ようやく仕事から解放された政宗は、遅ればせながら祭りを楽しもうと夜陰に紛れて城を出た。今は小川のせせらぎに沿って歩いている。少し向こうでは、祭りの篝火が焚かれていた。
 月に照らされた小川は黒々とした水面を白く踊らせ、秋風に吹かれるススキがさわさわと青銀色の波を作る。
 風に運ばれてくる祭り囃子が不思議な哀歓に彩られているように感じた。

 (らしくねぇ)

 政宗は苦笑する。どこかの風来坊じゃないが、折角の祭りを憂鬱に過ごす趣味はない。
 そろそろ祭り会場に行くかと足を向けた時、何かが物凄い勢いで飛び込んできた。鼻をつく濃い血臭と土の匂い。

 「忍か?!」
 「ぁ……!」

 叫び、刀を抜こうとした政宗に怯えるように、喉の奥でひっかかったようなくぐもった悲鳴が零れおちた。どこかで聞いたことのある音。
 声の主はかなりのスピードで走っていたが、政宗を避けようと無理な方向転換をする。しかしそれは所詮無茶な動作で、過酷な労働についていけなくなった脚がずるりと滑る。

 「………ッ!」

 声にならない悲鳴を上げて、闖入者は河岸を転がり落ちた。数秒もせずに派手な水音。草と水の匂いが周囲に漂う。

 「わっ、うぶっ…」

 足が立つ浅瀬のはずなのに、途切れ途切れの悲鳴と共に必死であがく。どうやら泳げないらしい。それとも気が動顛しているのか。
 そのままでは本当に溺れてしまいそうなので、政宗は刀を収めて小川に分け入る。水が冷たい。

 「Hey, are you ok?! Calm down! ここは浅瀬だ!」
 「ぃ、うわぶ、はふっ」
 「……っのくそ、掴まれ!」

 手を伸ばしたら物凄い勢いで掴まれた。意外なほどの力の強さだ。これが火事場の馬鹿力というやつだろう。
 思わず引き倒されそうになって踏みとどまる。が、苔むした石を踏んでしまって、

 「Oh?!」

 ばっしゃーん。バランスを崩して濡れ鼠だ。水面に顔を出そうとしたところを細い指が絡みつく、畜生やっぱり忍か?!
 しかしそれはパニックに陥っているためらしく、ひっくり返してやると闖入者は政宗に構うことなく必死で酸素を求めていた。その見るからに溺れている動作に、政宗は正直毒気が抜かれた。
 「あー、ったく」今度はパニックに巻き込まれないよう、気をつけて水から引き揚げてやる。荒い息を繰り返す体は痛々しいほど細かった。

 「た、助かった……!」
 「………アンタな、ちょっと冷静になれよ。ここ浅瀬だぜ、you see?」
 「だって死ぬかと思ったんだ……!」

 乱れた呼吸を整えていた闖入者は、ふと我に返って甲高く色気のない悲鳴をあげた。ぎゃあああああっ。
 耳元で叫ばれ、力一杯突き飛ばされた政宗は苛立ちを露わにする。

 「Hey you……恩人に対して、これがアンタの礼か?」
 「だだだだって近い近い近い………!」

 闖入者はばしゃばしゃと辺りを手探りする。最初に帯を探ったのは、そこに護身具でもしまってあったからだろう。川床を探って適当な石を拾ったということは、それはどこかに落としてしまったのだろう。
 暗くてよく見えないが、闖入者は恐怖に顔を歪めているに違いなかった。声が震えている。
 政宗は舌打ちする。そんなにこの独眼は怖いか。しかし彼はすぐに、それが思い違いであったと知る。闖入者は片手に石を構え、もう片手で着物の袷を握りしめている。
 それがどういうことを意味するか察して、政宗は鼻で笑った。

 「Ha! 思いあがるんじゃねぇよ、誰が男なんか相手にするか! ………ましててめえじゃあな、!」

 闖入者はだと、政宗は確信していた。最初ぶつかりそうになったとき聞こえた悲鳴、あれはの声だった。
 冗談じゃねぇ、と政宗は思う。
 男色の趣味があると思われただけでも業腹なのに、よりにもよって怪しさの塊のようなに手をだしてたまるか。
 見張りにつけたはずの成実の姿がないのが気になった。は血臭を纏っていたから、万が一にも成実に限って死ぬことはないだろうがもしかしてという思案が頭を巡る。

