初夏とはいえ夏である。 湿気が高く、入道雲が我が物顔にのさばる、南風に乗ってやってきた、夏なのである。 加えて時刻は夕暮れだった。 これが意味するところはつまり――― 「お?」 「む?」 「あ」 ぽとり、鼻先で雫が弾ける。 急速に曇った空からの最初の一滴は、アメリカンホラーのように猛烈な勢いで背後から迫ってきた。 「ぬあああ?!」 「は、走りましょう殿! 上田城はすぐそこでござる!」 「もう遅いよ旦那」 どざざざざざざざざざ ―――夏の風物、夕立である。 1 / 2 のクラウン! Quattro : 不思議生物T 〜幸村、ノゾキをする〜 上田城は近かった。 「30分走り通しを近いというならば……!」 は門前で心底から呟いた。 日本人はマラソンでよくメダルを取るから、30分のランニングなど朝飯前なのだろうか。 毛先から爪先までびしょ濡れのは震える体を抱き締めて唸った。 恐るべし、ジャパニーズ根性。 帰国子女は、鍛え抜かれた逞しい筋肉を惜しげもなく晒す日本男児を、濡れて貞子のようになった髪の隙間から見つめた。 赤い特攻服は色落ちしそうなほど濡れに濡れて、彼の筋肉を浮かび上がらせている。 佐助にしても、鍛えられた背筋が丸写しだ。(彼の場合、重力に屈した頭髪に目が行く) 水も滴るいい男というやつか。色っぽささえ漂う。 (団長が見たら喜ぶだろうな) 他にも何人か喜びそうな連中が思い浮かんだ。 何度か手を出そうとしてきた不届き者もいるにはいるが、基本は気のいい連中だ。 もちろん不届き者には制裁を下したが。 ………方向性は違えど、もしっかり日本男児だった。 宇宙最強の野生児と野菜王子が殴りあう傑作漫画のような筋肉は、そういった連中とは別の意味での目を引いた。 身の軽さが身上のクラウン見習い・にとって重過ぎる筋肉は妨げでしかない。 しかし、男として幸村や佐助のいいガタイは、そんな事情をすっとばして羨ましかった。 永遠の憧れというやつだ。 その上、許し難いことに二人は整った精悍な顔まで首の上に乗せている。 幸村はまだ少し幼さが残るが、佐助などハリウッドのアクション俳優ばりのマスクだ。 羨ましい。 一向に男らしさを醸す気配のない女顔は、時として無性に劣等感を煽る。 もちろん、仕事の上では都合はいいのだが、そこはそれというやつだ。 女性が美しさを求めるように、男性は精悍さを求めるのである。 第二次性徴期に見放されたようなは、一度思い余って整形を考えたことがある。 怖いしお金もないので諦めたが、ゴルゴ並みの太い眉といかつい顔がプリントされた広告は大事に持ち歩いていた。 お守りにしようとしたのだ。 ところが何かの拍子にそれが同僚の目に触れ、涙ながらに説得された。 一番熱心だったのはダンサーのお姐様方だ。 真剣に泣きたかった。 何が悲しくて、美女たちから「男らしくなるな」と哀願されねばならんのか。 仕方がないからお星様に「かっこよくなりたい」と願ってみた。 お姐様方に睡眠不足の罪について諭された。 仕方がないから恥を忍んで同僚の野郎共に聞いてみた。 夜の酒場(そういうオネーサマ付き)に放り込まれた。 仕方がないから最終手段で教会に行ってみた。 「神はそのままのあなたを愛しています」 ―――神様は少年趣味かと思った自分に罪はない。 「あの……殿……」 苦い記憶を噛みしめていたに、幸村が遠慮がちに声をかけた。 物思いに耽っていたはぱっと我に返る。見れば、幸村も佐助も居心地悪そうに彼をうかがっていた。 「わ。ごめん、何か言ってた?」 「いや、何も言ってはおらんが……」 「の旦那、じーっと俺様たちを凝視してるもんだからさ。しかも恨みの篭った視線で」 びしょ濡れで垂れた髪の隙間から爛々と輝く目だけが覗いていたのだ。怪談もいいところである。 は慌てて胸の前で両手を振った。 「なんでもないよ。水も滴るなんとやらって思ってただけさ」 「嬉しいこと言ってくれるじゃないの」 「しかし、本当にずぶ濡れでござるな……」 「旦那の帰還に合わせて下女たちが用意してたそうだから、もうすぐ風呂が沸くはずだよ」 「おお、ありがたい! 