浅い宵闇の中、二人分の足音が廊下を渡っていく。
 空気は雪の匂いが濃い。なるほど義姫の館なだけあると松永は思う。

 (館は主を映す鏡)

 気高くも脆く、自分さえ気付かぬほどに深く己に閉じこもって、自ら冷たい檻の中で凝り固まった義姫には似合いの館だ。彼女は意地と思い出だけで生きている。
 傷つきながら懐古を続ける女主人は、それゆえに凍えていることにも気付かない。

 (愉快、愉快)

 だからこそ、先程の義姫と言ったら!
 政宗の毒殺という、自身の過去に強く重なる状況で、義姫が見せた情動。
 自身の姿にさえ気付かぬ彼女は愚かだが、それゆえに研がれた知性が情動の答えを導くだろう。
 そのとき、彼女のプライドはどうなるだろうか?
 松永は抑えきれずに込み上がってきた微笑を口許に乗せた。ちらり、と後ろを振り返る。
 図らずも共に義姫を追い詰めることになった少女が、従順に松永のあとを歩いていた。顔は伏せられていて、見えない。

 (卿の絶望はどんなものだろうか)

 義姫と同じように己から目を背けている子供は、しかし義姫とは違い、薄っぺらい笑顔を刻んだ鉄壁の仮面をつけていた。
 それが、毒の一滴で罅が入り、覗いた素顔はどのように変わっていくのか。
 松永は本来をいたぶることを目的としていたわけではなく、単に「交渉」の道具として誘拐しただけだった。
 しかし、これは思いがけない拾いものだ。

 降って湧いた娯楽への期待に、松永は唇を吊りあげた。











  1 / 2 のクラウン! Sessantaquattro : evening in the dark









 歩みは夢見心地にも似ていた。
 頼りない重心移動を繰り返し、浅い夜を渡って通された部屋はなお暗い。松永が紙蝋に火を灯すとわずかな光が埋もれたが、それは部屋の闇を払うに至らず、むしろ脇息にもたれた彼の陰影を深く浮かび上がらせるばかりで、その鮮やかなコントラストは逆にの不安を煽った。
 (不安?)
 何が?
 何が怖い?
 は小さく微笑む。無性に笑いだしたい気分だ。
 その衝動は乾燥した風のようにの心の中に溜まった。そこには、一滴の水もない。疲れ果てた老人のように、の心はかさつき果てていた。

 政宗が毒殺されたこと(それが未遂だったこと)、
 それに激しく動揺したこと、

 政宗と最上の方を羨ましく思ったこと、


 おかあさんだけだったの心に、政宗が入り込んでいたこと!


 そんなことありえない。あってはならない。
 のしあわせはおかあさんなのだ。
 それ以外の何も、を生かすことはできない。

 不文律だ。絶対だ。真実だ。
 そうして否定すれば否定するだけ、覚束なくなっていく気がした。
 酷い疲労を覚えていた。何かを考えるのも嫌だった。
 深く考えてはいけないのだと思う。
 考えたらきっと、自分は壊れてしまうから。

 「何がおかしいのだね?」
 「何も」

 は目を逸らす。伏せた顔を上げて、松永の微笑をまっすぐに見返した。
 艶然と微笑む。


 いつだって目を逸らして生きてきた
 (そう、本当はわかっているけれども俺には見えない、聞こえない)


 は思考を切り替える。当面の問題は松永久秀との1on1をどう乗り切るかだ。
 相手は自分の生殺与奪を握っている。
 彼の目的が不明な以上、どうにかして松永の目的を推察し、殺されないように対処しなくてはならない。
 そのためなら手段は問わない。
 生きることが最優先だ。

 頭が白く冷えていく。
 母のいとしげな声が「」と囁き、押し寄せた凍てつく波があらゆる煩悶を覆い尽くし、津波のように思考を埋めて平らにしていく。
 恐怖の閉じ込められた思考の上に強烈な理性が築き上げられて、の目から揺らぎが消えた。
 怖がりな子供は、恐怖の頂点で冷静さを得る。

 「それで、お話とは何でしょう」

 微笑さえ浮かんだ。
 松永はの変化を敏感に感じ取り、感嘆のため息さえ吐いた。

 「いや、見事なものだ。同じ人間とは思えんね」
 「クラウンですから。Richieta(リクエスト)さえあれば、どんな人間にもなりますよ」

 松永にはもう、キリエ=とばれている。
 ならばの詳しい調査がされていたと見て間違いあるまい。
 開き直ったに、松永は愉快そうに「それは今度にしておこう」と言った。

