二人分の刃のような視線を平然と受け流した松永は、その視線をの腕の中に落とす。細腕に抱かれたいつきの固く閉ざされていた瞼が、細かく痙攣している。目覚めが近いらしい。松永は酷く愉快な期待を覚えて、女たちに少女の目覚めを仄めかした。
 睫毛が震えて、子供の大きな目が徐々に開かれていく。覚醒にしばしたゆたっていた瞳が段々としっかりしてくるにつれ、いつきの表情は強張っていき、その視線が最上の方の上に止まった瞬間、幽霊でも見たかのようにいつきは甲高い声で悲鳴を上げた。

 「うあぁあ…ッ! オラ、オラは…!」
 「…っ、どうしたの、大丈夫!?」
 「ごめんなさい、ごめんなさいっ! 許してけろ…!」

 大粒の涙を滑り落とす。など見えてもいないようだ。
 一体何が起こった、は松永を睨みつける。
 この男が、いつきの変調と無関係であるはずがない。短い会話しか交わしたことがなくとも、彼の性状は嫌というほど感じ取れた。
 松永は意味のないことなどしない男だ。いつきをたちと引き合わせたのも、いつきの錯乱も、全てが何らかの意味を持つ。そしてそれらに対するたち(地位に伴う重要性を考えれば最上の方だろうが)の反応を、松永が予想していないはずがない。
 それらを全てひっくるめて、松永は一体何を企んでいるのか―――冷静に思考していたは、次の瞬間、いつきの告白に凍りついた。


 「オラは、毒を―――青いお侍に、毒を……!!」











  1 / 2 のクラウン! Sessantatre´ : warmth in the dark









 「………え?」

 の唇から、それはぽろりと漏れた音だった。
 言葉も思考も全て忘れたように、は茫然と腕の中の少女を見下ろす。
 それはまるで、生まれて初めて親の顔を見た赤ん坊のように無防備な表情だった。純粋な驚きはの時を止めた。不思議そうに首を傾げる。今聞いた言葉は、外国語だっただろうか。そんな声さえ聞こえてきそうな顔、
 (どく。どく、毒。 ど、  く  )

 誰が、誰に?



  政 宗 に?



 「……………ッ!」

 守ってやると言った、見捨てられるはずの己を守った、雪と血の中で頭を撫でた、お前は優しくないからと彼の奥底に沈めたものを委ねて、
 政宗。
 の手が、頭をかきむしるいつきの腕をふらりと掴んだ。
 幽鬼のように頼りない力で握る。

 「殺した の 」

 「政宗を」

 「政宗を、毒殺 し たの か…!?」

 ぎちり、爪がいつきの肌に食い込む。いつきがぼろぼろに憔悴した顔を更に痛みで歪め、思いがけず飛び出した息子の名前に仰天した最上の方が悲鳴じみた声を上げ、政宗との関係に知らぬ存ぜぬを貫いてきたの鬼気迫る様子に松永の笑みが深くなる。
 それらの全てを無視して、はいつきに食ってかかった。
 体が熱い。血液が沸騰するようだ。それなのに地面が消失したかのような心細さに悪寒がやまず、不安にも似た激情に胸が圧迫されて息苦しい。
 嘘だ。政宗が殺されたなんて、嘘だ。
 ありえないことではない、何せ時代は戦国。当主たる政宗を脅かすのは槍や刀だけではない。そうでなくても、人は簡単に死ぬのだ。狂気に落ちた母のように、命の期限を切られた千代のように、―――毒を盛られたら、人間ごときひとたまりもない。

 『
 嫌だ。やめて。俺の名前を呼ばないで。おかあさんを消してしまわないでほしい。おかあさんのように向こう岸に行ってしまわないでほしい!

 おかしな話だった。はクラウンだった。土地にも人にも情を残さず、ゆらゆらと漂う道化者だった。
 楽しいことだけ真珠のネックレスのように繋いで生きようと思っていた。誰かに心を縛られたら、悲しみや怒りとは無縁でいられない、だから誰にも心を預けず、住まわせず、Ciaoばかりを繰り返して生きてきた。
 後悔なんかなかった。その生き方に満足していた。寂しくない、とか、それが幸せか、とか、そんなものは余計なお世話だ。
 胸にしまったおかあさんとの記憶、それだけでは満たされて、誰かが住み着く余地なんかあるはずなかったのだ。
 はしあわせだった。しあわせだからきれいに笑えた。笑えたから、しあわせだった。

 そ れ な の に !

