黒が視界を埋め尽くしている。
 暗闇は死体のように冷やかで、臓器のように生暖かく鳴動する。
 体の裏側を逆撫でする不愉快な風景の真ん中、ひとりぼっちでいつきは立っていた。
 否、立っているかなどわからない。
 何せ上下前後左右360度黒で塗りつぶされている。生き物が息を潜めるような、肚の底に沈めた本音のような黒は、それだけでいつきの気分を害した。

 気持ち悪くて吐き気がする。
 肌に闇が触れるような幻覚。
 誰かが、幾百対の目玉がいつきをじぃっと見つめていて、息を殺しているような妄想。

 嫌悪感に叫んだ、しかし声は闇が圧迫したかのように耳にも届かず、いつきは追い立てられるように走り出す。

 ―――――…………!
 ――――………………!

 ―――げらげらげらげら!

 唐突に、空気をたわませるような笑い声がいつきを取り囲んだ。
 上から、下から、右から、左から、誰かが嗤っている。いつきがもがく姿に口を歪め、泣きじゃくる姿を指差して、おかしくてたまらないとでも言いたげな嗤い声が、嗤い声が、嗤い声がする!

 「………っ!」

 何かに足元をとられ、いつきは受け身も取れず倒れこんだ。
 ぬるり。
 彼女の体を受け止めた闇は生暖かい。粘り気を帯びた液体から身を起こしたいつきは、光などないはずの闇の中で、それが、それらが何であるかを見た。

 ―――げらげらげらげら!
 ぬらぬらと浮かぶ、別々の方向を向いた目玉たち。苦悶の表情で固まって、まるで悪鬼のような形相となった見知った顔、顔、顔。
 だらりと垂れた舌の赤さ、皮膚の裂け目から覗く肉の色、白――骨の色。
 ―――げらげらげらげらげら!
 悲鳴をあげて後ずさる、しかし誰かの体だか頭だかを踏んで再び転倒、我が身を庇った腕に絡む糸――黒髪。
 引きずられるようにして血の海から浮かんできたのは、面影があるだけ一層無残な母の顔。
 全身余すところなく血に塗れ、いつきは音の無い悲鳴をあげた。


 ―――げらげらげらげらげら!










  1 / 2 のクラウン! Cinquarantanove : racket in the night V









 自分の悲鳴で目が覚めた。

 心臓が苦しいほどに拍動している。耳の奥の血流がそのたびに大きく震え、体全身で鼓動を刻むような感じがした。全身から吹き出した汗で気持ちが悪い。
 震える手を握りしめていた布団から離すと、くっきりと皺がついていた。うまく力の入らない手は白すぎるほど白く、見開いた眼でそこに一筋の赤も混じっていないことを確認した。

 「ゆ…め…!」

 聞き慣れた自分の声が鼓膜を揺らす。
 いつきは思わず脱力し、大きく息を吐きだした。

 おぞましい、夢だった。
 強烈な恐怖がまだ生々しく焼きつけられている。嗤い声の不協和音は耳にこびりついたままで、いつきは衝動的に耳をふさいだ。

 「夢だ…あんなの、夢だぁ…!」

 耳をふさいで言い聞かせるいつきは気付かなかったが、そのとき彼女の寝かされた部屋の障子がからりと遠慮がちに開けられて、女性が顔を覗かせた。
 女性は目を覚ましたいつきの背中にほっと肩の力を抜き、水を張った桶を持って部屋に入ってくる。
 耳を塞ぐいつきに戸惑った視線を向けた女性は、いつきの傍らにそっと座った。いつきはその時になってやっと女性の来訪に気付いた。
 いつきの目が自分を捉えたのに気付いて、女性は安心させるように小さく笑う。女性は若くはなかったが、優しげな雰囲気の人だった。けれども、いつきは彼女に、どこか悲しげな影を感じ取る。笑う時に少し眉頭が下がったせいかもしれない。

