私があなただったなら。 そう言って、千代は泣いた。 所詮は他人であるは、親やら医者やらで緊迫感を増していく千代の家を辞去し冷え切った通りに出る。 人通りはほぼ絶えていた。僅かな人の気配も、暗灰色の空から零れ落ちるような牡丹雪に呑まれてしまっている。 傘も差さないの肩に雪が落ちては体温に溶かされて滲んでいく。随分と大きなひとひらだ。しかも常にないほど水っぽく、べしょべしょとした雪の中を歩けばあっという間に濡れ鼠になるだろう。 は歩かなかった。 歩く気力など残っていなかった。頭が、理解の限界点を超えたように飽和している。 (ああ、―――政宗に会いたいな) 無意識に、思考はあらぬ方向へと飛んだ。 千代が幾千の言葉を尽くしても、千代が百万遍泣き伏しても、の心に届くはずはなかった。 は筋金入りの流れ者だ。よそ者であることに慣れた彼にとって、他人の悲劇はどこまでいっても他人の悲劇なのである。 余命幾許もない千代に同情したかと問われれば、は今も首を振るだろう。 しかし、今まで通り彼女を素通りできたかといえばそうではない。 自由に生きていけるのに、そう呪った千代のぎらぎらとした双眸が、反発と困惑となってわだかまっている。 それがどういうことなのか、考えるのは面倒だ。 突き詰めていけば、とても嫌なものにぶちあたる気がする。 いやだ、そんなの。 面倒事は嫌いだ。不快なものは嫌いだ。痛いのも、悲しいのも、全部全部嫌いだ。 クラウンには快楽さえあればいい。その他のものは全て投げ捨て、逃げ、見ないふり知らないふりを決め込む。 それでこそ常に哀歓の波を軽やかにかわして漂っていけるはずなのだ。 それでこそなにものにも縛られず自由で、幸せであるはずなのだ。 愛情に満たされた記憶だけ持って、満たされたまま楽しさだけを追い求めて生きれば。 (俺は、しあわせ。しあわせで、自由―――) 主張するにはあまりにも弱々しかった。 ずっとそう信じてきたはずなのに、まるで自分に言い聞かせるような言葉は触れれば消える雪のひとひらのように頼りない。 寒かった。 ここは、とても寒かった。 雪の中に立ちつくすの唇は既に色を失い、肌は寒さを通り越して痛みを訴えている。 しかしそんな身体的な寒さではなく、彼を凍えさせたのは温かくも縛られてもいない、からっぽの心だった。 縛るものがないことを自由と言うなら、は確かに自由と言えるだろう。 彼の中に息づく人間は死んだ母親その人のみで、他の人間とのしがらみは全て切り捨てるなり無視するなりしてきた。 俺はおかあさんだけでいい、そう思っていたから、寂しいかと問われてもは元気に首を振った。 けれども、今。 その自由を厭わしく、思った。 寒いと、誰か欲しいと望んだ。 自分で切り捨てた隻眼に手を伸ばして、途中で気付いてその手をおろす。 駄目だ。 を支えるのは母で、救うのは母で、一番大切なのは母なのだ。 政宗なんかにとって代わられるのは嫌だ。 母の記憶に手を伸ばす。そうすれば幸福の確信は深まるはずだった。 おかあさん、俺はしあわせだよね。 記憶の中の母は慈しむように微笑んでいて、その虚ろな瞳を細め血飛沫の飛んだ唇で囁いた。 あいしてるわ、。 1 / 2 のクラウン! Cinquarantatre´ : あめゆき V 「気がついたかね」 その一言で覚醒した。 ははね起き、周囲に視線を走らせ、状況を把握する。 そっけない和室、頑丈な木の格子、座敷牢。窓はなく灯もない。武器になりそうなものもない。かんざしを仕込んでおいた濡れた着物はいつの間にか着替えさせられている。気絶していたのか。しかも人の手が触れてもわからないほどに深く。恐怖に彩られた苦々しい思いを抱いたのは一瞬で、すぐに思考が感情を押し流していく。感傷に浸っている暇など無い。