 糸が切れたように、は唐突に指を開いた。いつきの腕に赤々と掌の痕が残る。
 へなへなと脱力したは怖がる子供のように頭を抱える。
 無様なクラウンだった。
 自分から政宗の元を去ったのに、笑うことすらできないほどに動揺している。
 政宗なんか関係ないだろうと自制することすら忘れていた。
 ぽつり、震えた音が零れ落ちる。

 「いやだ」
 「いやだよう」
 「こんなの、いやだ…!」

 政宗にここにいてほしい。いてほしくない。無事で、いつもみたいにを鼻で笑えばいい。二度と会いたくなんかない。
 わけがわからない。政宗なんかに動揺させられるなんて。動揺なんか、するはずがないのに。





 子供のように手足を縮めた女を前にして、いつきはひくりとしゃくりあげた。
 いつきは目の前の女を知らない。に似ているが、は間違いなく男だった。それにが―――あの怖いが、あんなに鬼気迫って、こんなにちっぽけに縮こまるなんて。
 女に握られた腕が痛い。けれどそれ以上に、ひっぱたかれたような痺れがいつきを襲う。
 いつきがしてしまったことは、こういうことなのだ。

 いつきは政宗を殺してはいない。
 けれども、そんな否定の言葉は女の剣幕の前に凍りついて、何も言えなくなってしまった。
 向けられた剥き出しの蒼白な感情は、いつきから全ての反論を奪っていった。
 いつきがしたことは、それだけの絶望を彼女に与えたのだ。
 今更に、罪の重さを突き付けられる。
 真っ黒な淵の縁に立たされて、いつきは自分のために泣くことすら許されないことを知った。





 脳が揺れる。
 『政宗を毒殺したのか』と、キリエは確かにそう言った。
 今まで頑なに政宗など知らないと振舞い続けてきたキリエの嘘が露呈した瞬間だったが、それよりも最上の方は綴られた言葉に何じゃと、と悲鳴じみた声を上げた。
 政宗が死んだ? 殺された? こんな、子供の手で?
 かくり、膝から力が抜けた。手が、体が震えている。
 毒、毒、毒。政宗に毒を盛ったのか。さらさらと指の腹から落とした粉、熱く湯気を立てる料理たち、無言のまま開かれた唇、そこに差しのべられた箸。最上の方の脳裏に鮮やかに蘇った光景はいつかの冬のものだ。吐きだされた食べ物、雪を映した血刀、小次郎が吐いた最期の吐息、不自然な呼吸を繰り返す政宗の、輝きの鈍った凶眼!
 最上の方に一瞥を残した政宗は、ふらつく足でそれでも畳を強く踏みしめ、一歩、二歩と進んで崩れ落ちた。ひゅうひゅうと異常な呼吸を繰り返し、六本もの刀を操る指が畳を掻き毟っては毛羽立てていく。
 その手が喉に及ぼうとして、最上の方は弾かれたように立ち上がった。

 そのとき何を考えていたのか、最上の方は覚えていない。

 喉に伸びた指を、間一髪掌で止める。
 食い込む指の力に奥歯を噛んだ。この力で喉を掻き毟っていたら、毒ではなく失血であの世行きだ。
 政宗は、そばに最上の方がいることに気づいていない。意識が混濁しているのだろう。指先が徐々に冷たくなっていく。
 このまま放っておいたら。―――最上の方は、後方に転がる小次郎を振り返る。
 血の海の中で息絶えた小次郎は、政宗によく似た面差の、……否、彼は己似の政宗よりも、輝宗を思い起こさせる。
 小次郎、呼んだ声はか細かった。死んでいるのだから、当然返事などあろうはずもない。

 思い返すに、あの時の自分は酷く混乱していたのだろう。
 いくら気を強くもっていても所詮は女ということか。息子の死を前に、無意味な呼びかけを繰り返した。
 そうして何度目かの呼びかけで、ぼんてんまる、と。

 家臣を呼ぶために意図的に悲鳴を上げた。
 甲高い己の声に反応するように、政宗の爪が弱弱しく掌で震える。
 駆けつけた家臣たちが政宗を取り囲むのを他人事のように眺めながら、最上の方は何年も聞くことのなかった声を聞いた。

 貴女は本当に美しい、と。


 「違う!!」

 最上の方は激しく首を振った。違う、わたくしはそんなものではない。だって毒を盛ったのは最上の方なのだ。さめざめとなく少女ではなく、政宗を殺したのは、殺したのは、殺したのは!
 苦悶を浮かべる顔、吐きだした胃液の臭い、掌に刺さる痛み、弟を斬り殺した部屋で死にかけた政宗の喘鳴。そう、わたくしが毒を盛ったのだ。わたくしが。
 政宗は苦しんだだろうか(苦しんだだろう)
 政宗は寒かっただろうか(寒かっただろう)
 政宗は死んだのか(死んだのか!)
 最上の方は畳に手をついた。瀕死の政宗のように、爪が畳を掻き毟る。両手の間に死に顔の幻を見て息を呑んだ。

