武田軍は負けた。
 それもただ負けたのではない。

 信玄は明らかになった真実に天を仰いだ。
 あの上田城襲撃から伊達との戦に至るまで、北条の描いた絵だったのだ。
 その北条も、伊達によって撃破されたと聞く。

 (見事なものよ)

 姑息ともとれる手段で信玄に退かざるを得ない戦況を突きつけた後、政宗は即座に和睦を申し込んだ。
 あまりに唐突かつ不可思議な申し出だが、これは渡りに船である。
 武田騎馬隊は壊滅、脚を撃たれた幸村、腹に穴を開けた佐助では、両手両足をもぎ取られたに等しい。
 追い撃ちをかけられないだけでもありがたいと思わねばならなかった。
 武田の敗北は、すでに必至だったのだ。信玄にはその和睦を受け入れる以外に道はなかった。

 武田にとどめを刺さなかった謎はすぐに解けた。
 政宗は、武田軍を叩いたその足で北条まで急行したのだ。
 後からわかったことだが、武田をダシに伊達の殲滅を企んでいた北条は、武田と伊達の戦端が開くや進軍を開始したそうだ。
 それを片倉小十郎率いる第二大隊がありとあらゆる罠、忍を使って食い止め、決着をつけた政宗の到着まで国境を死守した。

 政宗は事前に兵を四つに分け、それぞれに合った装備をさせて散開させていたらしい。
 武田との決着をつけた第一大隊はすぐさま鎧を脱ぎ棄てて軽量化し、北条までの道を拓いて待機していた第四大隊と合流。
 走りながら体力を回復できるよう、第三大隊(補給部隊)が地元民と共に道なりに糧食を備え付け、北条との戦場に近づくや、運び込んであった武具甲冑を引き渡した。
 武田との対戦の疲れをある程度癒した主力部隊は、その場で武装して第二大隊と合流、見事北条を打ち破った。北条氏政はわずかな手勢と共に落ち延び、小田原城に籠ったと聞く。
 奇策を用いながらあれほどの大敗を喫しては、氏政の命運が尽きるのももはや時間の問題であろう。
 (ちなみに、第一、第四大隊が脱ぎ棄てた鎧や鉄砲は第三大隊が回収していった)


 合戦中、伊達軍が異様に少なかったのはそのためだったのだ。


 独眼竜は、北条の引いた図すら描き込んでいたのだ。
 何も知らず踊らされていたのは信玄だけである。
 それは苦々しい事実であったが、それ以上に伊達政宗という男の大きさが胸に快かった。

 彼にとって、今回は絶体絶命というべき危地だったのだ。
 それを鮮やかに潜り抜け、逆に北条を呑みこみ、甲斐にすらその波紋を広げている。

 「なるほど、竜だのう」

 彼の戦術を地元民が助けたというのも良い。
 民を大切にしている証拠である。
 信玄は機嫌よく、己を下した男の国の方角を見遣った。











 1 / 2 のクラウン! Ventuno : Duty and Desire









 零れ落ちる命を留められないのは、この手が小さいからだと思っていた。
 自分を抱き締めて冷えていく体。
 幼い手を引いた、自分よりずっと強く大きいものだった手は白い屍肉色となって力なく垂れている。
 冷たい手にもう一度温度が宿れば、零れた時が巻き戻る気がして、必死に物体となった右手を擦り続けた。
 擦り合せた手のひらはやがて皮膚が剥け、ひりひりと痛いばかりだったが、事切れた人は、泣いても叫んでも二度と動くことはなかった。



 浮上した意識が一番初めに捕らえたのは、右手を擦り続ける手のひらだった。
 思わず空いている方の手でその手首を捕まえる。びくりと震えたその人の名を、佐助はゆっくりと呼んだ。

 「―――だんな」

 叱られた子供のような表情で、幸村は佐助の視線を受け止めた。
 びくびくと怯えるその目を佐助はよく知っている。

 (だめじゃない、いやしい忍なんかを心配してそんな顔をするなんて)
 
