冷たい白の峠の向こうで、悲鳴が弾けた。

 「何事だ!?」

 及び腰の農民兵を峰打ちで気絶させ、小十郎は先鋒に叫び問うた。
 幾つもの戦場を踏んだ身だからわかる、あれは断末魔の悲鳴だ。殺すなと言ったのに、小十郎は歯噛みした。
 開戦直前の軍議で、政宗は言ったのだ。

 相手は窮した農民であって武士にあらず。殺すべき相手ではなく、生かすべき相手。

 その決定に小十郎は賛成だ。畑を耕すものとしての共感もあるが、民を第一とするその考えに彼は心服しているのである。
 もっとも、一揆衆とはいえ武器を持った兵士である。戦場ならば死人は当然出るであろうし、完全に無血の制圧など所詮理想でしかないことは政宗とて承知だろう。
 しかしその上で、できる限り殺すなと、政宗はそう言ったのである。
 そのため、攻め手となった軍は伊達軍の精鋭を選りすぐることになり、農民相手にやむを得ず殺傷という事態にはならなかった。

 それが、今。
 響いてくる悲鳴は一つ二つではない。次々と峠を越えてくる農民兵は、背といわず腹と言わず刀傷を負い、青白くさえある足元に点々と血痕を残している。
 それは突撃ではなく、潰走だった。

 (まさか先鋒部隊が!? いや、奴らにはよく言い含めてある。それに突然殺傷に走るのはおかしい)

 よほどのことがないかぎり、農民相手の戦なので手加減をする余裕があった。
 もし農民たちが秘密兵器を持っていたのだとしても、同じ農民を傷つける道理が無い。

 (何だ、何が起こっている!?)

 雪崩れるように逃げてきた農民たちは、刀を持つ小十郎たちに更に怯えた悲鳴を上げる。
 眉を寄せて訝しんだ小十郎は彼らをかき分けて進み、そしてそれを見た。

 「なん…だ、テメェは……!」

 湧き上がる憤怒の声に反応し、農民兵と伊達兵の血の中心に立っていた男が顔を上げる。
 能面に覆われた男の顔は、血飛沫で染まっていた。










 1 / 2 のクラウン! Quarantaquattoro : Fury rose in her









 白い大地を登ってきた悲鳴に、いつきは唇を噛み締めた。
 来た。
 縋るように、ぎゅ、とハンマーを握りしめる。手に馴染んだ感触に自らを鼓舞し、折れそうな心を必死で支える。

 「怖ぇけど…オラやるよ。世直しのためだ」

 侍なんかいらない。大っ嫌いだ。
 奴らは何もかも奪っていく。米も、人も、命も。
 戦だといっては年貢を取り立て、畑を踏み荒らし、農民が丹精込めて育てた芽をことごとく潰す。
 そのくせ、強欲なことに翌年には更に重い年貢を要求するのだ。無理だと言えば、血刀をぎらつかせ見せしめの殺傷をする。
 何様だ。米一粒作れないくせに、どうして侍というだけで農民を抑えつける権利があるのだ。

 (おっ父、おっ母、オラ、頑張るだ…!)

 きつく目を閉じ、今はもう亡い面影に誓う。
 目を開けた時、周囲は騒然とした。

 「たっ、田吾作どん…!」
 「血、血じゃあ! だ、誰か早う手当を!」
 「ひぃぃ、五平―っ!」

 腹を押さえ、あるいは切り落とされた腕から血を滴らせ、馴染みの顔が命からがら逃げてきた。
 ぷんと嗅ぎ慣れない臭いが雪の上を這ってくる。
 軽傷の者に背負われていた男がぐらりと傾ぎ、物体としての音をたてて雪原に転がった。衝撃にも反応しないどろりとした瞳が、彼が事切れていることを雄弁に語る。
 誰かが吐き戻す音がした。

 「みんな…!」

 いつきはふらつく足で、怪我人たちの方へ寄っていく。いつきちゃんは見ちゃ駄目だ、そんな制止が聞こえたが、構う事なく荒い息を吐く男たちのもとへ行く。
 いつきちゃん、腕を斬られた田吾作が、脂汗を滴らせながら呻くように呟いた。彼の次の声は呻きに変わる。
 悲鳴と泣き声が、満ちていた。