 「あ、…!」

 絶望的な声が出た。
 政宗の死、それこそが彼女の宿願であったはずなのに、どうしてかそれを受け入れられない。
 大切な宝物を砕いてしまったような喪失感が最上の方を襲う。





 闇の底のような空気に、ぱち、ぱち、ぱちと場違いな音が響いた。
 それは茶化すように、嘲笑うように幾度か繰り返され、脚本家にして唯一の観客は反応の薄い役者たちに無礼極まりない賛辞を贈る。

 「いやいや、なかなか面白い見世物だったよ」

 口許に笑みを刻んで松永は言う。

 「ここまで感動してもらえるなら、致死性の毒にしておくべきだったね」
 「………なん、じゃと…?」
 「この少女が独眼竜に盛ったのは、ただの痺れ薬なのだよ。しかも独眼竜は毒の皿を食らってはいない。残念ながらね」

 まだ独眼竜を殺すわけにはいかなかったのでね、と、悪びれもせず松永は言った。
 それを聞いた最上の方といつきは一瞬茫然とし、一拍置いて前者は憤怒を燃え盛らせ後者はぼろりと涙を落した。

 「松永ッ! 貴様、貴様が…!」
 「良かった、皆、それじゃあ皆生きてるんだな…!?」

 掴みかかった最上の方の手を軽々と避け、松永は侮蔑に満ち満ちた嘲笑を浮かべる。
 しかしその口が開く前に、言葉を飛ばした者がいた。
 幼児のように無防備なまま茫然とした、である。

 「どうして、」
 茫然としたの表情が徐々に険しくなっていく。
 視線はまっすぐに最上の方を見た。

 「どうして…どうして、貴女が安堵するのさ…!?」

 その言葉は、鋼の矢のように最上の方を射た。
 怒りを取り落として愕然とした最上の方に、今度はの怒りが湧き上がる。この人は政宗を殺そうとしたのに。
 しかし、怒りを感じるのと同時に狼狽してもいた。
 政宗の生死に、が動揺する理由などないはずである。ましてや―――ましてや、最上の方が取り乱す様を見て、政宗が羨ましいと思う理由など。
 にはおかあさんがいるのだ。
 おかあさんにあいされたは、誰かを羨む必要などない。なぜならはあいされたのだから。だから、政宗が羨ましいなんて、思うはずがないのに。

 が八つ当たり気味に吐いた言葉に刺された最上の方を松永が優しく諭した。
 捕食者の笑みが彼の唇を吊りあげている。

 「そういうことだよ、姫。姫には、奪おうとする気概が足りないね」
 欲しいのならもっと欲しがらなくては、
 「姫が望んだことだろう?」

 最上の方が、終わりを前にしたように凍りついた。
 満足げに鼻を鳴らした松永は、「そしてそれは君にも言えることだね」と首を巡らせていつきを見る。
 びくりと肩を震わせたいつきに、松永は紳士的に毒を囁いた。

 「人を殺す感覚は、どうだったかね」
 「………ッ!」

 例え誰も死んでいなくとも、いつきの両手は確かに毒を盛ったのだ。
 それが死を導かなかったというだけで、殺意を持って人の命を左右したことに変わりはない。
 いつきは声なき悲鳴を上げた。松永はそれを愉快そうに見つめると、やがてゆっくりとの方を見遣った。舌舐めずりする獣のようだ。最上の方に向けた険ある眼差しにも疲れたのか、は再び虚ろに座り込んで、まるで人形のように松永の動向にも傷ついた二人の嘆きにも反応を示さない。
 松永は手を伸ばすと、道化師の細い顎を捕えた。
 抵抗もなくその手に従った少女の乾いた瞳を覗き込み、松永は穏やかに話しだす。

 「キリエ――いや、それともと呼んだ方がいいのかね? 卿と話がしてみたい」

 来なさい、と手を引かれるままに、は大人しく従った。
 摩耗した心に一瞬政宗の声が聞こえる。相も変わらず茫然としたままだったが、本人すら気付かないうちに、顔を伏せたの唇は緩く綻んでいた。





 お前が生きていて、本当に良かった。


 ちょっと詰め込みすぎた感がorz
 でも書きたかったところが書けて満足です(悦
 080625 J

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