている。
 それを聞いた瞬間、冷や水を浴びせられたような心地がした。しかしすぐに命があるだけでもと思い直し、義姫は震える声で侍医たちをねぎらった。
 嗚呼、早く、梵天丸に会いたい。
 右目の不幸を彼が嘆く前に、お前が生きていただけで母は嬉しいと、そう伝え、
 ―――まるで伊達の女のように。

 わたくしにしかできないことは、と、胸に降り積もった澱がゆらりと揺れる。

 輝宗に絆されたか(まるでただの女のように)
 息子への情に溺れたか(まるでただの母のように)
 それでは最上の義でなくとも構わないではないか。わたくしでなくとも。誰にでもできること。わたくしにしかできないことは?

 (いいや、いいや、梵天丸はわたくしの子。輝宗殿と、わたくしの子)
 (わたくしは最上、伊達家の嫁)
 (わたくしにしかできないこと)
 (わたくしにしかできないことは)

 輝宗と梵天丸に囲まれ、義姫はまさに幸せだった。
 けれども幸せと認めるには、彼女の自尊心が収まらない。わたくしにしかできないことは、と、悲鳴を上げる。わたくしの、存在理由は!
 脳裏を父が、義光が、最上の風景が回る。輝宗が、梵天丸が、伊達の風景が回る。その中で義姫はどこにいるのか。水で薄められた紅のようにどこにもいない…!
 わたくしは、わたくしは誰。誰!


 気付けば椿の傍らに立っていた。輝宗から贈られた木。貴女に似ていると彼は笑った。凛と、媚を知らぬ貴女は美しいと。―――貴女は最上であるのだと。
 口にこそ出さないが、輝宗は伊達に染まらぬ義姫を愛しているのだった。皮肉なことだ。もし彼が、染まらぬ義姫に敬愛を贈らなければ、彼女は早々に伊達の中で微笑めたかもしれない。

 きゅ、と、雪を踏む音がした。
 義姫は弾かれたように振り返る。

 「母上」

 小さな手が縋るようにのびていた。
 病を抜けたばかりの、まだ寝巻のままの幼い子。
 義姫の息子。伊達の次期棟梁。



 あれほど生きてほしいと願っていた。



 焦がれるようにのばされた手に悲鳴を上げた。よるな。寄るな!
 わたくしは違う。わたくしは、最上でも伊達でもない。義だ。最上義守の娘で、伊達輝宗の妻で、梵天丸の母で、ああでも私は義なのだ。何もできない、何にもなれない義でしかないのだ…!
 何もできないただの女、それが、わたくし。
 わたくしには何もできない。
 お前のために、何もしてやることができない。与えられるべきものは、全て輝宗が手配してしまった。
 お前は伊達の次期当主、自分の足で歩いていく子。わたくしみたいに自分が何者であるかも見つけられず、流されていく人間ではなく。
 ああ、

 怖い。
 のばされた手が。
 何もできないわたくしに、何を求めるというの。


 「こんなもの、わたくしの子ではない…!」


 手が、凍りついたように止まった。

 わたくしは、今、



 わたくしは今、何を言った?











 1/ 2 のクラウン! Settanta : Macbeth in the dark W









 凍りついたように地下牢の空気は動かない。最上、伊達、両軍の縋るような眼差しを受けて、最上の方は細かく震える。握らされた短刀が冷え冷えと重い。
 刃の向く先を選ぶのは彼女だった。松永は急かすでもなく、最早口を噤んでそれを見守っている。
 「敵」を決めるのは、最上の方にしかできないこと。

 与えられた存在証明はあまりにも惨かった。
 いや、伊達家身中の虫として、小次郎を擁立し政宗に害を成し続けてきた彼女は、既に彼女にしかできないことを成し続けてきたのだろう。今更騒ぎ立てたところで、唯一を祈願しもがいてきた軌跡の醜悪さは誤魔化しようもない。
 最上の方が選ぶべき敵は決まっていた。

 (ああ、でも!)