 (どちらにしたところで、ただじゃすまさねぇ)

 政宗は鯉口を切る。
 せせらぎをの悲鳴が掻き消した。











 1 / 2 のクラウン! Trentuno : Kyrie eleison









 冗談じゃない、というのがの心境だった。
 折角男たちの手を逃れたのに、政宗に殺されてはなんのために必死で抵抗したのかわからない。
 政宗の目には殺気が漲っている。監視下に置かれているはずのが一人で出歩いていることに、物騒な想像でもしたのだろう。成実を襲ってまいたとか。

 (確かに物騒な目には遭ったけどシゲザネは関係ないんだよ! あああでも男に襲われたなんて言えねぇし何言っても今のこいつは信じねぇよきっと!!)

 背筋が氷のように寒かった。圧倒的な殺気に身が竦む。
 しかし経験というのは恐ろしいもので、の頭の芯は冴えていた。
 どうする、こいつはきっと俺を逃がさない。背を向けた途端に斬られるだろう。かといって戦おうにも力の差は歴全。考えろ考えろ、何か使えそうなカードがどこかにあるはずだ。

 (そうだ!)

 「だ、誰だよって!」
 「Ah……? 誤魔化そうったってそうはいかねぇぜ」

 叫んだ声が普段より一オクターブ高い。これだ、とは思う。
 自分でもすっかり忘れていたが、には切り札があったのだ。ましてここは川の中。全身ずぶぬれ。自分の体が今どうなっているのか、想像したくもないが想像できた。
 は悪趣味な神様のプレゼントに今全力で感謝する。これならきっと誤魔化せる!

 「誤魔化してないよ、さっきから聞いてりゃ男とか言うし誰とも知れん名前呼ぶし、しかもなんで殺されそうになってるわけわたし!」

 演技には自信がある。女の子の振りなら尚更だ、伊達にストーカーに着けまわされたわけじゃない。
 政宗が怪訝な顔をした。

 「おいおい…頭でも打ったか? 確かにてめぇは女みてぇな顔していたが、正真正銘男だったじゃねぇか」

 はよく着物を着崩して、貧相な胸板をさらしていたのだ。
 そのたびに政宗がからかったので喧嘩になったが。

 「重ねて失礼だなこの野郎! 洗濯板で悪かったな、これで文句あるか!」

 叫ぶや、は政宗に近寄ってその手をとる。のどに刀の切っ先が触れたが、怯むな叫ぶな怖がるのは後で。
 太い手首を掴み、着物の袷から滑りこませた。冷たい肌に他人の皮膚の感触。剣胼胝が掠めて痛かった。
 気持ち悪さが心中で弾ける。畜生何で俺がこんなこと。しっかり「」でないことを認識させなければならないとわかっていても、唇を強く噛みしめた。
 (これは俺じゃない触られてるのは俺じゃない、だってこの体は女なんだから)。必死に自分に言い聞かせる。

 一方、ささやかすぎる膨らみに触れた政宗は頭が真っ白になっていた。
 だっては男で、え、でもこのやっこいのは嘘だまさかそんな!
 二人分の皮膚を隔てた鼓動が早鐘のように鳴っていた。どくどくどくどく。同調するように耳元で血管を走る血の音が騒ぐ。

 硬直した手が事実認識に従って動いたのが運の尽きだった。

 「…………っ! 揉んでんじゃねーよこの変態いいいいっ!」

 すっぱーん。
 いっそ気持ちいいくらいの平手が決まった。
 そのまま慣性の法則にしたがって、彫像のように固まった政宗は背後に倒れる。左手が小さな胸を離れ、袷に引っ掛かったのでもつられて倒れこむ。

