幸村はよく熱血バカと評される。
 それは言いえて妙であるし、彼の特徴をよく捕らえた表現だ。
 しかし幸村はただのバカではない。
 武田の有力武将、真田の当主、そしてそれ以前に17歳の青少年だ。
 確かに人に比べると単純な思考回路はしているが、戦略を練ることも( 一応は )できるし、世知だってある程度備えている。ずるいところだってあるし、そんな自分が許せない少年らしい潔癖さも持っている。
 青臭い諸々で悩まされることだってあるのだ。

 「……っは!」

 まだ浅い夏の夜の中で、幸村は寝具を跳ね上げた。
 纏わりつく暑気と寝汗で体がべとついて気持ちが悪い。
 浅い呼吸で上下する胸に触れると、浮いた汗で掌が滑った。

 一度寝たら夜明けまで起きない健康優良児は、墨の中に漂うように起き上がる。
 障子で隔てられた庭から、じぃじぃと夏虫の鳴き声が聞こえた。
 普段ならなんとも思わないそれらが、まるで「 見ていたぞ、聞いていたぞ 」と責めているように思える。
 幸村は刑事に追い詰められる犯人(しかも偶然罪を犯してしまった正直者)のように頭を抱えた。


 (駄目だどうして何を考えているのだ拙者はこの愚か者め恥知らずな申し訳ない拙者そんな願望など露も、)

 「ぬおおおぉおおおふぁれんちぃいい………!!」


 時刻を慮った為に、常ならば空に響き渡る叫びは地獄からの呻き声のように地を這った。
 翌日「 亡霊の声が聞こえる 」と上田城七不思議に追加があったのは、いわば当然である。











 1 / 2 のクラウン! Sette : not equal









 しとしとと雨が降っている。

 濃い夏の匂いを纏わせた庭に、雨粒は糸のように滴っていた。
 梅雨入りだろうか。幸村は井戸水に浸した手拭で汗を拭った。
 いよいよ夏が近い。
 巡りきた季節に思いを馳せる。見た目通りといおうか、幸村は夏が好きだ。
 万物が勢いよく、燦々とした日を浴びる様は彼の心を躍らせる。
 だが、その前触れともいうべき長雨だけは、どうにも苦手なのだった。

 そもそも幸村は、雨があまり好きではない。
 彼の属性は炎であるし、太陽の下で駆け回るを好む気性であるので、行動が制限される雨天を好まないのである。
 (彼の得物は槍であるので、道場ではどうしても動きが制限される)

 幼い頃の幸村は、晴れた日には馬術弓術槍術剣術と、とにかく動き回っていた。
 しかし雨の日となると、苦手な勉強を兄と膝を揃えてしていたのだ。
 子、 のたまわくなんたらかんたらというのは、幸村にとって誘眠剤以外の何物でもなかった。
 眠りこけた子供の頭蓋にはすかさず父の拳骨が落ちた。
 強烈な衝撃にうめく幸村に苦笑した父は、難解な原文を少しだけ理解しやすいものに訳してくれた。
 噛んで含めるようには教えてくれない。彼はそこまで甘くはないのだ。
 頭をひねった幸村が何とか理解すると、よくやったと言わんばかりに頷いた。

 厳格だが優しい、父親だったのだ。




 さっぱりした幸村が居室に戻ろうとすると、耳慣れない旋律が聞こえてきた。
 雨音に溶けそうな歌声は高く低く、果敢ない音量で紡がれている。

 この城で不思議な言葉が話されたら、それは十中八九の口から飛び出たものだ。
 幸村と同年の少年にはどうしても見えない彼の声は、大抵元気がいい。
 旦那二号だ、とは側近の忍の言である。