 「気がついた?」
 「あ…」
 「貴方ね、道で倒れたのよ」

 熱があったのよ、と、彼女は慣れた動作でいつきの額に手を当てる。鼻先を嗅ぎ慣れない匂いが掠め、冷たい感触が柔らかくいつきの額に触れた。
 いつきは思わず目を細める。まるで、昔、母が生きていた頃、風邪をひいたいつきにしてくれたような心地よさ。

 「もう大分良さそう……どうしたの?」

 女性に言われて、いつきは自分が泣いていることに気がついた。ぱたぱたと涙が落ちる。
 母を思い出した。優しい手、痩せた頬、農民の窮状を訴えた父に連座して、磔になった姿。縄目のあとがついた皮膚は紫を通り越してどす黒かった。子供が見るもんじゃないと遠ざけられても、一瞬見えた我が親の変わり果てた今際の姿は、忘れようとて忘れられるものではない。
 そう、先ほどの夢に出てきたあの顔こそ母の最期の、

 「……ッ!」

 大粒の涙がせりあがる。恐怖が、怒りがいつきの体を熱くして、叫び出しそうになって唇を噛む。
 声も無く震えるいつきを、不意に清潔な匂いが包んだ。次いで、規則正しく背中を叩く手。

 抱きしめられていることを知る。

 名前も知らない女性が慈しむようにいつきの小さな体を抱いて、想像もしないであろういつきの荒ぶる感情を受け止めようとしていた。
 とん、とん、と背中を叩かれるたび、ぱんぱんに膨れ上がった感情が緩やかさを取り戻す。女性が小声で歌っていた。子守唄。体に響く歌声に、別の感情が広がっていく。
 女性は、ひとしきりいつきが泣くに任せておいた。






 やがて落ち着いたいつきは、にこにこした女性―――ハルと名乗った―――の前で恥ずかしそうに顔を伏せた。

 「そ、その…ごめんなさい…」
 「あら、どうして?」

 ハルは丁寧にいつきを寝かしつけ、どうやら疲労で倒れたらしい、もうしばらく休みなさいと医者のように告げる。
 よどみない看病を受け、いつきははにかむように布団を鼻まで引き上げた。

 「……ハルさん、おっ母みてぇだ…」
 「あら。ありがとう」

 優しくいつきの髪を撫でながらハルは嬉しそうに笑い、そしてふ、と、目元にあの悲しげな影が差す。

 「ええ、母親よ…私は母親…」

 その言葉に滲んだ複雑な色を、いつきが捉えることはできなかった。
 深く、藍色を帯びて聞こえるというのに、ハルは悲しげではありながらも微笑んでいたのだった。
 瞳に悲しみを湛えたまま視線を向けられて、いつきは少しどきりとする。

 「ねえ、いつきちゃん。元気になったら、私の娘と会ってやってくれないかしら」

 私には娘が一人いてね。
 ずっと病気で寝ているから、友達がいないのよ。
 あの子とお友達になってくれたらとても嬉しい。どうしていつきがハルの望みを断れようか。

 一刻も早く政宗に会わなければと思う反面、ハルの望みを断るのは気が引けた。
 少し話をするくらいなら、と思ったいつきを誰が責められよう。
 敵に怯え、仲間からも孤立して歩んだ雪道の先、早く追いかけなければ村にも戦火が及ぶかも知れぬという焦燥を、ハルの温かさが妨げた。
 ハルの優しさはとても温かい。

 「オラ、行かなきゃいけねぇところがあるだ…でも、ちょっとだけなら…」

 ありがとう、と、ハルは涙の気配さえ漂わせながら感謝した。
 これでいいんだといつきは思う。

 ちょっとだけなら、大丈夫だ。










 二日後、いつきはハルの娘の前に立っていた。
 彼女の部屋まで案内してきたハルは、ここにはいない。ハルは襖に手をかけながら、そっと視線を下に向け、「いつきちゃん―――あの子を、よろしくね」と懇願した。
 その意味をいつきは測りかねていた。

 「あ…た…が、…つき、さん…」

 閉め切られた部屋の中、聞きとりにくい声がごくわずかに空気を揺らす。
 部屋は、ハルの匂いをより一層濃くした匂いで満ちている。息苦しいほど、清潔な匂い。しかしそれでも隠しきれない、不吉な影を感じ取る。