 「ぎゃーっ、最悪離せ退け消えろ変態!」
 「っ、アンタのせいだろうが!」
 「やかましいスケベ!」
 「条件反射だ!」
 「なお悪い!」

 濡れ鼠二人は起き上がるや言い争い、睨みあって同時に顔を背けた。
 唐突に静かになった夜をせせらぎが控え目に埋めていく。
 体が冷えてきて、は両手で己を抱きしめる。震えていた。

 「ひっぐし、へっぐしょ!」
 「……せめてもうちょっと色気のあるくしゃみはできねぇのか……」

 政宗が呆れたように呟いた。そんなこと余計なお世話である。
 元々は男なのだからそんなもの求める方がどうかしている。

 鼻をすすりあげたに、政宗は「Ah―…」と頭を掻いた。責任を感じているらしい。
 しかし上着でも持っていたらよかったのに、二人とも上から下までずぶぬれである。濡れた着物をかけてやっても救いどころか嫌がらせだ。

 「……I’m sorry, 悪かった。人違いで殺気まで向けちまった」

 は内心ガッツポーズだ。あとは政宗に気づかれぬうちに湯を浴びてしまえばいい。

 「だが、アンタは何者だ?」

 声が鋭さを帯びた。血の匂いをまとわりつかせていたのを勘ぐっているのだろう。
 好きなだけ勘ぐれ、とは心中豪語した。今の体は本来のではない。政宗にとってもにとっても掴み切れない、男どもの永遠の命題、神秘の女体なのである。
 手始めには適当な偽名を名乗ることにした。ぱっと浮かんだ曲の題名である。

 「キリエ。仕事は芸人」
 「よりにもよってと一緒かよ……!」
 「あのさあ、わたしなんて本当に知らないからね。商売敵? そんな名前聞いたこともないよ」

 は今まで一度も城下町に出て曲芸していなかった。だから名前が売れているはずがない。

 「OK. そういうことにしとこう。次の質問だ」
 「一々失礼な男だなこの野郎……」
 「アンタ、あんなに血の臭いさせて何をしていた?」

 来た。
 は内心ほくそ笑む。
 しかし表面上は物凄く嫌そうな表情を取りつくろう。羞恥も顔色に滲ませる。このあたりの演技は悪魔技と言う他ない。

 「え、それ言うの? 言わなきゃダメなわけ?」
 「言え」
 「くっそ何様だ…! なんでアンタにそんなこと言わなきゃならないわけさ…!!」
 「言いたくねえってか? それなら…」
 「か、刀向けないでよ危ないなあ! 言う言う! 言うから!」

 うつむき、せいぜい恥ずかしがっていると見えるように。
 ぽつり。ほとんど無声音で呟いた。
 聞こえなかったらしい政宗は案の定もう一度言えと促す。その顔を睨みつけてやる。

 「だからっ、月、の、もの、だってば!」
 「…………ッ!」

 明らかに怯んだ。は内心爆笑である。もちろん表情に出すような愚は犯さない。
 挙動不審に視線をあちこちに投げ、政宗は最終的に体ごと視線を背けた。声がどもっている。

 「わ、わ、悪かった」
 「ほんとだよ。あーくそ、なんで見ず知らずの他人にこんなこと……」

 は立ちあがる。次のミッションは湯探しだ。
 ざぶざぶと水をかき分けて岸に上がったを、政宗は止めなかった。きっと後悔と羞恥で真っ赤に茹であがっているだろう。ざまあみろ。

 (意外と純情なやつ)

 川から遠ざかって、は思わず吹き出した。
 幸村と同じくらい、いじれば楽しい政宗だった。
 は忍び笑ったが、ふと口元がひきつるような痛みを覚えて顔をしかめる。
 唇の端に触れてみた。じくじくと痛い。
 男たちと乱闘していた時についた傷らしかった。一つ気付けば、体中で傷が存在を主張し始める。鉛のように体が重いのは、濡れているからだけではない。

 「Cazzo!(ちっ!)―――まあいいや、これくらいなら」

 それより早く「」に戻りたい。
 足を祭り会場の方に向ける。湯がいるのだ。
 頭に会場を思い浮かべたが、残念ながら湯のもらえそうなところはない。だが熱燗なら売っていたはずだ。

