夜はいつも、黒々と重苦しい。
 この身を這う夜を漫然と感じながら、は甲高い嬌声をあげた。思考の芯は冷えている。

 我が身を過ぎた夜を数えることはとうにやめた。
 では最初は、と聞かれても、にはそれをはっきりと思い出すことができない。
 覚えているのは、イタリアの路地裏の饐えた臭いと、生臭い体温と、安いアパルトメントの間から見えた夜空にかかった雲の色。
 しかし酷似した状況など笑えるほどにあるもので、それが本当に最初の記憶だったのかは保証できない。ひょっとしたら、いくつかの夜の記憶が混同されているのかもしれない。

 押し入られる感覚に、は散漫な抵抗を示した。
 散々弄ばれた前戯のせいで、手足に力が入らない。それどころか、体はもたらされる圧迫感を歓迎するような節さえあった。松永が蔑んだ目で笑う。「体は正直らしい」。そうさせたのは松永であり、自身だ。
 はほくそ笑む。

 (そりゃ、望んでやってるし)

 強姦する者にとって、弱い者の抵抗こそが最高の刺激なのだ。
 それを摘み取り意のままにすることでサディスティックな優越感を覚える。そのことを熟知しているは、憎悪し、翻弄されていく様を演じながら、的確に反応すべき(あるいは反応を変化させるべき)タイミングを観察してことを進めた。

 松永はサドの代表格のような男だ(とは見ている)、人を辱める、あるいは陥れるノウハウはなど及びもつかない。
 だからこそ念入りに、全神経を集中した。房事だからとて一瞬たりとも気が抜けない。まるで刃を合わせるように。
 意識の下で忍び笑う。なるほどくノ一が房事を習うのは当然だ、この状況なら隙さえあれば即座に殺せる。



 はじめ、は本気で暴れた。前後など知らぬと言わんばかりに、無意味だとわかっても足をばたつかせ、腕の拘束を解こうと試みた。喉首に噛みつこうとまでしたのである。
 それら全てを封じて、松永はの瞳が少しの怯えと巨大な憎悪に燃え上がるのをせせら笑った。
 未発達な体に乾いた手を滑らせ、あるいは殴りつけて徐々に抵抗を奪っていく。逃げ切れないと血の気が引いた肌をいとおしみ、震える左胸を鷲掴んだ。
 無遠慮な松永に燃えるような憎悪を吐きつけたその口の端に、抑えがたい絶望を見透かして、政宗の名をちらつかせながら松永は再び口づける。噛みついたの唇をささやかな血が汚し、それが征服欲をそそったとばかりに細い首筋に吸い付いた。
 刻まれた所有痕に、絶句したの貌は見物だった。「これで、新しい飼い主が誰かわかるだろう」。思い知る相手は言うまでもない。
 その頃、はまだ頑強な抵抗を示していたから、松永は根気よく小さな刺激を与え続けてやった。
 それに反応を示さざるをえなくなったときの最初の絶望は、蒼白なの肌から更に色を奪った。粟立っていく背筋を嗤い、反応していくことを容認していくごとに(欲しがればいい)、の絶望は深くなる。抵抗は形だけとなり、声を抑えることもできず、生臭い獣となっていくまろい熱は、松永への呪詛も反論もできず心ごと萎れてしまった。
 ――――という自身を、は演じ切った。

 松永が得意気に語る講義を右から左に聞き流し、はその表情を一変させた。
 熱に浮かされていたのが嘘のようなそれに、松永が瞠目する。

 勝ったことを確信した。

 抵抗も、嬌声も、痴態も、全てはこの瞬間のために積み重ねた。は計画的だった。松永の興味と執着を一気に手繰り寄せた。
 これで松永は、真実を絶望させるまでを殺さない。
 あらゆる手段でもって、その誇りを奪いにかかるだろう。そんなもの、存在しないにも関わらず。


 なるほど松永は、(自認しているのかもしれない)床上手だった。
 意識が溶かされたとておかしくはないほどに。
 けれども、それがどうしたというのだ。
 不本意な快楽も、道具のように扱われる痛みだけの行為も、を揺るがすことはできない。
 には、ハナから誇りなどは存在しない。はクラウンだ。嘲笑われるのも、人間扱いされないのも慣れている。それどころか、クラウンこそが天職だと本気で思っていた。笑い、笑われ、笑う。笑顔はそれ即ちしあわせだ。

