腕に、ふにゃふにゃとした柔熱を抱いたとき、義姫は不思議な穏やかさが身の裡を満たすのを自覚した。 真白のむつきに包まれた小さな生きものは、まだ目も開かないのに、その弱弱しい手を懸命に己が母へと伸ばす。両手がふさがっているので、恐る恐る顔を近づけた義姫の顎を、高い体温を宿した指がぺしぺし叩いた。知らず、笑みが零れる。 「梵天丸」 あぅ、と、意味もわからぬ赤子が応えた。その偶然が愛おしくて頬を寄せる。梵天丸は猫に似た声を上げた。 自分にこんな穏やかな気持ちが芽生えるなど、この子を産むまでは想像もできなかった。 どんなときも、それこそ輝宗と共寝するときでさえ、義姫は最上であることを自身に課していた。最早固執とさえ呼べるそれは、何も考えずに伊達の女となれと言われた義姫の反抗だったのやもしれぬ。彼女は伊達家中にあってたった一人、最上の女だった。 そんなことをしても無意味であることは、彼女が一番よく知っている。 それでも、ひとりぼっちの彼女が縋ったのは夫ではなかった。夫に縋るなど、彼女のプライドが許さなかった。 (わたくしは縋らぬ) 義姫は最上の女だ。伊達の男などに、無抵抗で従うものか。義姫はそうして背筋を伸ばした。うつむきそうな顎を高慢に上げた。輝宗はその姿を見て、美しいと目を細める。 (あのお気楽トンボめ) 彼女は、輝宗に甘えも頼りもしなかった。彼女の誇り高さがそうさせ、それが一層、伊達家で彼女を孤立させていった。 しかし輝宗はそんなこと全く気にしなかった。どころか、家中の者にあれほどの妻はいないなどと、惚気か説諭か微妙な言い方で義姫を庇うのだった。義姫としては頭が痛いやら恥ずかしいやら悔しいやら。 暖簾に腕押し糠に釘、義姫のとがった態度など少しも気にとめない輝宗は義姫からすれば天敵で、いつも歯を食いしばる羽目になる。どれだけ彼女があがいたところで輝宗の腕の中で、輝宗は彼女の反抗などささいなものと微笑しているような男であるとそう思った。誇り高い義姫にとって、苛立たしいことこの上ない。彼の父、植宗よりずっと凡庸な才しか持たぬのに、義姫は夫の前ではわけもなく負けた気分になる。自分がきかん気の子供のように思えてしまう、輝宗はそんな雰囲気の男だった。 輝宗について考えれば考えるほど腹が立ってくる。やっぱり穏やかな気持ちなど気のせいかもしれない。ゆらりと立ち込めた暗雲に、梵天丸が湿った声を上げた。赤子はとても敏感だ。母親になったばかりの義姫は焦った。おろおろと我が子を見下ろして、しかしその間にも梵天丸は本格的に泣きの体勢に入っていく。あああどうしたら! ぷふっ、と吹き出す音が聞こえた。 「……これ、誰か。襖を閉めよ」 「はい」 「ちょちょちょっと待った! すまん!」 襖の隙間から覗き見ていた輝宗は、あわあわと襖を開けて姿を現した。実に情けない姿である。ジト目の義姫に首を竦めながら着座した輝宗は、ふひふひしゃくり上げ始めた梵天丸を義姫の手からさらった。 「あ」 「子供というのは、親の気配に敏感だから、こういうときは笑ってやるのが一番だ」 輝宗は、義姫には決してできない表情で笑い、長男を慣れた手つきであやした。ぐずっていた梵天丸は一転機嫌のよい声を出す。おもしろくない。そう思っている自分もおもしろくない。子供ではあるまいし。 「随分、お詳しうございますな」 「おれは、弟妹が多いから」 輝宗は人懐こく笑うと、不機嫌な義姫にあっさり梵天丸を差し出した。差し出されても困る。 しかし受け取らぬのも憚られ、義姫は恐る恐る、温かな重みを腕に抱いた。「怖々抱いていては、梵天丸がそれを感じ取る。ハッタリでいいから自信を持つのがコツだぞ」ハッタリなんぞかませるか。 再び暗雲立ち込めた義姫と梵天丸の間に、輝宗がひょいと顔を割り込ませる。固まった義姫をよそに、輝宗は子供の紅葉のような手をくすぐり始めた。相好を崩す。まるっきり親ばかの顔である。 「そのうち慣れる。それまでは、泣き声を聞くのもいい。子供はすぐに大人になるから、聞けるのは今のうちだ」 丈夫に育て、賢く育て。お前は義の息子だから、立派な大人になるだろう。 「母に似ろよ」 本気でそう思っているのだろう。輝宗は、眩しそうに目を細めて願をかけた。義姫は、幾度となくこの表情を見たことがあった。 貴女は美しいと、憧れるように言うときの表情だ。背筋がむずがゆい。いつからか、この表情をされると、隙間風に吹かれたように居心地が悪くなった。憧れに含まれる距離感に、叫びだしたくなる衝動をやり過ごす。言葉にならない衝動だった。表情への拒否を含んでいることは間違いない。多分、寂しいという単語が一番しっくりくることに、義姫は知らぬふりをした。 