 「」に戻る算段をつけながらは会場に入っていく。まっすぐ酒屋に向かうと、「熱燗。桶に一杯」注文を受けた店主は顔をひきつらせた。「いらっしゃいませ」と言いかけた店員が凍りついている。周囲の客の視線も集まっていた。
 ずぶ濡れの女がそんなに珍しいかチキショーと心中口を尖らせ、は代金を払って桶ごと店を出た。
 野次馬どもがすずなりに店の入り口に群がっている。
 視線を避けて慎重に物陰に入り込むと、は熱燗を頭から浴びた。

 「あっつ! あーあ、もったいねー」

 物凄く酒臭い少年に戻った。犬のように頭を振って飛沫を飛ばす。あああもったいない。
 このおかげで助かったわけだがまったく変な体質だと思いながら物陰を出ると、何やら大声でわめきちらしている知り合いを見つけた。

 (げ)

 政宗と成実だった。通行人が何事かと遠巻きに見ている。
 今遭遇すると面倒極まりないどころかまた刀を突きつけられるかもしれないと考えて、はそっと人ごみに紛れようと後ずさりする。「あ!」ぎゃああ気付くなシゲザネこのバカー!
 が内心罵倒している間に二人がこちらに駆けてくる。人波の向こうにいたの全身が明らかになるにつれ、二人の険しかった顔が血相を変えていく。
 縮こまったを前にした二人は最終的に蒼褪めて絶句した。

 無理もない。
 子供のように二人の顔色を窺うは、彼こそ心配されてしかるべき顔色をしている。
 篝火に照らされてさえ、彼はいっそ紙のように白かった。青白いと言ってもいい。唇は病人のごとき紫色で、端に血のにじんだ傷がある。傷は額や頬にもあり、青黒い痣が無残に広がっていた。
 それは顔だけにとどまらず、全身に点在しているのである。乱れ、濡れた着物から覗いた肩に手の跡があった。不安げに胸の前で組まれた手首にも抑えつけられた跡がある。
 擦り傷が滲んだのか返り血か、着物には血痕が斑を描いていた。泥と共に着物を汚したそれは、致死量でないからこそ余計凄惨な感じがする。

 責めようと思っていた二人は、が自分から逃げたわけではないことを悟った。

 「……! ごめん、オレが離れたばっかりに……!」

 成実は傷だらけのを抱きしめた。濡れて冷え切った体。回された腕に一瞬の筋肉が強張った。
 (嫌だやめて離して、)条件反射で湧きあがる恐怖をねじ伏せる。大丈夫成実は同情しているだけだから。
 は眉を下げた笑顔を作る。せいぜい同情を煽ればいい。成実には発言力があるはずだ。彼の後ろ盾を得られるならいくら同情されたってかまわない、むしろ進んで利用しよう。

 「なんでシゲザネが謝るのさ。俺は平気だよ」
 「……!」
 「I’m ok. ちゃんと生きてるし大怪我もしてない。むしろ、こんなに心配してもらえてしあわせだ」

 微笑む。悲壮な顔をしていた成実はそれだけで泣きそうになる。
 としてはこれ以上ないほどに扱いやすい。柔らかい言葉を連ねればいいのだから。

 しがみついた成実の襟首を政宗が引っ張った。彼は難しそうな顔をしている。常の彼の顔と、の知らない大名としての顔がフィフティフィフティ。
 そこには心配と、それ以外の感情があった。僅かに警戒が混じっているのを見つけて、政宗を言いくるめるのは難しそうだとは思う。

 「Hey成実、上着脱げ」

 俺はずぶ濡れだから、と成実から上着をまきあげ、に投げて寄越す。

 「その上着を着ろ、城へ帰るぞ。成実、お前は先に帰って風呂を用意させろ。Now!(急げ!)」
 「了解! 、本当にごめん……!」

 言うや、成実は身を翻した。はぶかぶかの上着を羽織る。温かかった。やっぱり体が冷え切っていたようだ。

 「……帰るぞ」
 「Si, ……ねえマサムネ」
 「Ah?」

 はにっこり微笑む。
 これだけは言っておきたかった。

 「俺はね、楽しい祭りだったと、思うよ」


女verと遭遇。
キリエの名前変換はありません…!
080324 J

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