殿、よろしければ拙者と一緒に入りませぬか? 」 そのままでは風邪を引いてしまうと、半裸の上ずぶ濡れという寒々しいことこの上ない格好で言った。 お前に比べりゃ温かかろうと思う。 濡れたりとはいえ、は大きめのサイズのジャージを着ていて、下にはアンダーウェアなど、すぐに芸の練習ができる格好が整っている。 濃い一日だったので忘れそうだが、彼は朝イタリアから日本へ放り出されたのだ。 「俺はいいから先に入れよ」 「遠慮はいらぬ! 男同士、背中の流し合いをしようではありませぬか!」 「裸の付き合いまで打ち解けちゃいねーよ!」 の脳に刷り込まれているのは、冬場の秘湯の光景である。 あれだ。 猿の温泉だ。 山のお猿が徳利を傾けつつ仲間の背からシラミを取って毛繕いをしているあれだ。 幸村の頭にシラミがわいているなどというつもりは毛頭ないが、固定観念というのは強固なもので、にはすっかり裸の付き合い=毛繕いという図式が成立している。 この場合の毛繕いは、ダンサーのお姐様方のいわゆる髪の毛遊びも含む。 ( 男同士であんな遊び で き る か! ) 彼は真っ当な青少年であった。 一方幸村は手厳しい拒否にがっくりと肩を落とした。 慰めのつもりか、佐助がしゃがみこんでいる。旦那元気出して! (ていうか旦那、警戒心なさすぎ! 一応の旦那は不審人物よ?) (しかし、殿は全く怪しさなどないではないか…!) (その気持ちはわかるけど、まだまだ要注意。ったく、何かあったら俺様の仕事が増えるんだから自重してよ) (佐助…! お前は殿を信じられんのか) (今は、まだ無理だね) (なんという奴だ!) (これが仕事なもので。旦那ときたらすーぐに警戒心解いちゃうんだから) (殿は信ずるに足る! あの韋駄天振りを見たか!) ぷりぷりと怒る幸村を宥めているのか煽っているのか。 とにかく落胆を忘れさせた佐助の手腕は見事だが、ひねくれていると言えなくもない。 素直に幸村が心配だと言えばそれまでなのだが、それでは幸村の出方が望ましくない方向に向かうのは目に見えている。 そのことを考慮したとしても、佐助の弁舌は巧みだった。 佐助としては、この若木のように真っ直ぐな幸村が可愛くてしかたがないのである。 彼はきっと、空はどこまでも青く広く、燦々と美しいと思っている。 血で血を洗う合戦で勇名を轟かし、踏み越えた屍の数だけ悲惨な現実を見ていても、幸村は世界の美しさを信じていられる人間だ。 そんな彼の生き方は、佐助の荒涼とした心を少し変えるのだ。 だから佐助は幸村の傍を離れようとしないし、彼のためならどんな卑劣な手段にも手を染める。 彼の体を凶刃が貫こうとするならば相手の喉を掻き切るし、それが叶わぬなら我が身を楯と変えるだろう。 佐助は幸村という若木を高く太く育てたいのだ。 盲目と笑わば笑え。 何といわれようと、一番大切なのは幸村だ。 幸村のためならば佐助は何でもするだろう。 彼はとても慎重に、時に捻くれ、念入りに幸村を甘やかしている。 だから、を疑う役回りは佐助のものだった。 (どっちにしろ上田城の湯殿はそんなに広くないからね。旦那は馬鹿だから風邪は引かないだろうから、の旦那を先に入らせてやりなよ) の旦那、あんな細っこい体じゃすぐに風邪を引きそうだ。 佐助はちらりと視線を走らせた。 見慣れない着物が華奢な体に張り付いて寒そうだ。唇など色を失くしている。 着膨れするタチなのか、先ほどより一回り小さくなったは、女顔も相まって少女のようだ。 ………やっぱり一緒に風呂など無理だ。 男のくせにあんなに女っぽいのでは、まかり間違ったら幸村は絶対に叫ぶ。 (うむぅ…) (ほらむくれない。どうしてそんなにこだわるのさ?) (お館様が、人間関係の基本は裸の付き合いだと言っておられた) (そっか) 大将、シメる。 佐助は笑顔の裏で決意した。 ひよこのような幸村はすぐに刷り込まれて妙な知識を信じてしまう。 