 それはひょっとしたら、死の影と呼ばれるものかもしれない。

 厚い布団から覗く首は静脈が浮いて見えるほど青白く、ハリもツヤもなければ生気もない。やせ細った体、丁寧に整えられた乾燥した髪、時折引っかかる弱々しい呼吸音。
 いつきとは反対側、外界から部屋を隔離する閉め切られた障子を見つめ、ハルの娘は横たわっていた。
 私の娘は千代というの。とても重い病にかかっていて明日をも知れない。
 少しでも長く生きられるようにとハルが願いを込めた娘は、時折呼吸をしなければまるで死体のようだ。

 「あ、ああ…オラが、いつきだ…」

 はじめまして、といつきは言ったが、千代はいつきに見向きもしない。
 あまりにも彼岸に近い千代の姿に慄いていたいつきだったが、その態度には腹を立てた。

 「おめぇさん…挨拶くれぇ、できねえのけ?」
 千代は長い沈黙の後、ぼそぼそと言った。
 「く、びを…」
 「首?」
 「……を、動かすの、も、疲…る、の」
 「………」

 いつきは無言で移動し、千代の正面に回った。
 すると今度は、意外に強く(といっても普通に比べれば小さく弱々しい)制止の声が飛ぶ。

 「やめ、て!」
 「え?」
 「さえぎらないで、…窓…! 私の空…!」

 いつきは慌ててその場を離れる。いつきが千代の視界を塞がないように座ると、千代は疲れ果てたように息を吐いた。閉じられた瞼にほっとする。千代が垣間見せた、得体の知れない淵のようなぎらぎらとした渇きに怯えたのだ。
 やり場のなくなった視線を背後に向ける。そこにあるのは確かに窓であったのだが、障子は隙間風も漏らさぬようにぴっちりと閉め切られ、障子紙を通して冬の弱い光が揺れるのみである。
 こんな、何の変化も無い光景に、千代はどうしてあそこまで執着するのだろう。
 疑問が顔に出ていたのか、引き攣るような音に振り替えると、自嘲とも泣き顔ともわからぬ顔で千代が喉を震わせていた。

 「……なたには、…からない、わ」

 投げやりな口調に、ちらちらと棘が見え隠れする。いつきはむっとして、「おめぇさん、」と問いかけた。「なして、そんな言い方するだ。オラのこと、嫌いなのけ?」
 千代はしばし沈黙する。泥沼のように淀んだ黒い瞳に見つめられて、いつきは居心地が悪くなった。千代の黒にはそれこそ千の感情が入り乱れ、いつきにはその複雑な糸をほぐすことができない。
 やがて千代はさも億劫そうに目を閉じた。乾燥した唇が動く気配は無い。
 しゃべるだけでも疲れるのだろう、それを差し引いても、千代の態度はいつきの神経を逆なでした。これがハルの娘だなんて信じられない。

 「おめぇさん、自分のおっ父おっ母にもそんな態度なのけ?」
 「………」
 「……ッ信じられねぇ。おめぇさん、ハルさんがどんなにおめぇさんのこと心配してるか、わかってるだか?」

 そんなことわかっている、と千代は思う。いつきごときに、そんなこと言われたくなかった。
 物心ついた頃から千代は病と生きてきた。そんな彼女をハルは懸命に看病してくれた。いよいよ最期が近くなった最近では、毎日泣いていることも知っている。千代の前では、無理して涙を見せないようにしていることも。
 けれど。

 (面倒くさい)

 それが、今の千代の本音だった。
 ハルに感謝している。その気持ちは本当だ。けれども、最近では彼女の献身がわずらわしい。終わりへと向かっていく身に涙を注がれても、千代には何も返せない。残されるハルを気遣うには、千代の余裕が足りなかった。生きたい。もっと生きていたい。どうして私だけが死んでいく。

 それに、と、千代は薄く視線をいつきへと向ける。
 憤慨する同年代らしき少女。健康な少女。彼女は部屋に入ったその時から、千代の癇に触り続けた。
 彼女は太陽に愛されて育ったのだと思う。これからも、そうやって生きていくのだと思う。