それを言葉にする代わり、別の言葉が頭に浮かぶ。 (父に似なさい) 言葉になることはなかったが至って本気だった。数瞬後、その思考の意味と本気に気付いて、義姫は大いに慌てた。何故、わたくしはそんなことを! さいわい、一音たりとも零れることはなかったので輝宗に気付かれることはなかったのが、せめてもの救いだった。 父母の間で梵天丸があうぅと両手を遊ばせる。輝宗が快活に笑った。 1 / 2 のクラウン! Sessantasette : Macbeth in the dark T 松永め、と憤る最上の方を、は不思議そうに眺めた。犯されたのはであって最上の方ではないのに。 女の体で男を受けとめるのは初めてだったため、脚の付け根やら腰の奥やらがずきずきと痛む。しかし耐えられない程度ではない。松永はを肉体的に、そしてそれ以上に精神的に傷つけるつもりでいたが、それはあえなく失敗した。ざまあみろと口笛を吹いてやりたい気分だが、重大な犯罪が行われたように怒る最上の方の前でそれをするのは場違いかと思われた。は自分の上を通り過ぎた暴力を正しく認識していない。 口を極めて松永をこきおろしていた最上の方は、ふとした拍子にそんなの様子に気付いた。訝しげに問う。 「そなた、何故怒らぬ」 最上の方にはの静けさが理解できない。 は答えた。だって、大して傷ついていないから。 にとって自尊を傷つけられることほど些細なことはない。普段から持ち合わせていないからだ。 理解を超える回答だったのか、最上の方は唖然として、そして猛烈に怒った。 「その考えは、いかん。其方は松永のしたことを許してはならぬ。彼奴は其方に乱暴し、奪い、貶めたのじゃ。其方の誇りにかけて許してはならん!」 「誇りなんて大したもの、ありませんけど」 は、最上の方のあまりの剣幕に気圧され気味だ。 細い体躯に纏わせた男のにおいに無頓着な娘は、最上の方の怒りに油を注いだ。強姦など、到底許せることではない。自由を奪い、尊厳を踏みにじって、一方的に女ばかりが傷つけられる。彼女の個性も才能も意思も無視して、ただ快楽の道具とするのだ。わたくしは何。何度も自問した絶望が怒りの裏側に張り付いている。人であるならば、それは許される罪ではないのだ。 (まして、この娘は政宗を好いている) 政宗の死(それは誤報だったけれども)に触れて、あれほどまでに絶望を顕わにしたのだ。利用しようとした最上の方が言えたことではないが、彼らの間にあった絆は深く、それはそれは尊いものであると思う。最上の方は、政宗を憎んでいる。それでも、彼の窮地に取り乱す者がいることが、彼女の心を小さく震わせたのだった。恐らくそれは母親としての心。我が子に心を添わせる人間がいたことへの喜びと寂しさ。 だから尚更松永が許せなかった。政宗に心を向かわせながら、それを土足で汚されたことに無頓着なに苛立った。 最上の方は滔々と説教をした。はそれを不思議そうに聞いていたが、やはり理解はできない。にとって大切なものは唯一母に関することで、自分自身の価値は恐ろしく低い。 誇りについて語る最上の方の姿に、ふと彼女の息子を思い出した。俺の命は埃のようなものと言ったを、政宗は叱り飛ばした。あれは、秋祭りの翌日だったか。もう随分と遠いことのように思える。 (親子、だなあ) ほのぼのと笑った。思う。何だかんだで、政宗と最上の方の間にある溝はただの溝で、越えていけるものなのだろう。それは両者の態度が証明している。ほんの少し、ボタンをかけ違えているだけなのだろう。少しだけ、羨ましかった。最上の方はこんなにも政宗のことを考えている。二人ともまだ生きている。その手を伸べ合うことができる。 あいされた記憶はありこそすれ、おかあさんが再びを撫でることはない。もっとも、撫でられた記憶など霞むほど昔にしかなかったが。 そう思い至ったからだろうか。 らしくもなく小さな憂鬱に囚われて、ふてくされた声が唐突に言った。 「マサムネが羨ましい」 初めての感慨だった。誰かを羨ましいと思うなど。 おかあさんのあいで満たされていたから、はこれまで誰かを顧みることはなかったし、羨ましがることなどありえるはずもなかった。 駄目だ、と咄嗟に思う。この思考を続けたらきっと、気付きたくないものに気付いてしまう。それでも一度転がり始めた思考を止めることはできなかった。全く関係のない、唐突な言葉に面食らった最上の方が黙っているのをいいことに、の口は本人の意思に反して動いた。 「あいつ馬鹿だ。絶対馬鹿だ。こんなに大事にされてるのに全然気付かないふりをしてる。あいされてなんかないって顔して、そんなの全然平気だって虚勢を張ってる。手を伸ばせば届くのに。