 は誰にも傷つけられない。どれだけをいたぶったところで、のしあわせは誰にも突き崩せやしない。
 のしあわせは、おかあさんがをあいしてくれた記憶である。
 それはおかあさんの死によって完結したが、あいされたという記憶はしあわせとしての中に残った。
 おかあさんが死んだ今、そのしあわせは誰にも奪えない。
 のしあわせはハッピーエンドで完結したのだ。
 だからどれだけ粗暴な手が肌を這いまわっても、血に塗れて憎悪を受けても、嘲り暴かれたところで、を傷つけることは微塵もできないのだ。

 第三者に対して、の心は閉じられている。
 胎児のように母とのしあわせに浸りきって目を閉じて、向けられる好意も優しい手も撥ね退けてきた。おかあさんのくれたしあわせだけで、俺は満足なんだ。
 それは不幸と言うにふさわしいのかもしれない。が信じ込んでいるしあわせは、そこに愛情があったのかはともかくとして、どう見ても壊れ果てたものだったのだから。それでもはそれに縋るしかなかった。振り上げられたナイフの銀の輝きを覚えていて尚、その記憶をしあわせと呼ばなければ、はイタリアの路地裏で壊れていたかもしれない。
 皮肉な話だった。
 しあわせを信じ込めば信じ込むほど、優しい手から遠ざかり、冷たい牙から守られる。

 「卿はもっと繊細だと思っていたのだがね」
 「そんなもの!」

 喉で笑った二人は同じ貌をしていた。双方ともに、自覚している。
 相手を暴き立てようとする瞳の向こうに同じ瞳をした自分。紙蝋が燃え尽きて、すぐに見えなくなった。
 視覚が役に立たなくなると他の感覚が鋭くなって、中でも聴覚が、粘つく水音と体内から響く音を拾う。は涼しい顔で聞き流した。

 (これくらい、どうってことない。傷つかない。俺は不幸なんかじゃないんだから。俺は、俺はしあわ、)

 しあわせなんだからと続けようとした先はつかえて出てこなかった。誤魔化すように唾液を飲み下す。
 (何だ今の、)戸惑いを押し込めて、顔だけは妖艶に笑う。爪を立てられたというのに、松永は眉を寄せる気配もない。
 母の虚ろな微笑を覆った白と赤と青、ああ、あれは確か、日本語でもイタリア語でもない言葉で無事を喜んだ瞬間の―――











  1 / 2 のクラウン! Sessantasei : lost child, in the dark









 貴女は本当に美しい、と、彼は何度も繰り返した。
 嫁いだばかりの頃、最上の方はそんな夫の繰り言をありふれた言葉として聞き流していた。
 彼女は美しさを賞賛されることには慣れていたから、その類であると断じていた。同時に、そのわたくしを貢物同然に妻として嬉しいか、とも。

 義姫の結婚は、政略結婚ですらなかった。
 伊達家(正確には当時の当主伊達植宗)との抗争に破れた最上家は、再起を図るほどの力もなく、父は植宗に求められるまま彼の嗣子に彼の娘を差し出した。
 せめて政略結婚であったなら、と何度思ったか知れない。
 政略結婚であれば、実質上の人質であってもその役割は愛でられるだけではない。家のために、公式のスパイとして情報を送ることもできれば、撹乱することもできる。最上家の代表として、伊達家で戦うことができる。
 けれども義姫の父は、それを彼女に望まなかった。
 ひたすら伊達家に服従を誓い、義姫には余計な波風を立てないように言い含めた。幸せになれ、と贈られた言葉に酷く反発したのを覚えている。

 (わたくしは、何の為に嫁ぐのですか。家のためでもなく、会ったこともない男に、何故身を許さねばならぬのですか。―――子を産む、ただそれだけのことに、最上でもなく義でもない、ただの女の役割を果たすために生きるのですか!)

 それならわたくしは何のために生きているのだ。
 何のために、最上家の義という自我があるのだ!