 「俺様は生きてるよ」
 「ぁ……」
 「また、あの夢を見たんだね?」
 「さす、け」
 「うん?」

 幸村はそろそろと、両手で佐助の右手を包んだ。
 そうしてようやく安堵する。
 その手が温かいことに、子供のような笑顔を見せた。

 ―――幸村は、父と兄を一度に亡くしている。
 特に兄は、身を挺して幸村を凶刃から庇い、彼を抱きしめたまま絶息したのだと聞いている。
 伝え聞いた話なのは、その時佐助は任務に出ていたからだ。
 急の知らせを受けて駆け付けた真田の屋敷で、佐助は、ふくふくとした手に血を滲ませながら、死んだ兄の右手を擦る幸村を見た。

 その情景は幼い記憶に焼きついたらしい。
 佐助は何度か生死の境を彷徨ったことがあるが、目覚めればそのたびに右手を擦る幸村がいた。
 温めたら息を吹き返すのではないかと、本気で思ったというのだ。

 (心配かけてごめんね、旦那)

 胼胝の出来た手は壊れ物を扱うかのように、佐助の体温を慈しんだ。
 その優しさは、乾燥しきった佐助の心をほのぼのと包む。
 潤っていくようなその感覚が、彼はたまらなく好きだ。

 「拙者は愚か者だな」
 「そうだね。猪突猛進にも、ほどがあるよ」
 「うむ。……拙者はな、佐助。伊達殿が死ねばよいと思ったのだ」
 「そっか」

 淡々と、幸村の告解が空気に溶ける。
 二人の他に余人はない。ここは躑躅ヶ崎の一室らしい。どうやって帰ったのかはさっぱり覚えがないが、佐助も幸村も包帯の上に白い寝間着を着せられている。
 小さく震える子供の肩に、その白が痛々しい。

 「伊達殿は許せぬ。卑怯者だと、思う。しかし……拙者は、己もまた、許せんのだ」

 血の贖罪を捧げられたは、果たして何を思うだろう。
 あんなにも優しい、しあわせと笑う道化師は、己のために奪われた命を、奪った幸村になんと声をかけるだろう。
 興奮に酔っていた戦場の熱は引き、今はただ、露わになった醜さに吐き気を覚える。
 引きずり出された黒い感情。己の中にそんなものがあるなんて、知りたくなかった。

 (初めてだった初めてあんなにも人を、人の命を奪いたいと死ねばいいとあんなにも暗く深く願った、)

 戦場で渦巻くその狂気を、幸村は初めて持ったのだ。
 それはおかしなことだった。
 例えば明智光秀は、人を殺すことを第一に願って刀を振るう。
 アレは極端な例だが、戦場においてはそれが正しい姿だ。多かれ少なかれその狂気を持つべき場所でそれを持たないということは、幸村が正気ということを意味するものではない。
 殺意も持たない幸村はある意味、狂人であったのだ。

 彼がどうしてそうなったのかはわからない。
 けれど、殺意なく人を殺しながらそれを憐れむ幸村は、今回の戦で、その狂気を胸に抱いた。
 その黒い熱に呑みこまれた幸村を引き戻したのは、皮肉なことに正気も狂気も食い潰した忍の血。

 「お主の手が冷えていくのが怖かった。お主をそんな状況に追い込んだ己が憎かった。―――殿に、血を捧げようとしたことも、」

 この手は大きくなったのに、未だ守るすべを知らない。
 半身ともいうべき佐助の命が零れようとするのさえ、この手が起こした結果で。
 愚か者と詰った政宗の声が耳に蘇る。

 「……言い訳のしようも、ない」
 「旦那、」

 佐助は左手を伸ばして、しゅんと落ち込んだ幸村の髪に触れた。
 ぱさぱさとして、戦場の風に吹かれて、硬そうに見えるのに柔らかな髪。
 慈しむように梳きながら、主人をそそのかした忍は笑った。

 「俺様は、そんな旦那だから、好きなんだよ」










 「伊達に降る」
 「お館様?!」

 敗戦後の戦評定は荒れるのが必定。
 しかし、この度の暴風は規模が違った。

 衝撃的な宣言をした信玄は泰然としている。

 まだ完治しない脚を引き摺って出席した幸村は耳を疑った。
 今、お館様はなんと申された。
 あの伊達に降るというのか。

 確かに武田は伊達に負けた。
 騎馬隊は壊滅し、幸村も傷を負った。
 けれど、事実上の負けではあっても表面上は和睦なのだ。
 わざわざ下につく必要はない。

 (それに、あのような卑怯者に降る価値があるものか!)