こんなに、愛されてるのに…!」 駄目、駄目、駄目、思っても口は言葉を連ねていく。そしてちらつく、母の顔。 必死で目を逸らしていたのに、対比を止めることができなかった。木漏れ日の中で踊った母と、悲鳴を上げた最上の方。お父さんの面影だけを見つめていた虚ろな瞳、息子と同じことを言う唇。本当は、本当は知っていた―――母が見ていたのはお父さんただ一人で、そこに俺は(ああ考えたくない!)(やめろやめろやめろ!) 今までそんなこと考えたこともなかったのに、対比を止めることができない。 それがどうしてか、に理解することはできなかったが、それは彼の人生で少しずつ蓄積していった優しさの成果だった。が振り払った手、何度も何度も振り払った手は、受け取ってもらえぬまま指先から優しさを零しても、全く届いていないわけではなかった。 を養育したコレジオの、サーカスの仲間の、興行で出会った人々の、幸村の、信玄の、小十郎の、―――政宗の、差し出した掌は、いつだってに温かな優しさを教えていた。 おかあさんに固執したは、それを受け取ってしまい自身の「あいされた」記憶を失くすことを恐れたので受け取ることはなかったけれども、優しさは少しずつ確実に、が目を逸らしている間に、ずっと芽吹く準備をしていた。 芽吹きを促したのはきっと、馬鹿で不器用な意地っ張りだ。 その青い背中に唇を噛みしめる。お前さえいなければ、気付かずにいられたのに。 『守ってやるよ』 『I’m glad that you are alive.』 『アンタが優しくないからさ』 そうやって、彼はずっとの中の小さな芽に水をやってきたのだ。 柔らかくて温かい水。怖がるに気付かれないようにそっと、そっと。気付いたときにはもう芽吹いてしまっていた。 やめろ。は無駄な抵抗をする。 よりにもよって今突き付けられた事実を必死で否定する。俺の一番はおかあさん。おかあさんは俺をあいしてくれた。例えそれが愛でなくとも―――! 与えられた優しさを認めてしまえば、あいされた記憶が瓦解する。愛でなかったと気付くから。あらゆる痛みから彼を守り続けた鎧が崩れ去る。 はそれ以上の思考を止めようと、方向転換を図った。 言葉を絞り出す。 「……オカタサマがマサムネに毒を盛った理由は知らない。でも、もしオカタサマがマサムネと仲直りしたいなら簡単だ」 どうしてこんなアドバイスみたいなことを言っているのか。探し当てた思考を辿った先に繋がっていたのが、アンタが優しくないと笑った政宗であったからだろう。 は情けなくなって最上の方に背を向けた。他所の親子関係なんてどうでもいいのに、にはおかあさん一人がいればいいのに、政宗の寂しさが滲んだ微笑みがの舌を支配している。そんな顔をしないでほしいと、その一言で収まる感情を言葉にできず、は心が変質していくような感覚に心細さを覚えた。まだおかあさんの腕から離れようとしないにとって、誰かを思いやるのはイレギュラーもいいところだ。 閉じようとした口を政宗の背中に突き動かされ、はぼそりと呟いた。 「マサムネは待ってる。撫でてくれる手を、ずっと待ってる」 それはきっと、最上の方の手。 なぜなら政宗はいつだって、理想の君主像をトレースするのだ。彼の父が、母が、彼にこうであれと望んだであろう『奥州筆頭』を。 奥州の王者たれと望まれた子供は、親の希望通りに全霊で奥州王として振舞っている。周りに父も母もいなくとも、いっそ滑稽なくらい必死で。 いつか褒めてもらえるように。認めてもらえるように。 は言葉もない最上の方を残して廊下に出る。きんと冷えた空の彼方が薄く群青を刷いていた。夜明けが近いらしい。だが、冬の遅い日光が空を貫くのはもう少し先だろう。 (朝日が、俺の思考を焼き尽くしてくれたらいいのに) そしたらこれ以上なにも考えなくて済むのに。 ひどく億劫な気持で、冷えた廊下に身を投げ出した。思い出したように体が軋む。そこに性行為の名残を嗅ぎ取って、は初めて、背筋がざわつくような嫌悪を覚えた。圧倒的な嫌悪だった。それが何を意味するのか、今の彼にはまだわからない。 (い、や、……いやだ!) 消えてしまいたい。 そう思った。 俺はあいされていた。 あいされた記憶があるから傷つくことも、汚れることもない。 ああ、でも、だから。 あいされたことを信じられなくなったとき、俺は、俺の心はきっと。 |
うおー論点がずれにずれるー 話のテーマが乱立ーorz にとって本当に効果的なのは、 松永さんではなくて伊達親子だと思う 090804 J |
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