幸村が、自分を好きなことを知っていた。 彼はそれをとても早い段階で察知していた。 少なくとも、あの暑い血まみれの日、出掛ける幸村をはわずかな疑いをもって見送ったのだ。 (やめて、ほしい) は時たまひどく冷めた思いで、幸村の恋心に釘を打った。 これ以上進まぬように。 これ以上気付かないように。 それは非常に手慣れたもので、事実誤魔化しはうまく機能していたのだ。 幸村の純粋さを逆手に取る形で仕掛けられた罠に、彼はうまいことはまっていた。 佐助の動向すら計算に入れて、彼らは奇妙な均衡を保っていた。 (Minchia!(くそっ)) けれど、均衡は破られてしまった。 幸村の腕の中で、は苦々しく舌を打った。 1 / 2 のクラウン! Sedici : 愚か者の愛 U に男色趣味はない。 育った環境が環境だから例え親友がホモでも、自分にちょっかいを出して来さえしなければオールオッケー、無問題だ。 残念なことに親友というポジションはずっと空きっぱなしだったので、幸いなことにそういう状況になったことはなかったが。 しかし、ちょっかいを出されたことは何度かある。 そういう時は腕によりをかけて丁重にお引き取り願ったが、経験値の少ない頃はそううまくいかないことも多かったわけで。 いつからか熱を帯び始めた幸村の目を、は恐れるようになった。 彼の双眸には覚えがあった。 あれは暴発寸前の花火のように危ない。 幸村はとても純朴な青年だったから、彼の純粋さの分だけは恐れた。 純粋は時としてその持ち主を追い詰める。 追い詰められた恋情は、爆発せずにはいられない。 その爆発を恐れたは、できる限り工夫した。 友達と刷り込んでみたり、嫉妬心に気付いたらそれを巻き起こす行動を友人関係と結びつけたりもした。 それなのにその努力も虚しく、今幸村の両腕は彼の背中に回されている。 幸村は泣いてくれと言った。 は言いたい。お前のせいで泣きそうだと。 (こわ、い!) 自分を抱き締める男が怖くて仕方がない。 布を通して感じる体温は拷問器具か何かのように際限ない恐怖を与えてくる。 震えださないのがせめてもの救いだ。 頭が冴えていくのがわかる。 今のは、戦場と化した城下町を走り回った時とほぼ同じだった。 安全確保を最優先にした思考が恐ろしい勢いで回る。 荒れ狂う恐怖を押し込め、表面的に平静な精神が作られ、水のような冷静さが身の内に溢れる。 の唇が下弦の月のように持ち上がる。 「そのような契約は、結んでおりません」 どこまでも冷たい言葉。 幸村がぎしりと身を震わせた。信じられないものを聞いたというように肩口から顔をあげ、他人行儀に笑うに衝撃を受ける。 貼り付けたような微笑に途方にくれて眉が垂れた。 (もっとだ) 「私は道化としての仕事を契約として結んでおります。このようなサービスは契約内容を超えております」 「殿……?」 「もしユキムラ様が私と肉体関係を持ちたいとお望みでしたら、」 一切の容赦もなく事務的に。 綴られた文章の温度と婉曲を取り除いた表現に、幸村が身をよじった。 お前がその気なら容赦はしない。 自分の身は自分で守らなければならないのだ。 そのためなら、罪悪感でも何でも、徹底的に利用する。 「この体を売ることも、報酬によっては構いませんよ?」 「………ッ! なんということを……!」 怒りと羞恥の色に染まった顔に、は器用に片眉を上げて見せた。 まだ足りない。もっとえぐらなければ。 逆上しないギリギリの線まで追いつめて、二度と手出しできないほどの罪悪感を。 「そう望んだのはお前じゃないか。サナダユキムラ」 「……ッ、拙者はそんなことは望んでおらぬ!」 「じゃあなんで俺を抱くんだ」 「………ッ」 「俺の特別になりたいとでも、思ったんだろ?」 「…………」 「いいよ。俺はクラウンだもの。雇い主には逆らえない」 「拙者は……ッ、」 幸村はの微笑を見ることができずに俯いた。 友達という枠を超えたいと思ってしまった彼は、その純粋さ故にの侮辱を反駁できない。 「抱きたいなら抱けよ。男役でも女役でも、望みのままだぜ?」 真綿で気道を締め上げろ。 道化は主人に逆らえないと何度だって吹き込んで、手を出そうとするたびに罪悪感を覚えるように。 きっと幸村はその罪悪感に耐えられない。 彼ほどまっすぐな心で生きている人間が、無理強いをさせられるはずがないのだ。 案の定、幸村の中で猛っていた火は大雨に打たれたように消えた。 離れていった腕に脱力しそうな安堵を覚える。 は心底ほっとした表情を作った。それを目撃した幸村が、また心を刺されて傷ついた顔をする。 (自虐に浸れ) 自分の行動を許すまじき暴走として認定すれば、それが膨れ上がる心を縛る。 安堵を隠そうともしないの狙いはそこにあった。 なんということをしてしまったのだと思っているに違いない幸村に、以前と同じ声音で言ってやる。 「なあユキムラ、俺にお前を嫌わせないでくれるな?」 「ぁ、……」 「友達でいたいんだよ」 去ろうと思えば去れたのに、上田城に逗留したのはそういうわけだ。 右も左もわからない場所で、幸村の近くは安穏だった。 それをは惜しんだのだ。 友達という言葉に幸村はびくりと震えた。 柔らかい微笑みを湛えて、はこんなにも愚かな自分を許そうとしているのか。 