誤解を解くのは佐助に丸投げして、磊落に笑う信玄が武田の日常なのだ。 佐助にも堪忍袋というものがあるので、その緒が切れるたびちまちまと嫌がらせをすることにしていた。 居室の壷に大量の羽虫を閉じ込めて蓋をしたり、家臣が目撃するように痔の薬を送りつけたり。 もっとも、標的はその大抵を笑い飛ばしてしまうのだが。 (もう少し親しくなってから頼んでみなよ。ほとんど初対面で裸は、の旦那には恥ずかしいんでしょ) (……うむ、わかった) しぶしぶながら幸村は納得したようだった。 佐助は矯正の苦労を思いやりつつ、先に風呂に入るよう勧める幸村を見守った。 (あ、の旦那が入ったら、荷物調べでもしますかね) 幸村の勧めに感謝しつつ荷物を佐助に預けたは、脱衣所で呆然と立ち尽くしていた。 濡れて重い衣服は脱ぎ去り、今は寒さで鳥肌の立ったすっぽんぽんである。 だが、ひょっとして自分はまだ何か着ているのではないだろうかと疑った。 例えば仮装用のタネ服とか。 例えば宴会用のネタ服とか。 (平地が肉まんで竹の子が平地で……?!) 何故。 何故。 ふに、 「やわらかい……!」 打ちひしがれた。 目ん玉飛び出そうなくらい、驚いた。 全裸の背中に煤けた影が差す。 もともと華奢な背中だが、今は輪をかけて華奢だ。腰なんてしっかりくびれてしまっている。 蝋燭の仄明るい光に浮かんだ陰影は、どう見ても女性のそれだった。 発展途上の、という修飾はついたが。 「こんな嬉しくないやわらかさって……!!」 メタボか。十代にしてメタボなのか。 がっくりとは項垂れた。虚ろな瞳でメタボメタボと繰り返す。 世にこれを現実逃避という。 の右手は、自身の右胸に添えられていた。 細い指の間から記憶より白さを増した肌がのぞく。 掌に感じるのは、贅肉贅肉と念じている柔らかい盛り上がりだ。 それは少女らしく蕾んだ、慣れ親しんだイタリア人女性どころか日本人女性に比べても控えめな、乳。 どう逃避しようと、乳首を中心に同心円状に広がるそれは、紛れもない乳房であった。 AかBか微妙なラインだ。 揉んだ手応えから男の性で値踏みするが、直後に“それら”が自分の体に繋がっていることに思い至って死にたくなる。 がっくりと脚をつく。脚のラインはなかなかだ。………ってうおおおおおおい!!!! 女顔だの可愛いだの言われ続けてはきたが、は正真正銘の男。雄。ヘテロ接合体。間違ってもまろいラインだとか乳房だとかはなかったはずだ。 それなのに今、17年の真実が音を立てて崩壊する。 俺ってば幻想の上に生きてきたんだろうか。 だとしたら自分は一体何だ。架空の人物か。この物語はフィクションです。 笑えやしない。 「寒…」 落ち込んで座り込んでいたはぶるりと身を震わせた。 雨に濡れた体は芯まで凍えている。 もういい、実存主義もダーウィンも風呂に入ってから考えよう。 キルケゴールやサルトルを追い出して、は湯殿に続く戸へとふらふら歩み寄った。 その時である。 「殿、着替えをお忘れでござる!」 勢いよく脱衣所の戸が開いた。文字にするならスパアァァン! という威勢のいい音である。 そして同じく威勢のいい口上と共に飛び込んできた幸村は、その場で笑顔を凍らせた。 熱血系の笑顔が一瞬で赤く茹で上がり―――いや、むしろ染まった―――、経験に学んだはすぐさま両手で耳を覆った。 その結果無防備な胸がさらけ出され、 「プぁれんちでござりゅうううううううううぅぅぅううぅううううぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!!!」 絶叫一過。 掌を覆ってさえ鼓膜に重大な試練となる雄叫びと共に、幸村は着替えの浴衣を放り出して走り去った。 涼しげな若草色の浴衣の襟に、鮮やかな鼻血が点々と散っていた。 |
らんま1 / 2 をもじってた理由。 まだ本編にはそんなに絡まない設定です 080124 J |
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