両手足に嵌め木の拘束。縄なら縄抜けできたのに。外傷は一ヶ所を除いて特にない。思考クリア、循環器系に問題なし。視覚聴覚触覚嗅覚問題なし。は目の前の具足に包まれた脚の先を上目遣いに見上げる。十中八九、こいつが攫って拘束した。猛禽類のように鋭い目。顔に見覚えはない。必要とあらば腰の刀を抜いて呵責も覚えず人を殺す男だ。隠しているが火薬の臭いがする。 そして何よりも異様なのは、男から滲み出る異質な雰囲気。ねっとり絡みつくようで、ざらつく悪夢のような。 これは悪いものだ、と本能が総毛立つ。 一呼吸の間に、は第一級の警戒モードへと突入した。 それを見下ろす男はやたら沈痛な溜息を吐く。 「卿は、礼儀というものを知らんのかね」 「育ちが悪いものでね」 「卑賤の者でも、雪の中に倒れていたところを助けられれば感謝の意を示そうに」 「それはどうも。―――でも、親愛ならもっと優しくしてくれなきゃ。女に嫌われるよ」 これじゃあ、とは拘束された手で後ろ首を指し示す。 鈍痛を訴えるそこに手刀を落としたのが目の前の男であれ彼の部下であれ、はにやりとあてこすった。 男は愉しげに目元を歪める。 「すまないね。高嶺の花を前に、少々焦っていたようだ」 「発言矛盾してない?」 「矛盾などしていないさ。竜の姫君」 男は膝を折り、籠手をつけた長い指でもっての顎を持ち上げた。睫毛の影さえわかる近さ。もっとも室内に光源など無かったが。 暗闇の深淵から覗きこむ亡者のような視線に背筋が粟立つ。 「わたしは、そんな大層な身分じゃない。ただの芸人だ」 何が目的だろう。 姫と呼んだからにはを女だと思っている。攫われた時キリエになっていたからだろう。 しかしそれでは、わざわざ政宗をほのめかす理由が無い。キリエと政宗が相対した回数など数えるほどだし、大した交流もないから政宗相手の脅迫材料にもなりはしない。それはでも同じこと。 は所詮旅芸人だ。 一国の主相手に何かを仕掛けられるほどの価値はない。 男は、の震えを隠し切れていない主張を無視して問いかける。 「友通がつけた傷は、癒えたかね?」 一瞬何のことかわからなかった。 は呆けた表情で男を見つめ返す。男は愉しげにそれを観察している。さあ早く思い出せと言わんばかりの表情。 傷。 瞳に理解が宿るのを必死で抑えた。 呆けたままの表情を一分たりとも動かさず、の脳裏に白と赤がぶちまけられた。 雪深い戦場。奇妙な面をつけた槍遣い。肌を裂いた銀色の穂。 恐怖ばかりの白い世界で、自分の前に立った青い背中、 「なんのこと?」 政宗の存在を掘り起こそうとする男にあえてとぼけてみせる。 彼の目的が何か知らないが、気持ちのいいものでないことは本能的に察せられた。強い反発がわいてくる。 本当は、反発などしない方が良いのだ。 はあくまで流れ者である。自分の身の安全のためならともかく、政宗に義理を通す必要も男に嘘をつく必要もないのだ。 反発は何かに囚われているから起こるもの。 それを理解していても、不思議と偽りの仮面を脱ぐ気にはならなかった。 男はじっとを見ていたが、何も知らないという態度を小揺るぎもさせないにふ、と唇を釣り上げた。 いいだろう。 小さな顎から指を引く。まるで慈しむようにゆるゆると、絹が肌を滑り落ちるように時間をかけて。 「―――卿に興味が湧いたよ」 まるで睦言のように甘い囁きなのに、死刑宣告のように聞こえるのが不思議だった。 甘い毒薬を滲ませ、男は柘榴のような口をねとりと開く。 「強くありなさい」 踏みにじってやろう。 続けられない言葉の先に、男の本質を見た気がした。 |
伊達篇終了。 ややこしいことになってきたorz 081231 J |
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