 しかしどうしたことか、歌声に常の威勢はなかった。
 また腹でも下したのだろうか、幸村は急いで足を向ける。
 その脳裏に昨日の医者騒動が浮かんだ。





 暴れ騒ぐを羽交い絞めにしていた幸村は、彼の両腕が自身のそれとは比べるべくもなく細いのに仰天した。
 が知れば発育途上だ! と声を大にして主張しそうだが、年上の武士や佐助といった筋肉質な連中に囲まれた幸村には、それが男の腕とはどうしても信じられなかったのだ。
 の腕は引き締まってはいたが、細く白く、すべらかだった。
 勿論女のようにまろいわけでも柔らかいわけでもなく、細いながら鍛えられ硬かった。
 けれどその二本の腕は、男のものでもないと感じられた。

 その時幸村は、水虫の不保持を叫ぶをして不思議な感慨を覚えたのである。

 それは言葉にし難いものだった。
 言葉になる前に溶けて消え、残ったのは呟く前の虚しさだけだ。
 




 縁側に座って器用に八つものお手玉を回しているは、幸村の予想に反して至極元気そうだった。
 女のように細い頤が手の動きに合わせて忙しく開閉され、異国の旋律が紡がれる。
 明るくも悲しくもない歌だ。ただ、とても荘厳で美しい。

 ぽんぽんとお手玉を操る両腕は、肘まで袖が捲れていた。
 着物に慣れてないらしいは最初えらく苦労していたがすぐに慣れた。
 今日は幸村のお古を着ている。縹色の着物は季節柄もあってよく似合った。

 (細く白い)
 に言わせれば、筋肉は量より質らしいのだが、幸村の目には並の男よりも細く見える。
 それは現代人と戦国武将の違いであり、育った環境の基準の違いである。
 幸村の目には、歌いつつお手玉を投げる少年が佳人と映った。
 男でも女でもなく、ただ均整の取れた細い体が座っている。
 覚えのある感慨が、胸に染み出した。
 それはしめやかな雨音と調子をそろえて、幸村の心を塗り潰していく。


 「あれ? 何やってんのユキムラ」

 視線に気付いたは首をめぐらせた。その間もお手玉を投げる手は休めない。
 声をかけられた一瞬呆然としていた幸村は、急に夢から覚めたような顔をして、そして頭から湯気を出した。
 真っ赤に茹で上がったのである。

 (なななななな何を考えた拙者は?!) 

 ぎょっとしてお手玉を取り落としたの視線もなんのその、幸村は一瞬前の自分を罵倒するのに必死だ。
 無理もない。
 彼の脳内で、お手玉を回すと風呂場で見た不埒な幻影が重なっていたのだ。
 白状すると、ここ最近例の妄想が夢にまで進出している。
 だと思って声をかけたら、振り返った彼は彼女になっているのである。
 勿論、あの格好で。
 己の破廉恥具合を猛省しつつも、どうにもあの強烈な映像は消えてくれない。
 れっきとした男性のを女性に見間違えるだけでも申し訳ないのに、夢にまで出るとなっては言葉もない。しかも内容が内容だけに謝ることさえできない。
 その度にうめきつつ身悶えをするので、幸村は寝不足だ。
 ――――青少年である。


 「……大丈夫か?」
 「プぁひ?! だ、大丈夫でござりゅ!」
 「そっかー…じゃねぇ! ほれユキムラ思い出せ、ひっひっふーだ」
 「ひっひっふー」
 「よーし。落ち着いたか?」
 「はい」
 「そりゃ何より。で、何があった?」
 「そ、それは……!」

  言えるはずがない。

 「それは?」
 「つ、梅雨だなぁと」
 「ほーそうか、お前は梅雨で赤面するのか」
 「む、昔のことを考えておりました! 」

  尋問されている気分になりつつ、幸村は大分前に考えていたことを吐いた。

 「父上とっ、母上のことを!」
 「あー……何か、目撃しちゃったわけか」

  納得顔では追撃の手を弱めた。その目には同情すら宿っている。
  あれは確かに赤面モノだと頷くに安心し、話を変えてしまおうと質問する。

 「殿は、ご家族は…?」
 「両親だけ。もうとっくに死んじゃったけど」

 そういえば、はサーカスで育ったと言っていた。

 「もー、息子の前でよくそこまでってくらい甘々でさぁ。しあわせな家族でしたよー」

 は遠い日を見る目をして笑った。
 遠い遠い昔日はあたたかかった。サーカスに引き取られてからがしあわせでなかったわけではないが、両親の間で手を繋いで歩いた日は、一番優しい記憶だと思う。

