「さて。面白いことになったものだ」 子供が毒の小瓶を握り締めて去った後、老人はくつくつと嗤った。 脳裏に、三人の女の顔が浮かぶ。 一人は今しがたの子供。 一人は気高い貴婦人。 そして一人は―――… ただの道化師と言い張る少女を思い浮かべて、老人の嗤いは大きくなる。 さあ、卿らは、いつまでそのままでいられるかな。 1 / 2 のクラウン! Sessantuno : racket in the night X 白に埋め尽くされた視界を少しずらせば、深い青の鎧をまとった兵士たちの動きが手に取るようにわかる。 雪深い村で育ったいつきにとって、雪は気心しれた味方だ。 いつきはまるで忍のように見張りの目から身を隠し、伊達軍本陣に接近していた。雪をも溶かすような黒い炎が大きな瞳に燃え盛り、彼女の頬に凄絶な蒼い陰を浮かべている。 冷たい泥のように重い視線は、ひたすら竹に雀の紋を睨んでいた。 ここから先は、見つからずに接近することはできない。 (殺す。伊達、政宗…殺してやるだ…!) 懐から小瓶を取り出す。 特に装飾的ではないがつるりと滑らかな曲線を描く陶器の小瓶。蓋を開けると、塩のような顆粒がさらさらと瓶の底で揺れた。 いつきは慎重にそれを掌にこぼす。風に吹き飛ばされないよう握りこむ。まるで米ぬかでも握っているかのような細かい感触だが、反していつきには重く冷たい凶器を握り締めているような気がした。 空になった小瓶を捨て、いつきは覚悟を決める。 瞬きを、一回。 ―――殺す。 隠れていた雪塊の影から歩み出た。物見がいつきに気付き、大声で近くの兵士を呼ばわる。 何事かと近づいてきた兵士は、きょとんとした顔をした。 「嬢ちゃん、何してんだ? こんなところで」 今回の敵は農民とはいえ、いつきは女でしかも子供である。警戒心もなく問いかけた兵士の朴訥な顔を見もせず、いつきはぽつぽつと嘘を言う。 声が震えたのは怒りのためだ。きっと。 「…青いお侍さんに…話が、あるだ…」 声の震えをどうとったのか、兵士は多少困惑したが、ちょっと待ってな、会えるかどうか聞いてみるからといつきの頭を二三度軽く叩き、同僚を呼ぶ。 その頃には何人かの兵士がいつきに気づいていて、その中には先の一揆鎮圧に関っていた者もいたのだろう、小さく「あ」とか「あのがきんちょ」とか親しげな声が上がる。 しかしいつきにはそんなことはどうでもいい。彼女の目は忙しく周囲を見渡して、目当てのものを見つけた。 (あれが、青いお侍の鍋にちがいねぇ) 先程隠れていたときに目星はつけていたのだ。昼時を迎えつつある陣中では、補給班がいくつもの鍋を動員して忙しく立ち働いている。 寒さを凌ぐためだろう、煮立った汁物の鍋の中から一際立派なものを見つけたいつきは、それが政宗にふるまわれる料理であると確信する。冬の対陣で食料も節約しているのだろうが、政宗の食事はそれでも一般の兵士よりは数段丁寧で具も多い。見分けるのは容易だった。 空腹を装って鍋に近づく。 兵士たちはすっかり騙されて少しも疑いやしない。彼女にも飯をやってくれと頼む者までいる。まさかこんな子供が毒を盛ろうとしているなどと、想像すらしないだろう。 いつきはそれに何を思うこともなく、鍋の前に立った。 「おっと、その鍋は駄目だぞ。ちゃんとよそってやるから、大人しくしてな」 椀を山盛り抱えた補給班の兵士が軽く注意する。いつきは小さくうなずいて、湯気を上げる味噌汁を見た。他より多いとはいえ、具は少ない。 素早く周囲に視線を遣る。そ、と、握りしめた手をそれとわからないように突き出した。湯気がかじかんだ手に当たる。 手が死角になるように気をつけながら、いつきはそっと指を開いた。 