 思い知らされる。突き付けられる。
 震える刃の先を青い軍装に向けることを、最上の方の全霊が拒否している。彼女自身が害し続けてきた青なのに。

 何者も動かない沈黙の中に、吐く息ばかりがゆらゆらと漂う。
 ふと。
 最上の方の後ろにあった影が、吐息をふわりと揺らした。

 とん、と、軽い衝撃。
 流れるような仕草で、最上の方の前に小柄な体が躍り出た。
 いつの間にか掌から短刀の重さが消えていることに気付いたのは、全てが終わったあと。



 ぐず、と、生々しい音がする。



 一拍遅れて上がった悲鳴が、の行動を教えた。
 まるで恋人の胸に飛び込むような格好の背を、最上の方は呆然と見る。
 松永配下に抵抗を封じられた最上兵は、身投げされた体と体重をかけた刃を左胸に受け止めて、ああ、ああと意味の無さない声を上げる。血と共に力が抜けるのか、足ががくがくと震え始めた。

 「キ、リエ」
 「ごめん、オカタサマ」

 「死にたくはないんだ」
 そのためなら簡単に敵を選べるんだ。殺せるんだ。
 そうやって生きてきたから。
 おかあさんすら、この手にかけて。

 は苦悩も、悲しみも浮かべたりしなかった。彼は血に濡れることを厭っていない。
 本当は、最上の方の選択を邪魔するべきではないとわかっていた。
 松永が期待しているのは最上の方の苦悩だろうから、が割り込むことは完全な慮外である。
 (放っておいても、オカタサマはモガミを刺しただろう)
 わかっていた。けれども、その後に、最上の方はどんな顔をするだろう。今までの自分を否定して、その白い手を赤く汚して。
 (女性の嘆く顔を見たくない)
 普段ならそんな感傷はあっさり切り捨てただろう。は保身のためなら誰が傷つこうが気にしない。
 それでも、彼女の手から短刀を盗んだのは何故だろうか。

 (羨ましいんだ。羨ましいままで、いてほしいんだ)

 最上の方と政宗には。
 ずるいと思わないはずがない。けれども、壊そうとは思わない。最上の方と政宗は、の喪った未来をやり直すことができるのだから。
 そのためなら、今更泥を被るくらい。

 真白に微笑んだおかあさん。
 寂しさと諦めを混ぜて笑う政宗。
 ナイフを手に、躊躇いなく振り上げたおかあさん。
 短刀を手に、震えて息をつめた最上の方。


 ねえ、政宗。
 お前は愛されて良かったねぇ。
 おかあさんはお父さんを選んで俺を捨てたけど、オカタサマはお前を捨てなかったよ。


 無表情に短刀を引き抜こうとするの手を、骨ばった大きな手が包んだ。
 (きた)
 は鋭く睨み上げる。乱入したところで、この男は別の愉しみ方を見出すだけだということくらい読めている。
 果たして予想通り、松永は見下すような目で慈しむように嘲笑ってみせた。声音がねっとりと優しい。

 「卿の出る幕ではなかったのだがね」
 「キセージジツってやつだよ」
 最上兵の意識は消えかかっている。
 松永はどうしようもないと言いたげに息を吐いた。
 「仕方あるまい。こうなっては、苦しまぬように逝かせてやるのが手向けだろう。―――こう、やるのだよ」 
 が最も苦しみの少ない位置を的確に刺し貫いていたのをわかっていて、松永は手に力を込める。

 刃は、抉るように円を描き、

 断末魔の絶叫が耳をつんざいた。石垣の間にまで染みるような、苦痛に満ちた最期の一声だった。
 兵の首が力なく垂れたのを見、松永がゆっくりと手を離す。は暫く呆然と、柄を握ったままだった。
 深々と死体に埋まった刃から、赤く血が伝ってくる。

 「う、わ、」

 指先に温かな粘液が触れた。思わず離した指先に血の滴。刀は兵の体から抜けず、代わりに、ぽたりと血が落ちる音がする。

 「うわぁっ!」

 思わず叫んだ。手が、肉を抉る感触を覚えている。
 幾つも命を奪っておいて今更だ。けれども、わざと痛めつける殺し方なんて、知っているはずがない。
 いつきがひきつった悲鳴を上げた。最上の方が床に崩れ落ちる。
 麻痺したように唇を震わせたに、松永がそっと囁いた。


 「ご苦労だったね」


 伊達家は幸せになれたのに、なれなかった家族のイメージで書いてます
 090913 J

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