 「私が用があるのは、その人だからね」
 「これは恐れ多い。俺などに、貴方のような方が目を止めてくださるなんて」
 「そんなに謙遜しないことだ。卿には、十分な価値がある」
 「……申し訳ありませんが、そこまで仰ってくれる理由がわかりません」

 俺はしがないクラウンです、と続けようとしたを遮って、松永は半年前の日付を言った。まるで本を読み上げるかのように。

 「6月10日。上州に『くらうん』を名乗る道化師が現れる。南蛮から来たと言い張るも、周辺の海を臨む国にそのような記録はない」
 「同日、甲斐の若虎に保護される。二月ほど後、上田に正体不明の軍が襲撃。いくつかの村が焼かれ、上田城下にも侵入。この時卿は短刀を振るい、雄々しく戦場を駆けた」
 「同月、甲斐の虎、奥州に出兵。卿は甲斐にて監視下に置かれる。虎は独眼竜と会敵するも敗れ、その戦力を大幅に落とした。一方の独眼竜は漁夫の利を狙っていた北条を撃破、大きく版図を広げた―――しかし、氏政の首を得るには及ばず、氏政は子飼いの忍と共に再起を図って身を隠した。彼に応えるかのように、収穫期は平穏ではあったが冬と共に一揆が頻発。独眼竜の下に身柄を移していた卿は、戦場に連れて行かれる羽目になる」

 朗々と読み上げられるめぐるましい移り変わり。
 その中に引っかかるものがあって、は小さく眉を上げた。

 (何故、ホージョーの意図を知っている?)

 政宗が氏政を破ったことは聞いている。
 しかし、氏政が子飼いの忍――風魔と言ったか――と再起を図ったなど、どうして知ることができようか。
 まして風魔は傭兵である。何故松永は、風魔がまだ氏政と共にいるとも取れる発言をする?

 「友通から話は聞いているよ。卿は、随分と戦い慣れしているらしいね。―――上田城下での戦いぶりは、実に美しかった。的確に敵の動きを奪っていた」
 「……まるで、見てきたように話すんだね。何とも熱を入れて調べてくれたみたいだ」
 「何、気になった相手のことを隅々まで知りたいと思うのは、当然のことだろう」
 「立派なストーカーになれるよ」

 ストーカーという単語がわからなかったのだろう、一瞬妙な顔をした松永は、しかしおおよその見当をつけたのだろう、慇懃に「そう称えてくれるな」と礼を言ってみせた。

 「米沢城下にキリエと名乗る芸人が現れたのはこの少し前だね。しかし彼女は、戦が始まったころからぱたりと姿を消した。微笑ましいことだ、ずっと孤独な独眼竜を支えていたらしい」
 「過大評価しすぎだよ。俺はクラウン、命じられたから御前に侍っていただけさ」
 「それが彼のやすらぎだったのだよ。何しろ彼の周りは敵で満ちている。あの通り、肉親でさえ」

 まただ。また、松永は戦の裏側を仄めかす。
 政宗のやすらぎ云々は無視して(政宗と自分の間に甘ったるい時間など断じてなかった!)は思考する。
 武田と伊達の抗争、その裏側、一揆勢の鎮圧。全てに関る伊達軍と、正体不明の第三者。

 考えろ、考えろ!
 暑い夏の日、見物人の背に突き立った矢、殺到した侍と逐われた城、駆けた屋根と殺した侍、「奥州軍である可能性が高い」、戦戦戦、伊達の忍? 北条の作戦? 竹に雀、血で汚れた武田菱、あっけなく崩れた北条軍、雲霞のごとく湧き出ては連なる一揆、転戦、転戦、転戦、転戦、伊達領に広がる一揆と最上の方、政宗が最上領で煽った一揆、連鎖する。連鎖する。終わらないのは双方の予想以上に一揆が広がるからで、―――― 一番消耗するのは、誰だ。

 「……アンタには、何も関係ない」

 自分の発言に対する黙秘、松永はそう受け取った。しかし怯えも甘さも、そんな感情の欠片すらないの瞳が彼を射ぬき、その意図が黙秘とは別のところにあることを悟った松永は口をつぐむ。
 それをいいことに、は努めて平坦な声で言った。