 煮え滾る思いで枕辺に三つ指をついた義姫の前に輝宗が座った。婚礼の席ではあまり視界に入らなかったが(義姫は夫となる男に大した注意を払わなかった)、植宗によく似た顔立ちの男である。憎き仇敵が思い起こされて背筋が騒いだ。
 けれども、そんな義姫の烈しい眼差しを受けて、輝宗は眩しそうに目を細めた。
 まるで憧れるような表情は彼の父親とは似ても似つかず、義姫は思わず気勢を削がれた。
 慌てて気を強く持った義姫だったが、それを見た輝宗はやはり憧れるように、それからことあるごとに繰り返される最初の言葉を口にした、――――





 「姉ちゃん!」

 子供の甲高い声が最上の方を引き戻した。見れば、深い夜を覗かせた障子の隙間から、松永に連れて行かれた娘がその身を滑り込ませたところだった。
 絶望の淵に身を立たせて呆けていた少女は子供にふさわしい速度で彼女に駆け寄っていく。自身も憔悴していたというのに、娘の身が心配で眠れなかったらしい。優しい娘だ。

 最上の方は、動けなかった。
 どうして貴女が安堵するのと、叩きつけられた言葉に怯む。躊躇った最上の方の視線の先でいつきはキリエに抱きついて、無事だったかとわあわあ泣いた。キリエは大丈夫だとそれに応じる。
 ふと、いつきがキリエから顔を離した。

 「なんか、姉ちゃん、変な匂いがするだ…」

 あの嫌なお侍みたいな、と続けたいつきは、キリエを見上げて凍りついた。
 キリエはいつきを見下ろしていたので、その表情は最上の方には見えない。キリエが柔らかく「もう遅いから、早く寝なよ」と諭すと、いつきは返事を忘れたように彼女から離れ、壊れたようにがくがくと頷いた。
 いつきから視線をそらし、キリエが緩慢に最上の方を振り向いた。――――それと同時に理解した。

 酷い顔だった。
 暴力を振るわれたというわけではなさそうだった。そうであった方がずっと良かった。
 能面のように、一切が抜け落ちたような表情。怒りも悲しみも浮かんでいないのが、逆に彼女の身に起こった絶望を際立たせる。
 からからに乾いた瞳が、小さく笑った。

 「大丈夫ですよ」
 辛いことなど何もない。





 初めて義姫に触れるとき、輝宗は随分と緊張しているようだった。壊れ物に触るようにそろそろと肩に触れるものだから、ようやくしっかり抱きしめられるに及んで、義姫はがらにもなく頬を熱くした。
 (その手で刀を振るっていくくせに、)
 なんという腰ぬけだと、苦し紛れに悪態をついた。内心で。
 輝宗は長いことそのままで、あんまり後にも先にも進まぬものだから、義姫ははしたなくも「殿?」とその耳元で問いかけた。やるのかやらぬのか早くしろ。ああはしたない、まるでこれでは催促だ!
 先程とは別の意味で顔に朱が走ったが、そうでもしなければ心臓が耐えられそうになかった。輝宗の緊張が感染ったのかそうでないのか、心臓は早鐘のような鼓動を打っている。わけもなく負けた気がした。わたくしは望んで嫁いできたわけではないのに!
 義姫が煩悶するのもどこ吹く風で、輝宗は「うん」とだけ返した。うんではないはこの馬鹿者!
 怒鳴ってやろうかと義姫が考えた瞬間、それを見越したように輝宗は身を起こし、だしぬけに義姫と視線を合わせた。思わず空気の塊を呑みこむ。
 輝宗は至極真面目な顔でこう言った。

 「ちょっと、貴女に感動していた」

 何がどういう理屈だと怒鳴り出そうとした唇を、先程ののろま具合はどこへやったと言わんばかりの早業で輝宗が塞ぐ。
 最初のくちづけには不満が山ほど含まれていたが、少なくとも輝宗の唇は、優しさを籠めたようにあたたかった。


 ヤマアラシのジレンマ
 おかあさんの呪縛が解けるには最悪のタイミングです
 それにしても伊達夫婦楽しい。
 輝宗さん出すつもりなかったのに出しちゃったよ!
 090731 J

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