棘が巻きついて見えた二文字は、今では不相応な椅子だ。 それに座ることはどうしたって痛みを伴うだろうが、放逐されるよりずっと良かった。 座る資格など我が手で葬ったに等しいのに、貪欲な自分に吐き気がする。 「申し訳、ござりませぬ……」 「友達でいてくれる?」 「拙者、には、そのような価値は」 「俺がお前に友達になってほしいのは、その価値をお前に見出したからだよ」 「………! 殿……!」 今はまだ。 は胸中に呟きを落とす。 縁を切ることもできるが、この危うい情勢においてはそれは得策ではない。 必要とあらば、この体を差し出すこともやぶさかではないのだ。 は生き残るためなら何でもする。 佐助が理解したように、彼は手段を選ばない。我が身を夜叉に落とすことも、男娼に貶めることも。 そのが幸村を拒絶したのは、皮肉なことに幸村が本気だったからだ。 (本気のあいは怖い) は世の中を鳥のように渡っていきたい。 重い枷は、それがどんな感情であれ邪魔なのだ。 その枷に鋭い歯が付いているなら、なおさらのことだ。 哀歓は、軽く分け合うくらいが丁度いい。 「俺と友達でいてくれるな?」 「は、い!」 薄く微笑んだ申し出に、幸村は滂沱と涙して頷いた。 殿は優しい、その言葉に心の中でひっそり呟く。 お前が俺をあいさなければ、いくらでも優しくしてやるさ。 幸村が去った部屋で、は抱えた膝に顔を埋めた。 心臓が早鐘のように鳴っている。汗が噴き出て止まらない。全身の震えがおさまらない。 躑躅ヶ崎を去る準備をしなければならないのに、今は何もしたくなかった。 「Complimente(よくやった)……Sto bene(大丈夫)…Sto bene…」 幸村に掴まれた肩が、氷漬けになったように寒い。 大丈夫、もうあの手はここにはない。そう言い聞かせても恐怖は離れようとしなかった。 『俺、日本人でこんな容姿でしょ。多いんだよ、誘拐とか変態さんとか』 殺せる理由を問われた時佐助に語った言葉だ。 ちゃかして言ったが、ここに嘘は一切ない。 初めて海を渡った日から、不条理な手が何本もの肌を荒らした。 最初に暴かれたのがいつかは覚えていない。 気がついたら裏通りに引き込まれて、圧し掛かってくる獣の影のような闇に子供は震えるだけだった。 無遠慮な手、暴力的な衝撃は死神の鎌のように彼の喉を凍りつかせた。 白い小さな裸身は、ただその嵐が過ぎるのを何もかもを押し殺して待った。 幼い誇りも、人間としての尊厳も、悲鳴と共に呑み込んで人形のように扱われた。 愛の行為と謳われるそれは、獣のごとき真っ黒な恐怖を刻み込んで去った。 殺されると、何度も思った。 脆弱な体は死を招く。 恐怖は押し込めろ。 一撃で欲望を刈れ。 どんな手を使ってでも。 そうしてが作り上げられる。 あいは素晴らしいと嘯きながら、女の胸に抱かれながら、ただひたすらに恐怖する。 (俺は身軽く生きていきたいんだ) 酒場で交わされる情で愛は十分だ。 お互い暗黙のルールを心得て、決して深くに踏み込もうとしない。 戯れるようなそれは荒々しさとはほど遠く、お互いを全てと貪りあう恍惚とも遠い。 またにとって、身に受ける愛情は軽いものでなければならなかった。 (でなければ死んでしまう。あの闇に呑まれてしまう) 嗚咽のように喉が鳴った。 の目に涙はない。 その黒水晶を瞼で覆って、は膝を抱えたまま眠った。 こういうことがあった日は、いつも同じ夢を見る。 の夢に音はない。 色はついている。それは大体柔らかい色調で統一され、思い出の中のように美化されている。 けれどこの夢だけは、音も色も確かなものとして感じられる。 レースのカーテンに覆われたような世界は、春の午後の中にあるようだ。 生成色の光が満ちて、目に映る全てが練乳のように甘い。 朧な緑の向こう側で、子供のはしゃぐ声がさざめきのように揺れる。 ああ、あれは幼い日の自分だ。 庭の木に父が作ったブランコを軋ませて、世界は楽しいもので満ちていた頃の。 遊ぶ子供を両親が近くで微笑みながら見ているはずだ。 丸い指を向けた先にはいつだって温かい優しさがあった。 オルゴールのように綺麗なものばかりの世界。宝石のようなそれはお伽話の実在を信じさせていた。 あの主人公は自分なのだと、何の疑いもなく思っていた頃。 母の読んでくれる物語に胸をときめかせて眠りについても、目を開ければ昨日と同じ明日が続いていた。 花の香りのする風がふくふくとした頬を撫でていた。 子供はそちらに顔を向ける。 そこには世界で一番大好きな人がいるからだ。 あの人が来る。 あの人に会える。 「いとしい―――私たちの宝物」 木漏れ日に、月明かりに、枕元にあった微笑み。 永遠に失ってしまった、大切な人。 は彼女を愛していたし、彼女もを愛してくれていた。 おかあさん、と幼い声帯がたどたどしく震える。 甘えるように膝に抱きつけば、白磁のように綺麗な手が髪を撫でた。 それは綿菓子のようにしあわせな、夢だった。 |
今までで一番主人公の心情吐露 設定もあらかた出ました ……これ以上無いってくらいのフり方を連載前から考えてました だ、大丈夫なんでしょうか、ここまでしちゃって 080203 J |
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