皮膚の感触も奪うほど冷え切った廊下を、黒地に金糸の刺繍を入れた打掛がするすると渡ってゆく。ところどころを障子越しのぼんやりとした陽光が照らしてはいたが、廊下は外気にさらされてはおらず、黒光りする板壁には明かりとりの燭台が設えられていた。 その後を追いながら、の頭は忙しく働いていた。 屋敷の構造。 どうやら城のような造りではない。しかし相当に広い。 に日本家屋の知識は無いが、武士階級が好みそうな家だと思った。防衛に適した死角が多く、鴨居には槍でも仕込めそうだ。後に知るが、事実この館は武家屋敷であった。 警戒ポイントと退路を頭に叩き込みつつ、は擦り傷のできた足を動かす。 今は木枠の枷は外されている。としては先ほど兵士たちを襲って壊すつもりだったのだが、前行く女によって鍵という真っ当な方法で外された。 (この人は、俺に何を求めてるんだろう) 彼女の思惑はどこにあるのか。は、松永と彼女の間にあったやりとりを思い出す。 政宗によく似た彼女は、貴族のごとく傲然と、猛獣の凶暴さを孕んでいた。 1 / 2 のクラウン! Cinquarantacinque : noble in the night T 「この娘の枷を外せ」 先刻牢屋の前で、彼女は哀れなほど縮こまった兵士たちに視線も遣らずいいつけた。は耳を疑う。 この女が相当な権力を持っていることは見てとれる。しかし、話の流れからすれば、この館の主は彼女でもの身の処遇を握っているのは松永だ。 それが証拠に、兵士たちは戸惑いを浮かべて松永を窺っている。 彼女から数歩離れたところに立つ松永は、大袈裟に肩をすくめて溜息を吐いた。 「構わん、外せ。―――しかし姫、心するといい。娘とはいえこの者は爪を持っているようですから」 「ふん、心得ておるわ。だが、この娘はわたくしがもらう。約束通りな」 約束? は訝しんだが、口を挟める立場ではない。 権力者たちは、一方は愉しげに、一方は苦々しく会話する。 眼光をきつく据えた女からは烈火のような感情のみが感じ取れるが、時折いたぶるような視線をこちらに向ける松永には底知れぬものを覚えた。まるで飴をねぶるような言葉は、女だけでなくにも向けられているのだ。その真意は未だ知れぬが、歓迎できるものではあるまい。 「はてさて、ご婦人方の手に負えるかどうか―――何しろ、この者は友通の右目を奪って見せた」 女の表情が凍りついた。氷像のような美貌が、更に研磨された刀のように剣呑になっていく。 「ああ、では、友通を護衛につけましょうか」 「……いらぬ!」 噛みつくように突っぱね、憎悪の籠った眼差しを向ける。松永は涼しい顔でその凶眼を受け流した。 形のいい唇から呪詛のような言葉が紡がれる。 「片目の男など見たくもないわ」 「そうは言っても、生憎長逸も正康も他に遣っておりましてな。片目とはいえ、友康ならば護衛には十分だと、ね」 「――それとも姫は、折角の小鳥を空へ返すつもりかね?」 女は歯噛みしているようだった。これ以上護衛などいらぬと喰い下がれば、を牢屋から出すことはできまい。あるいは、脚を折るなどの不穏な方向に進むかもしれない。 解放の目は無いようだが(は自分が攫われた理由は松永よりも彼女の要望によるものが大きいと見た)、このまま牢屋に留まるよりは女の意向に従った方がずっと良いと考えたは、はらはらしながら彼女の承諾を待った。 やがて女は、友通を居室には入れず廊下に侍らせることを条件に承諾した。 通されたのは、寒い部屋だった。 部屋には火鉢が並べられていたが、障子が全開にされているため雪の匂いの濃い冷気が畳の目にまで染み込んでいる。 寒さに弱いは思わず鳥肌を立てたが、女主人は気に止めた風もなく歩を進め、縁側に程近い円座の上にするりと座る。 傍らに火鉢があるとはいえその場所では寒かろうに、どうやらそこが彼女の定位置らしかった。 はどこに座るべきかわからなくなった。 こちらに来てから、上座に座る主に相対するにはどのあたりに座るべきかを学んだが、彼女の座った場所は床の間でもなければ上座でもない。 ええいままよとその場に腰かけたは、ふと、女主人の苛烈な眼差しに複雑な綾が滲んだのを見た。 まるで懐かしむような、期待はずれに落胆するような、深く褪せた色合いだった。 しかし彼女はすぐにその色をしまい込み、再び氷の温度を保った視線が投げ遣られる。 だがその一瞬で十分だ。の脳内で情報の欠片がぴたりとはまる。 つけ込む隙を見つけた。 「先ほどは助けていただき、ありがとうございました」 はうやうやしく頭を下げる。その頭の中では、「キリエ」の情報と「」の情報を分類し、「キリエ」の問いかけとして不自然でない程度に彼女を揺さぶる筋道が幾通りも組み立てられていった。 そんな思惑など知らぬ女主人―――最上の方、とは確信した―――は、鷹揚に頷いて見せた。 「構わぬ。わたくしもそなたに用がある」 松永の前例からろくでもないものを想像した、と誤解させるようにはその顔に怯えを走らせる。 