 「お侍は…なして、奪うだ。なして」

 腕を失えば、最早田畑を耕すことは叶わない。わらじを編むことも、田楽踊りを踊ることも。
 いつきは唇を噛みしめた。

 「お侍なんか…大っ嫌いだ!」





 「テメェは…農民じゃねぇな」

 血刀を提げた白装束と慎重に距離を測りながら、小十郎はあたりを付ける。
 武具甲冑の慣れ具合、なにより白装束の気配から、彼がこの戦の第三者であることはわかる。しかし本来染め抜かれるなり象るなりされている家紋を彼は持っていなかった。
 小十郎は考える。この戦に第三者が介入する意味、それによって利益を得る勢力、そしてそれを実行する人物について。
 正直なところ、敵は数えきれない。周辺の諸大名に限らず伊達家勢力下の小大名にも介入する理由や利益はあるのだ。
 例えば先頃降した武田や北条にも動機はある。ただでさえ彼らは敗戦国だ、伊達家中を撹乱し、その隙に独立を取り戻そうとする動きがあってもおかしくない。
 しかし、それをするだけの力が今の彼らには無い。
 武田は独立するだけの軍事力が削がれたし、北条に至っては事実上軍が解散している。
 小大名に独立を維持するだけの力は無く、隣国の謙信はこのような手段は用いないだろう。彼と数度にわたり戈矛を交えた信玄の話を聞いても、それは確信できる。
 ならば何者、と考えた時、小十郎の脳裏に一つの可能性が浮かんだ。

 (まさか…!)

 戦に介入する意味、利益を得る勢力、実行する人物。
 できるかぎり農民感情を考えなければならないこの戦で、農民・政宗構わず牙を向ける勢力、それは。

 椿の向こうの、冷やかな美貌。政宗に憎悪を抱く、ひと。

 (貴女というお方は…!)

 歯を噛みしめた。苦い味が胸中に広がる。暗闇の中の背中を思い出した。それは幼く、それは大きく。
 小さな背中は竜と呼ばれるほどに成長した、それなのにどこか危うい印象はむしろ濃くなっている。悲しみが潜んだ、小十郎の主の背中。

 黒幕の目星はついたが、しかし僅かな疑問が残る。
 目の前の白装束はなんなのか? 反政宗派であっても奥州の者なら、小十郎が知らないはずはない。
 金で雇われる傭兵か、あるいはどこかと手を結んだか。後者なら厄介である。身中の虫と結託されては駆除がしにくい。

 小十郎が舌打ちした時、白装束は一気に距離を詰め、血濡れた刀が驚くべき速度で強襲した。
 咄嗟にこちらも刀で弾く。ギャリンと受け流された攻撃の隙を小十郎が狙う。胴ががらあきだ。返す刀のその攻撃を、白装束は後ろに飛ぶことで避けた。刀の切っ先が白装束の着物を裂く。
 今度はこちらの番とばかりに小十郎は強く踏み込み、繰り出された追撃を白装束の刀が阻む。
 それを見越して蹴りを叩きこめば白装束はあっけなく吹っ飛んだ。しかし敵も然るもので、巧みに動かした刀に二の腕を斬りつけられる。
 深くはないようだが、滴った血が雪に斑を描いた。

 「やるな。…だがオレも伊達に右目と呼ばれてはいねぇ」

 脇腹を押さえ、白装束は立ちあがった。能面から僅かに見える口が歪んでいる。
 小十郎が踏み出せば、白装束は一歩下がった。

 「成程、強いな」
 「殺しはしねぇ。吐いてもらわなきゃならねぇことがあるからな」
 「断る。オレたちの仕事は、もう終わった」
 「なに…?」

 訝しんだ一瞬をつき、白装束は小さな玉を地面に投げつける。刹那、ドォンという音が響き衝撃が小十郎を襲った。舞い上がる雪煙。
 火薬玉だったのだろう。視界が回復した時には、白装束が逃げおおせたあとだった。

 「チッ…! 厳しい戦になりそうだな…」

 小十郎は舌打ちし、恐る恐る覗いていた伊達兵士たちに怪我人の救助を命じる。
 もちろん、伊達兵士も農民も、区別などはしなかった。
 そうこうするうちに政宗が追いついてきたので、伊達軍は進軍を再開する。
 政宗は心なし嬉しそうであったが、その采配は的確だった。本陣は無事だったと彼は言った。その唇が少しだけ微笑んでいたのが少し気になったが、小十郎は報告を優先する。
 正体不明の強襲者と小十郎の推測を聞いた政宗の口元から、すっと笑みが消える。
 老獪な為政者のように冷え冷えとし、どこか幼い陰鬱さを漂わせた暗い瞳は、ただ前を向いて「そうか」と言った。





 その特徴的な兜が見えた時、いつきは怒りで目の前が白くなるのを感じた。
 次いで現れた男の全身像、その腹のあたりに散った血痕に、炎が燃え上がったように体が熱くなる。
 青い陣羽織を着た男は、一つだけ残った眼でいつきを見た。まるで肉食獣のような、力を持つ者の瞳。
 怖くないはずがなかった。ぎらりと光った刀に、気が遠くなるようだった。
 でも、それ以上に。

 「オラは……おめぇたちを許さねぇ!」


 いつきVS小十郎の単独戦にしようか、
 最後まで悩みました…
 夢なのに夢主出てきてないよ!
 080913 J

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