小指、 薬指、 中指、 人差指、 さらさらさら、とあっけないほど簡単に白い顆粒は鍋に落ち、すぐに溶けてわからなくなる。 いつきはしばし放心したようにそのまま突っ立っていたが、はっと我に返って手をひっこめた。速足に鍋から遠ざかる。 入れた。 政宗に、毒を盛った。 天罰だ、と思う反面、心臓が早鐘のように拍動した。掌から零れ落ちていった感覚に身が竦む。 ふと、掌に粉の感触が残っていることに気がついた。 「………ッ」 総毛立ち、いつきは駆り立てられるように掌をこする。 快哉を叫びたいはずなのに、恐怖じみた焦燥がいつきを襲った。 (落ち着け、落ち着け! オラはやっただよ! オラは…!) 必死で繰り返す言葉が虚しく宙を回転する。それに気付きたくなくて、いつきは更に言葉をつなぐ。 今更、体中が震えだした。筋肉が強張る。 それでも間違ったことをしたとは、思わなかった。自分は間違っていないと、その考えに縋った。 寒さに震えたことのない子供が身を震わせていると、陣幕の中が何やら騒がしくなった。 そちらを見やると、謁見の許可を貰いに行った兵士が困り果てたように立ち尽くしている。 瞬間、一際大きく怒声が響いた。聞いたことのある声だった。 「いかつい、お侍さん…」 ぽろりと記憶がこぼれて、それからいつきは、矢も盾もたまらず走り出した。 止める手を振り切って陣幕に飛び込む。 「貴方は大将なのです!!」 途端に響いた大音声にいつきは思わず首を竦めた。 恐る恐る目を開くと、政宗に食ってかからんばかりの小十郎の背が映る。雪道を疾駆してきたのか、髪は乱れ、そこかしこに雪の塊が跳ねあげられている。 いつきに気づくことなく、小十郎は荒い声を上げ続けた。 「一揆を収めるは大事。反乱の芽を摘むも大事。しかし、それ以上に大将であるならば―――部下を、民を、見捨ててはなりません」 この国を背負うためには、と言う。 小十郎は噛みしめるように、 「命を見捨ててはなりません」 政宗は大将なのだから。 そう諌める小十郎の背中を、いつきは茫然と見つめる。 小十郎は政宗を糾弾している。 農民たちを殺すなと、そう言っている。 涙が出た。 小十郎は政宗の家臣だ。それが、主君を叱り飛ばしてまで全力で異を唱えている。 一歩間違えれば、切腹さえ免れまい。 それでも小十郎は、大声で言っているのだ。 いつきの前に―――立っているのだ。 目を見開いたまま、あとからあとから涙が出てきて止まらない。 怒鳴られた政宗はしばし茫然としているように見えた。言葉をなくしたように突っ立っているので、陣幕には小十郎が肩で息をする音だけが響く。 ふと、そこに小さな呻き声が生じた。目を遣れば、「いちちち、」という呻き声。陣幕の端の方に吹き飛ばされていた備品の山から天に向かって足が生えていた。これが湖面だったら犬神家だ。 ホラー映画もしくはアメリカ映画のヒーロー生還シーンのように手が生え、成実の頭が生えて、「小十郎テメエ、そんな拳どこに隠していやがった!」微妙にずれた憤りとは裏腹にとてもとてもとても嬉しそうな成実の笑顔はどういうことだろう一体。シリアスムードを返せ。 成実の弁護をすると、彼も小十郎の言葉が嬉しかったのだ。 留守居の命令を無視して馬を飛ばしてきた小十郎を止めようとしたら有無を言わさずぶん殴られたというのが犬神家の真相だが、そんな些細なことは成実の中でとっくに水に流されている。もちろん成実はMではないしどちらかといえばSだと常々言っているのだが、それはまあおいといて、小十郎が成実を殴って政宗を叱り飛ばしたというのはつまり、彼が己の立ち位置を決めたということだ。 