それを額面通り受け取ったのだろう、最上の方は安心させるように微笑んだ、らしい。 というのも、彼女の微笑みは非常に不格好で、随分と長いこと笑うために筋肉を動かさなかったため笑い方を忘れたようにすら感じられた。 自分でもその無様な表情に気付いたのか、最上の方はさっとそれをひっこめる。 「長いことわたくしは笑っておらぬ。許せ」 「いいえ、そのお気持ちだけで嬉しゅうございます。それに、」 は憧れるように目を細める。 どんな無様な表情でも、最上の方が浮かべた表情は彼女の優しさの表出だった。 (女性のこういう優しさは、すてきだ) この優しさが、彼女らをいずれ母親たらしめるのだろう。 イタリア育ちとしてここを褒めぬ手は無い。キリエとして話しつつも反射的に褒め言葉を続けそうになっただが「よい」その言葉に被さるように拒絶が押し付けられる。 気が抜けて目を丸くするに対峙して、最上の方は戸惑ったような、憤ったような表情を垣間見せた。 しかし彼女はそれをすぐに押し込めて、「美辞には飽きておる」と高飛車な余裕を取り繕った。「それよりも、」 「キリエと言ったか。そなた、職は芸人であったな」 「その通りでございます。お望みとあらば、オカタサマの退屈など海の彼方に飛ばしてみせましょう」 きた、とは気を引き締めた。 権力者に侍る芸人は密偵を兼ねる。彼女らがキリエを政宗に近しい芸人と誤解しているのは確実だから(そしてこれは女芸人キリエではなくクラウンの場合であれば正解である。もっともは政宗の情報になど触れようともしなかったが)、尋ねられるとすれば政宗関係のことだろう。親子でありながら敵対している最上の方ならば尚更である。 親子で敵対、と反芻すると、は少し妙な気分になる。 現代での生活では、虐待だの近親憎悪だのといった話題に事欠くことは無かった。それは日本においてもイタリアにおいてもそうで、巡業先や裏路地では親に捨てられた、もしくは親から逃げた少年がナイフと注射器を弄び、少女が街燈の隣でスカートを翻し、赤ん坊が乳を求めて泣いては干からびていった。 同情は不思議と湧かない。 の彼我の区別は冷酷だ。そういう子供たちがいると知っていても、彼にとって彼らは所詮他人である。 十分にあいされたと自認するは、その自信ゆえに誰かとの比較をしようとしない。 その狂信が彼を真実から盲させ、正気を保たせているのだから皮肉な話だ。 最上の方の唇が開くのを見ながら、政宗についての質問であろう続きを幾通りも予測する。 しかしそれは「キリエ」に答えられるものではない。キリエは藤次郎と面識があるが、藤次郎が政宗であることに気付く立ち位置にはいないのだ。 いかに人違いを信じ込ませ、始末されるのではなく解放へと持っていけるか考える。 これが松永であれば至難の業だが、女であることを理由に兵士たちの乱行からキリエを庇った最上の方ならばなんとかなるかもしれない。(武家の女でありながら、彼女にちらちらと女性尊重の影が見える理由はよくわからないが、ひょっとしたらプライド故かもしれないとあたりをつける。最上の方は、いかにも誇り高そうだ) しかし続けられたのは、の予想した問いではなかった。 「ならば、わたくしの無頼を慰めてくれるか」 「はっ…?」 思わず問い返したに、貴婦人の緩やかな声が絡みつく。 「そなた、言うたであろう。わたくしの退屈を紛らわすと」 「は…はい、喜んで」 椿色した唇の裏側に飴を隠すように語り、苦手だといったその顔が艶やかに含み笑う。 政宗近くに侍っていた芸人はキリエであると、何かの報告にあったのだろうその情報を彼女は鵜呑みにしているようだった。 は確信する。 (俺から探る気は、無い。俺に何かをさせるんだ) それが何かはわからないが。 何ということだろう、松永より少しはましとはいえ、最上の方も油断はならない。 最上の方は、芸人として当然の答えを引き出すように問いかけた。 政宗との関係を問われているわけではないので、彼との無関係を主張することもできない。しかし彼女は、キリエを政宗に近しいものと信じている。 いっそ演技をやめて、の記憶をキリエにトレースしようにも、松永にしらを切った手前身の危険がいや増すだけだ。キリエとして舞台に上がったからにはキリエで押し通すしかない。観客は、キリエではなくこそを見ているのに。 (落ち着け。機会を見つけろ) キリエとして政宗との無関係を主張する機会はきっとある。 何をさせられるかは不明だが、政治闘争、権力争い、暗殺などに関わる気はさらさら無いである。友通という護衛によって脱出が事実上封じられた今、その機会をひたすら待って、機会が巡りきたらば逃さず主張し、最上の方を丸めこまなくてはならない。 それは途方もなく遠い道と、思われた。 |
早々に松永さん退場w。 いっそ最上篇にするべき? 090312 J |
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