 思いとどまるように説得する声が嵐のように吹き荒れた。
 もちろん幸村もそれに加わった。いくら苦しい戦いを強いられていたとはいえ、あの戦法には血も涙もない。
 彼は戦うこともなく、策謀と鉛玉で屍山血河を作り上げたのだ。
 そのような冷酷な人間に、甲斐を明け渡そうとする信玄の心中が読めない。

 激論が静まったのを機に信玄は口を開いた。

 「わしは、独眼竜を卑怯とは思わん」
 「何をおっしゃられます?!」
 「あれほどの卑怯者はおりませぬぞ…!」
 「あの者は、奥州を守り切った」

 奥州を襲った苦難と、それを乗り越えた経緯は既に全員が伝え聞いている。

 「しかしお館様、いくら困難な状況であったとしても、あのような命を命とも思わぬ振る舞いをする輩は、賞讃とは程遠う思われます。伊達殿は確かに奥州を守りました、しかしそれは、わが軍を卑怯な手段で蹴散らしたからです。そのようなものは、功績とは思えませぬ。まして、そのような輩に甲斐を渡せましょうや」

 幸村の反論に、信玄は静かに返した。
 その片頬に微笑が載っている。

 「では、わしも卑怯者と呼ばれような」
 「お館様……?!」
 「確かに人倫は尊い。しかしな幸村、国は綺麗事では守れんのだ。同じ状況になれば、わしとて同じことをするであろう」
 「まさか…っ。お館様がそのようなことをするはずがございませぬ!」
 「甲斐のためならば、わしは修羅にすら身を落とす」
 「……っ!」
 「国主たるものの覚悟よ」

 息を呑んだ幸村を諭すように、信玄はとうとうと語る。
 その言葉には力がある。
 強固な覚悟が滲んでいるのだ。
 言葉の一つ一つは覚悟に彩られ、凄絶な深みを垣間見せる。

 「わしもあの小童も、采配一つで己が国の未来を左右してしまう。間違いは許されんのだ。―――幸村、皆も聞けい。わしはなァ、甲斐が好きなのだ」

 信玄はやおら立ち上がると、障子を開け放って空を見上げた。
 からりと晴れ上がり、高くなりつつある空だ。
 残暑はやや薄らぎ、秋の気配が感じられる。
 今年の実りはどうだろうか。
 風に撫でられて靡く田圃が目に浮かぶ。
 もうすぐ黄金色の頭を重く垂れてくれるだろうか。
 その時、彼の民は笑顔を浮かべるだろう。
 子供らは雀を追って賑やかな声を上げ、脱穀する音が村々に響く。
 それを見るのが、信玄は何よりも嬉しい。
 その光景を守るためなら、鬼にもなろう。この魂さえ売り渡そう。

 「国主は国を愛する者よ。その国を守るためならばどのような手をも用いる。わしや伊達は、用いた手段のために非難されても、国が守られればそれでよい。あの小童も、卑怯者の誹りは甘んじて受ける覚悟で今度の戦をしたのであろう。それが国主というものだ。皆もことの顛末は聞いておるだろう、あれの領民は進んであれを助けた。それは独眼竜が信頼するに足る国主であるからよ」

 幸村の脳裏に、己の戦略に一言の言い訳もしなかった男が浮かんだ。
 己が腰抜けと謗ったあの男は、腰抜けの本当の意味を問うた。

 (あれは、こういうことだったのか)

 政宗は国主という立場にある。幸村とは背負うものが違う。
 その彼にとっての最悪は、国を滅ぼしてしまうことだ。
 彼は数多の領民の命に対して責任がある。
 卑怯者、腰抜けと詰られても、腹をくくって決断を下す彼は、愚か者ではありえない。


 その身を血の海に浸しても、彼は守ることを選んだのだ。


 (恥ずかしい)

 政宗は守ることを知っている。
 己をちっぽけな存在と揶揄した言葉が身にしみた。


今回最大の捏造:幸村の父も兄も生きてます
関ヶ原では幸村は父と西軍に属したし、兄は東軍に属してました
幸村死後も兄は徳川家に仕え、取り潰しを免れたそうです
080210 J


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