 自分が死んだあと、千代の代わりに彼女が両親の子供になるのだと、思う。



 そう思った瞬間、ひりつくような拒否を覚えた。
 嫌だ。ハルの子供は千代なのだ。千代が死んだあと、あっさりその場所にどこの誰とも知らないいつきが居座るなんて、絶対に嫌だ。
 死にたくない。消えたくない。千代はハルの子供でいたい。どうしていつきなんかがいるんだろう。もう両親は、千代を見限ったのだろうか。早く死ねと思われているのだろうか。この、新しくハルの娘になる子供は、千代なんか早く死ねばいいと思っているのだろう!

 「……どうせ、私は…死ぬもの…!」

 死にたくない。死にたくない。
 それでも千代は死んでいく。
 絞り出した返答にいつきが眉を吊り上げた。

 「そんなこと、言うもんじゃねぇ!」
 「でも…たしは、……死、…の、よ!」
 「おめぇさんは…!」

 いつきは、千代を殴りたくなった。千代がもう少し健康だったらそうしただろう。
 千代は卑屈な思考を繰り返すばかりで、周囲への思いやりが欠けているといつきは思う。甘ったれだ。千代は、自らの悲劇的な運命を嘆き、そのくせそれに甘えて、病弱を盾に周囲に当たり散らしているのだ。

 「早々と諦めるでねぇ! まだ、なんかできることがあるかも…」
 「…なたに、……何が……かるの!」

 千代はぜぇぜぇと荒い息を吐く。
 ぎらぎらと目を見開いて、力の限り叫ぶ。言葉を叩きつけることだけが、彼女に残された唯一の攻撃法だ。

 「あなた、は…! 何でも、持ってるくせ、に…!」

 未来を、健康を、思い出を。
 いつきを呪う。キリエを呪う。そしてそんな自分を誰より呪う。それでも妬む心は止まらない。

 千代の糾弾にいつきは怯んだが、ぐっと顔を上げて叫んだ。

 「おめぇさんだって、優しい親がいるでねぇか!」

 いつきにはもう、頭を撫でてくれる手は無いのだ。
 病の娘をずっと看病してきた親、それはこの乱世においては得難く、その優しさに包まれていることはとても幸せなことだと思う。

 「……オラの親は、オラがもっとずっとこまけぇ時分に死んだ。おめぇさんにはわからねぇかもしれねぇけど、飢饉と重税で首が回んなくなったから、お殿様に訴えに行って殺されただ。オラは、村の皆に育ててもらった。今、その村の皆が危ねぇ」
 「………」
 「オラは、村の皆を助けに行く。怖いけど、オラはやる。オラは皆を助けてぇから」

 いつきは立ちあがり、ぐっと千代を見つめた。千代は黒々とした瞳を向けるばかりで、いつきの言葉をどう聞いているかもわからない。
 ひょっとしたら千代には理解できないかもしれない。受け止めることさえ、しないかもしれない。
 踵を返し、いつきは襖へと近寄った。襖を開けようとした時、千代から最後の声がかかる。

 「まだ、足りないの?」

 未来があって、健康な体があって、思い出があって。
 それでも親が足りないと言い、仲間を助けたいと言ったいつきに対する、それが千代の疑問だった。健康に生きているというのにまだ求めるのか。未来があるのに、それでも死地に赴くのか。
 そうじゃねえ、といつきは言う。

 「オラは皆に居てほしい。皆がいなきゃ、意味がねぇ。だからオラは頑張る。―――おめぇさんには、そういう気持ちはねぇだか?」

 襖を開けると、新鮮な空気が肺に流れ込む。
 部屋の独特の匂いに慣れた鼻が戸惑い、ふと、いつきは理解した。この匂いは、薬の臭い。ハルが纏っていた匂いも。
 いつきは静かに襖を閉める。追い掛けてきた視線を遮断した。

 千代はここから出られない。少しだけ、彼女が哀れに思えた。


 いつき祭りw
 千代を書くのは好きです
 いつきと千代は絶対仲悪いだろうなあ
 090528 J

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