(Addio. Addio, addio, addio, addio) 簡単に口唇に乗る言葉のはずだった。 心を揺らすこともなく、目頭が熱くなることもなく、笑顔と共に言い捨てることのできたもの。 さよならは、呼吸と同じく告げられるもの。 流れるままに生きていくなら、さよならに心を囚われてはいけない。 は奥歯を噛みしめる。親の仇を見るように、踏みしめられ泥がまじった雪を睨みつける。 Addio, 声に出さずに呟いた。 目の前に、縋る形の手を伸ばした政宗が浮かぶ。 Addio! 俺はお前の苦悩なんか知らない。関係ない。頭に載った手の重みを覚えている。振りきるように頭を振った。政宗の面影が消えない。独眼に傷ついた光が宿るのを知りながら視線を引き剥がしてきたのに、まるで目を置き忘れてきたようだ。 (いやだ) こんなのいやだ。 どうして政宗なんかが浮かぶんだ。 俺はおかあさんのあいで満たされて、足りないものなんて何もないはずなのに。 これじゃあまるで、――― そこから先を、言葉にする前に押し潰す。 雑踏の中で立ち止まる。喉が塞がれたように痛くて、目の周りに熱が集中した。 じわじわと瞳から溢れ出ようとするその感覚をは厭った。何だこれ。気持ち悪い。わけがわからない。 思考は過熱して、ぐちゃぐちゃだった。ひたすら困惑と嫌悪感に沸く彼は、自分が泣きそうになっているということに終ぞ気付かない。それも当然かもしれない、が最後に泣いたのは、本人さえも思い出せない遠い昔のことであったから。 Addio, 何度だってその言葉を繰り返す。Addio,奥州。Addio,元信。Addio,成実。Addio,小十郎。 Addio,――――まさ、 守ると言った。血刀下げて戦った。無事で良かったと頭を撫でた。寂しげに笑った。 そのどれもが、の宣言を妨げる。 さよならを繰り返せば断ち切れるはずだった。 あやとりのように絡んだ糸は、さよならのハサミで切り捨てられ、軽い体一つでどこへでも行けるはずだった。 それなのに。 さよならを繰り返すたび、囚われていくようだ。 息苦しさに身が震える。母を思い出す時とは違う苦しさに、は細かく震える手で頭を抱えた。どくどくと血が巡る音が聞こえる。 (ちがう。ちがうよ、おかあさん。俺の心には、おかあさんしかいないよ。おかあさん以外の誰も、俺の心には踏み込まない。踏みこませない。誰もいらない。何もいらない。おかあさんと、おかあさんがくれたあいだけで俺には十分なんだ。一生分のあい。だからもう誰も、何もいらない。何も欲しくない。出て行け。お願いだから出て行け。俺の中から消えろ、消えろ、消えろ! こんなの知らない。お前のことなんかどうでもいい。いや。いやだ。おかあさんの場所を取るな。お前なんかいらない。おかあさんさえいればいい。Addio. Addio, addio, addio, addio,) 「Addio!!」 行かなくちゃ、とは思う。 大声に驚いた雑踏、ぽっかり開いた空間の中心で、は固く決心する。 (この国は、危険だ) 自分を支えてきたものが、じわじわと侵食され、崩されていく気がした。 おかあさん、は必死に母を思い出そうとする。いっそ凶眼とすら呼べる独つ眼を押し込める。しかし完全に押し込むには、その凶眼は暖か過ぎた。 ふと気付く。割れたガラスのように鋭利な母の記憶を握りしめて血だらけになった手にとって、奥州での記憶は柔らかく染み込むようで―――その心地よさに、悲鳴を上げた。 手放したくないと思ってしまう。去ることを、嫌だと思ってしまう。 こんなにも怖くて、逃げだしてしまいたいのに。 途方に暮れ、涙の零れない瞳を困惑に染めたは、ふと鼓膜を揺らした音にのろのろと顔を上げた。 情けない表情のまま振り返ったその先、まるで座敷牢か何かのような格子窓の向こう側で、蒼白な少女が偽りの名を呟いた。 1 / 2 のクラウン! Cinquantadue : Addio U その時その人を見つけてその名前を呼べたのは、奇跡に近かったと千代は思う。 寒い。苦しい。気持ち悪い。何より体中が鉛で締めあげられていると思うほど緩慢な鈍痛に侵されている。 けふ、と咳きこむ。喉が痛い。肺が痛い。痰が引っ掛かっているせいで、ひゅうひゅうと細かった呼吸が不吉な濁音になる。ああ、息をするのも億劫だ。 こんな状態で、窓の向こうにキリエを見つけ、思うままにならない体を引きずり起こし、声を届かせることができたとは。 