小十郎の立ち位置は成実とはやはり異なったままだし、彼の理論は素直に受け入れ難いが、それでも腑抜けているよりずっといい。 (小十郎は、家族になることをやめたんだ) 諫言を聞いてそう思う。政宗は大将。若くても、青年ではない。小十郎がようやく納得したことに、仲間としての信頼感を覚える。 成実の参戦で一瞬とんちんかんな空気が流れた。小十郎は咳払いする。カムバックハードボイルド。 「政宗様」 じ、と主の隻眼を見つめる。そこに浮かぶ表情は不思議に頼りなく見えて―――小十郎は、傾ぎそうな心を制す。 甘やかしてはいけない。政宗は、天下を目指すと決めたのだ。自分はそのために身を尽くす。政宗が竜から人に戻るなら、それはもはや政宗ではない。 「此度の仕置き―――お考え直しください」 ぴん、と。 緊迫が張り詰めた。 小十郎は、政宗のこれまでの行動、これからの行動の両方に待ったをかけた。 息も詰まるような緊張。鞘鳴り、火の爆ぜる音。 政宗が太い息を吐いた。 「――OK. いいだろう、暫く進軍は見合わせる」 いつきの足から力が抜けた。知らず息をつめていたらしく、肺にどっと新鮮な空気が流れ込む。 流れ始めた和やかな空気を引きしめるように、政宗は間髪入れずに続けた。 「だが、連続する一揆に後手後手に回るわけにもいかねぇ。ましてや誰かの意図が見え隠れするなら尚更だ。―――小十郎」 「はっ!」 「Pursue and capture.(追跡して、捕えろ)お前の手で、一揆を止めてみろ」 「はっ、お任せください!」 晴れやかに請け負い、小十郎は彼が主に頭を垂れた。いつきはその光景をぼんやりと目に映す。 ふと、政宗が首をめぐらせ、ぺたんと座りこんだいつきに気づいた。一瞬隻眼を見開いて、政宗は「いつきじゃねぇか」と声を上げる。小十郎と成実も気づいた。 「Why are you here…ah-…」 思い当たったらしく、政宗の表情がすっと強張る。 「村のことか」 「………」 言葉もなく睨み上げたいつきの凶眼を、政宗は小揺るぎもせずに受け止める。 政宗が今何を思っているか、いつきには皆目わからない。しかし、例え反省しても、悔やんでも、いつきの村は戻らない。死者は蘇ったりしないのだ。 憎悪とすら呼べる塊を受けながら、政宗は緩やかに口を開いた。 「怨んでいいぜ」 それでも政宗は、領主としてやるべきことはやったと思うのだった。 反省しても悔やんでも、自分の判断に言い訳はしない。 それが政宗のスタンスであり、義務だった。怨むなら怨めばいい。憎悪を向けられるのは慣れている。人の上に立つ限り、誰かの命を握る限り、政宗はあらゆる激情の受け皿たらねばならない。 彼の荒ぶる竜のような性格からすれば、それは奇妙な生き方であるかもしれない。 いつきの口から、抑えきれなかった言葉が零れ落ちる。 「オラは、お前さんを……許さねぇ……!」 呪詛のような言葉が陣幕に満ちる。小十郎が息を呑んだ。 ―――が、成実は腹を鳴らした。 「………成実……」 「わ、悪い! ソーリー! でも不可抗力だ、だって飯時だぜ!?」 小十郎の声は地を這い額からは角が生えた。 しかし、霧散した緊張感はもはやどうしようもない。政宗は諦めたように息を吐くと、様子を窺っていた兵士に目で合図を送る。 「ごめん、殿…!」 「ったくテメェは…おい、いつき」 いつきはびくりと肩を揺らした。 「言い訳はしねぇ。だが、後悔もしねぇ。俺は進んでいく―――戦が、無くなるまで」 どの口が言う。政宗の宣言はひどく矛盾していて、信用ならないもののようにいつきには聞こえる。 いつきは冷えた眼で政宗を見返した。何も言う気はない。激情が絡まって、言葉にならないのだ。 政宗はいつきの反応を待っていたが、いつきが何も反応しないので、小十郎と小難しい話を始めた。