 「父さんが事故で死んじゃって、十二の時に母さんも死んで。団長が引き取ってくれてからはずっとヨーロッパにいて、日本に帰ってきたのはユキムラに会った日なんだ」

 墓の場所さえわからない。
 は気付き始めている。ここは日本であるけど、彼の知る日本でないことを。


 ここにはコンクリートも電柱も車も電車もコーヒーも、かつて彼の生活を取り巻いていたものは何も無い。
 それを寂しいとは思わない。
 変なところに来たと思うが、どうせイタリアに帰るつもりもなかったので絶望もない。
 ―――は、クラウンなのである。
 笑い、笑わせて、流れるようにゆらゆら生きていく。
 そんな人生を送ると決めているから、ここがどこであろうと混乱する必要さえないのだ。



 「それに―――…ユキムラ、何て顔してるの」

 眉尻は下がり、堪えるように唇を噛んだ幸村はとても情けない顔をしていた。
 その泣き出す寸前の子供のような顔に、は焦った。
 何故だ、何でこいつは泣きそうなんだ。
 さっぱりわからない。
 ハンカチの一つでも持っていれば良かったのだが、残念なことに今手元にはお手玉しかない。


 盛大に焦るを見ながら、幸村は彼の五年間を思った。
 幸村も早くに二親を亡くしている。
 しかも、彼はその喪失を嘆く間もなく家督を継ぎ、武田の武将としての務めを果たさねばならなかった。
 真田一族の重みを、双肩に背負わねばならなかったのだ。

 しかし幸村には佐助がいた。彼は甘えられなくなった子供の為に一晩中しゃくり上げる背中を撫でてくれた。
 腫れた目を冷やす為に渡された手拭の冷たさ、それを渡した手の温かさが幸村の小さな心を支えた。
 
 信玄の力強い優しさも、一族郎党のきめ細やかな手助けも彼を慰めた。
 彼らのおかげで親に縋るばかりだった子供は青年へと渡ってこれた、幸村は常々そう思っている。


 けれど。
 けれど、は。

 しあわせだったと笑う彼は、その実どれほど心細かっただろう。
 団長やサーカスの皆が優しくしてくれた、それは本当であろうけれども、言葉の通じない異国で、両親を失った十二の子供が寂しさを感じないことがあろうか。
 この体格まで膨れ上がった己でさえ、言葉も文化も違う異国に連れて行かれたら心細いと感じように。


 (彼の背中を撫でる手はあっただろうか)


 同情は安い、憐憫さえ彼には不要だろう。
 それでも彼の過去を思うのは、傲慢だろうか。


 「なあ、ユキムラ、笑って?」


 の細い腕が伸び、幼子をあやすように己より高い位置にある幸村の頭を撫でた。
 男にしては華がある、けれど決して際立って端整なわけではない顔がやさしく微笑む。

 「お前が泣くことはないよ。俺はとてもあいされてたし、今もあいしてる。俺はしあわせなんだ」

 しあわせなんだよと囁く。
 雨音にその福音が溶けそうだ。

 「殿、」
 「ん?」
 「拙者は、殿が幸せ、で、嬉しいでござる」

 の過去はどんなものであったろう。
 そんな勝手な想像は喉をひどく圧迫したが、しあわせと微笑んだの笑顔は悲しみの欠片さえなかった。
 だから幸村は、の幸せを信じようと思う。


 しあわせなは、幸せな幸村が笑ったのを満足そうに見た。



 「ありがとう。俺はすごく、しあわせだよ」


幸村だって青少年(笑)
風呂場の女から主人公へ興味がシフトし始めた模様
080129 J


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