「キリエ…さん」 「うん、ここにいる」 渋る両親に懇願し、キリエを部屋に上げてもらった。 近頃水しか飲んでないから痩せ細り、熱で不自然にむくんで見苦しいだろうがもうそんなことはどうでもいい。 (これで、最期かもしれない) 自分の体のことは、自分が一番よくわかる。 今まで何度も危ないと言われてきて、いくつもの峠を命からがら越えてきたが、今回は本格的に危ないだろうとどこか他人事のように千代は思う。 体に、最早ほとんど命が残っていないことを感じる。 目前に迫った死に、底なしの恐怖を覚える。絶望が血液と一緒に体中を巡っているようで、あまりの運命に怒りにも似た嘆きを抱いた。どうして私だけこんな目に。 しかし生きている限り付きまとうであろう病苦から逃れられるなら、と投げやりな歓待の気持ちも心の隅には間違いなく存在していた。 千代は相反する気持ちを噛みしめ、細い四肢を厚い布団に横たえてただ時を数えるしかできない。 生き延びられるかどうかは彼女の生命力にかかっており、できることは何も無い。 キリエが濡れ手拭で千代の額に浮かんだ汗を拭う。 ひやりとした、柔らかい掌。久しぶりに会ったキリエは、痩せこけた千代とは何もかもが違った。 千代の胸に言葉になる前の激情が爆発する。怨嗟とさえ呼べる羨望。 (どうして私なの) どうして私は病気なのだろう。千代の人生は病と共にあった。彼女の世界は闘病のための自室で、彼女の生きた時間のほぼ全ては病の臭いが染みた天井に拡散した。 寝込んでばかりだった千代の手足は衰えている。伸びやかなキリエとは比べるべくもない。千代にはそれが妬ましい。 どうして私は病気なのだろう。私だって歌い、笑い、走り、この小さな部屋を飛び出していきたい。泥だらけになって遊びたい。雪の冷たさに身をすくめ、霜やけを作るまで外にいたい。人と出会い、普通の娘のように恋をして、泣いて、笑って、老いて、何かを残して死んでいきたい。例えば血を分けた家族とか、例えば誰かの記憶とか。部屋に籠りきりの千代にとってそれは夢のまた夢だ。 もしキリエのように健康な体だったなら。私がキリエだったなら。 (生き、たい) どこにでも行ける手足で。強健な肺で。健やかな体で。 それさえあれば、何だってできるのに。 は、荒い息を吐く千代をぼうっと見ていた。 千代は必死に生きようとしている。まるでぬかるみから抜け出そうとあがく蟻のように、ちっぽけな体で脇目もふらず。 どうしてか、その姿は正視に堪えないほどに美しい。 死に臨んで穏やかな人を見たことがある。厳かに終わりゆく命を見つめるその眼差しはとても凪いでいた。 対して、千代は達観などしていない。それがために、鬼気迫る美が宿るのだろう。 千代は生きることただ一つにしがみついている。 その脇目もふらない迫力は、混乱するを圧倒した。 「いいなあ」 気付くと口から零れおちていた。 目は千代に向けたまま、その実何も見てはいなかった。はただ、自分の裡に籠っていた。 それが証拠に、信じられないものを聞いたとばかりに目を見開いた千代が、己を凝視しているのにも気付かない。 「願いごとなんてなかったのに」 虚空に弾けるフラッシュバック。政宗。守ると言った。微笑んだ。 包丁を振りあげ、幸せそうに愛を呟いた母が全てだったはずなのに。 「もう、わからない」 心は、一つのはずだった。母の愛に満たされて、最早何もいらなかったから迷いも悲しみもなかった。満たされないがために生まれる苦しみなどとは無縁で、ずっと笑っていられた。 それなのに今、苦しくてたまらない。 笑ってさよならを言おうとしたのに、口も目元もひきつった。 一生懸命笑おうとするなんてどうかしている。笑顔は呼吸と同じく簡単に作れるものだったのに、これではクラウン失格だと思う。 団長の言葉は正しかったのかもしれない。 団員全員からの太鼓判にも関わらず、頑なにステージデビューを拒んだ彼が言った言葉は「笑い方も知らないガキのくせに」。それはこういう事だったのだろうと思う。どんな状態でも笑えなければクラウンではない。迷いなんて投げ捨て切り捨て押し込めて、見事に笑わなければならない。それなのに、とうに制御していると思っていた心は、ここにきて暴走を繰り返す。 満たされていたはずだった。 けれどもまるで、何かを願うような心の動き。 クラウンに願いごとなんかいらないとは思う。そんなものあっても邪魔なだけだ。 満たされないと嘆く顔に用はない、クラウンに必要なのは笑顔だけだ。 