 「アンタが『欲しいものは』、俺じゃないだろう」

 松永の目が一瞬見開かれた。


 度重なる戦で最も消耗するのは、いわずもがな伊達軍だ。
 敵は戦のたびに変わるが、疲労は変わらず蓄積されていき、軍は強さを得ると同時に弱くなる。回復する暇がないからだ。
 武田・北条との戦いによって伊達領は大きく拡大し、新領地の経営にかかりきりになっていた政宗。その背後では一揆の火種が撒かれ、やがてそれは爆発的に火を噴いた。
 火種を撒いたのは、最上の名に隠れた松永だ。
 最上の方がクーデターの延期に歯噛みしていた、それが証拠だとは思う。
 最初は義光が煽っていた一揆が、途中から彼のコントロールを外れたのだ。それを行っていたのは松永だろう。話術に長けた彼と、忙しく立ち働いていた三好三人衆が一揆の操り糸を義光から奪い取った。
 (最北端一揆を鎮圧しに行ったとき、伊達軍と一揆勢の両方を攻撃した第三者。あれが、松永軍だったんだ)
 そして先程の発言。恐らく彼は、武田・北条同時戦の頃から裏で糸を引いている。

 そこまでして伊達軍を弱体化させるのは何故か。

 最上に手を貸していたわけではないことは、最上兄妹の計画を台無しにし、更には最上の方を人質に取ったことからわかる。
 松永は最上の方を誰に対する人質とするのか。
 それは恐らく、政宗だ。
 政宗が最上領で起こした一揆を煽ったことで、義光は松永に手を回せない。それでなくてもこの館は伊達領だ。義光に攻められる心配より、政宗に攻められる心配をするのが道理である。
 だから松永は、最上の方を政宗に対する盾とした。

 しかし、政宗と最上の方の間には確執がある。
 政宗が素直に最上の方を助けるとは言い切れない。
 そこで松永は、彼女が必要とされる状況を作り出した。
 即ち、最上との戦である。

 いくら一揆で手が離せないといっても、義光は政宗を陥れようと画策した。疲弊した伊達軍が最上軍と戦えば、勝つことはできても未だ安定しない武田・北条の離反を許す羽目になる可能性が高い。
 伊達が武田から戦う力を奪ったように、伊達も戦う力を奪われる。
 それを避けるために、政宗は和睦を目指すはずだ。そのためには、人質に取られた最上の方を見捨てるわけにはいかない。


 それはつまり、松永が政宗に何かを要求するということだ。


 (領土じゃない。マツナガさんの領地は奥州から遠く隔たっている。経営できない領地を手に入れても、すぐに奪われるのがオチだ)
 第一この男はそこまで領地に執着していないように見える。
 彼が欲しているものが何かはわからないが、きっと通常では奪うことができないもの―――そう、例えば家宝とか。はそう当たりをつける。伊達の家宝が何かなど知らないが。


 一言に潜んだの意図を、松永は正確に読み取ったようだった。
 すなわち、が松永の計画に気付いたという事実。

 「くっ。くく、くくくく……ハァーッハッハ!」

 思わず、松永の肩が揺れる。
 伊達を、北条を、武田を、最上を、一揆を、全てを利用して罠を張った男は、愉快でたまらないとでもいうように哄笑した。
 はそれを微動だにせず見つめる。

 (マツナガさんの計画に俺は絡まない。取引に使える価値が無いからだ)

 ここが正念場だ、と腹を据える。
 利用価値のないは、何がしかの価値を松永に認めさせない限り未来はない。
 例え政宗の情人と誤解されるだけでは、政宗の動向如何によって嘘がばれる。
 それくらいなら、計画に気付いた人間として松永の興味を引くことを選んだ。が外との連絡手段を持っていれば松永はを殺しただろうが、監禁された状態なら松永はを殺しはしまい。むしろこの男なら―――松永久秀なら、いたぶるためにを生かす。政宗に執着しているが、罠にはまっていく政宗を助けられない無力感に苛まれる様を、笑いながら見ているだろう。

 (そこが俺の付け入る隙だ)

 政宗が死のうが生きようが、きっと自分は平気でいられる。
 なぜならの心を満たしているのはおかあさんだ。おかあさんとの思い出は誰にも奪えない、汚せない。
 おかあさんとの思いでさえあればは生きていけるから、政宗が死んでしまっても―――心は痛まないはずなのだ。
 は意図的に先程の混乱を無視した。


 『


 俺はきっと平気だ。
 だって俺には何もない。おかあさんとの思い出以外、価値も、プライドも、何もない。


 『守ってやるよ』


 何もない俺を二度も守る意味なんて、どこにもない。
 なあ、きっとお前は来てくれない。
 だから俺はひとりで自分を守る。大丈夫。



 俺はクラウン。いつだって、ひとり。


 種明かし!
 080705 J

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