成実はようやく運ばれてきた食事に歓声を上げている。 意気揚々と兵士から食事を受け取った成実だったが、ふと、いつきに目を止めた。真剣な目。 「あのさ。―――殿は、全部覚悟してるぜ」 それだけはわかってくれ、と言って、彼はいつきから視線を引き揚げる。それはきっと買いかぶりだと思いながら、いつきは侍たちの世界に背を向けた。お侍の理屈なんか知らねぇ。知りたくもねぇ。 だが、外へと向けた歩みはすぐに中断される。 「政宗様、お待ちください。毒見をいたします」 凍りついた。 弾かれるように振り返った先で、小十郎が汁物に手を伸ばす。椀には味噌汁が入っている。美味しそうな湯気が出ていた。 味噌汁には、毒が。 「………駄目だ!」 何かを考える前に、いつきはその身を走らせる。驚いた小十郎の手から椀を叩き落とす。 地面に具を撒いて、椀が立てる音だけが陣幕に響く。 一瞬で政宗が我に返った。 「…成実!」 最後まで言い切らぬうちに、猟犬のように動いた成実がいつきを地面に叩きつけた。背中に両腕を回され、一切容赦ない力でねじり上げられる。 いつきの喉から悲鳴が漏れる。 小十郎が陣幕を跳ね上げ、補給班に大声で何かを怒鳴っている。直後駆けこんできた彼は、政宗に何事かを短く報告した。痛みに喘ぐいつきの脳はその情報を聞き取れない。 耳元で、怒りを押し殺そうともしない成実が囁く。 「殿に毒を盛るなんざ…いい度胸じゃねぇか」 声の凶暴性にぞっとした。しかし、いつきとて負けてはいない。ぎっと政宗を睨み上げると、憎悪に彩られた絶叫、 「村の皆の仇だ!」 死んで当然だと思う。殺したい。どうしてあそこで止めてしまったのか。小十郎が死ぬのは嫌だった。どうして、よりにもよって小十郎が毒見など始めたのか。ああ、政宗を殺したかった! 成実に締めあげられて苦悶しながらも、ぎらぎらと睨み続けるいつきを政宗はじっと見る。 その唇が、肉食獣のように吊りあがった。く、と空気が吐き出される。嘲笑っているのか。誰を? 「poison(毒)、か…!」 喉を震わせて、政宗は天を仰いだ。 「政宗様、」小十郎が呼びかけると、政宗はすぐに視線を戻す。冴え冴えと、武将の光がその隻眼に宿っている。 「Hey,いつき。アンタ、どこで毒を手に入れた」 政宗は、もはや余計なことを聞かない。必要な情報だけを収集する。―――見限られた。痛み以上の怒りに身を震わせて、いつきは口を閉ざす。 「Response to me.(答えろ)」 「……!」 呼応して、成実が更に力を強くする。喉から苦痛が転げ落ちる。 小十郎の言ったことは、いつきには適用されまい。今のいつきは、民である前に暗殺者だ。 自分に牙を剥いた輩に遠慮はいらない。 「おめぇさんの…身から出た…錆だ…!」 「Ah-ha, OK, OK. 小十郎」 「はっ」 「牢の用意をしろ。見つからなかったら、どっかの土蔵でも構わねぇ」 拘束して、吐かせろ。 冷徹な声で告げる。小十郎は粛々と答えた。畏まりました。彼にもいつきを庇う理由はない。小十郎の一番は政宗だ。主君の命を狙った輩に同情はしない。 成実がいつきを拘束したまま立ち上がる。厳しい顔をした小十郎と視線を取り交わし、呼び寄せた兵士たちにいつきを引き渡す。 連れて行かれる間際、小十郎と眼があった。 悲しみと怒りをないまぜにした、それでもいつきを許しはしない者の顔だった。 |
変換なくてすみませんorz ようやくいつきのターン終了です。次からは夢主! ……多分…… 090605 J |
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