だからこそ、奥州を去ることを嫌がる自分に戸惑い、充足の象徴たる母の思い出を覆おうとする政宗に苛立った。 何かを求めたくなんかなかった。満たされたままでいたかった。あえて言うならそれが唯一の願いだった。それ以外の願いごとなんて、いらなかった。 「………なん、ですか、……そ、れ」 だからは自分のことに手一杯で、打ちひしがれ瞬時に沸騰した千代の心に気付けなかった。 自分がわからなくなったから、一切迷いのない千代を羨んだ。それがどれだけ残酷な言葉か考えもせずに。 「わたし、が、うらやましい……?」 は自分勝手な人間だ。彼の世界には自分と母しかいない。 線を引いて峻別するから、他人に同情することも思いやることもない。 「走れもしない、騒げもしない、そんなこと望めも、生きてさえいけないわたし、が……!?」 怒りで目の前が白くなった。肺が焼けるように痛い。体がぶるぶる震える。これは病のためか、憤怒のためか。 千代はか細い指で布団を握りしめる。キリエは突然怒り出した千代をぼうっと見ている。ふざけるな。 「ばかに、しないで…っ!」 ぎり。爪が畳に食い込む。正座したキリエの脚に縋る。千代に、体を起こす力は最早残っていないのだ。 慌てて抱き起こしたキリエをギッと睨みつける。腕を伝い、肩を掴み、喉に手をかける。途端、病人の力を考慮しない力加減で振り払われた。畳の上に受け身も取れず倒れ伏す。 激しく咳きこんだ千代は、涙の滲んだ目をそれでも上に向けた。戸惑ったようなキリエの顔。立ちあがっていて、這いつくばって見上げるには高い位置にある。ああ、なんて健康な体だろう。立つことも、走ることも、何をすることも可能な体。羨ましい。千代の手足は自分を庇うことすらできないのに。 「おチヨちゃん…?」 「さわ…ない、で!」 キリエが助け起こそうと手を伸ばす。ぜひゅうぜひゅうと荒い息を吐きながら拒絶した。誰がこんな奴に。 馬鹿にしているのだと思う。きっとキリエは、病み衰えた千代を憐れみ嘲笑っていたのだ。こんなに醜くなってかわいそうにねと、親切ごかしたいい人面で今まで千代と接していたのだ。死に逝く千代に同情し、優しい自分に酔っているのだろう。キリエは千代に、千代がどんなに願っても手に入らない全てを見せつける。どうだ羨ましいだろう。お前には死んでも手に入らないもの。願いごとを抱く自由。 死んでしまえ、と千代は思う。 「ど、し…て、私なの」 生きたい。健康な体で、どうでもいいことで悩んで、小さな願いごとを積み重ねて歳をとりたい。 千代にはどうあがいたってできないことだ。 ひび割れた唇から泥のように怨嗟が漏れる。病の臭いのする部屋にそれは広がり、ねばつきながらキリエの耳に届くだろう。 「私、が…あなた、だったら」 瞳に宿ったのは、紛れもない憎悪だった。 鉛のように重い手で、動かないキリエの足首を掴む。細く、強靭な筋肉のついた足首だった。力強く大地を蹴るための筋肉。爪を立てる。ぎりぎりぎり。 傷をつけられるほどの力は残っていなかった。千代にはそれが悔しくて妬ましい。 「あなた、だったら…ッ!」 まるで願いごとを抱くのを厭うようなキリエの言い草。願いごとなんてなかったのに。なんて傲慢な台詞だろう。そんなのは願をかける未来があるから言えるのだ。 千代には、そんなもの無いというのに。 「ずるい。ずるい、ずるいっ」 酷い話だ。不公平に目眩がする。急激に上がった血圧のためか、耳元で鼓動がばくばくやかましい。手足は冷えて感覚が消えつつあり、掴んだ足首の温かさが恨めしかった。 千代は涙をぼろぼろ零し、憎悪で歪んで酷い顔をしていた。激しく咳きこみつつも言う。 「あなた…っは、どこにでも、行けて…ッ! 何でも、でき、の、に……!」 「自由に生きていけるのに……っ!」 何かを願うことも、それを叶えることもキリエには可能だ。 千代は呆けたキリエに凄まじい怨嗟を叩きつけ、次の瞬間、喉が焼き切れそうな咳にのたうった。骨と皮だけの背中が痙攣する。 朦朧とする意識の中で、憎悪だけが激しく燃える。 糸が切れたようにぐったりとした千代に、慌てて彼女の両親を呼んだは、意識の混濁した千代が何か呟いているのに気づき耳を澄ます。 虚ろな視線を投げだし、小さな唇はどす黒い呪いを紡いでいた。 |
あえて最後の千代の台詞は書きません 千代には恨み言を言わせようと決めていた 081215 J |
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